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書きたかった。

おとこもすなるをおんなのあたしもと男が書いてウケたのは、中身かスタイルか知らないが、今はもっと匿名。顔が見えても外と内の性が同じとも限らない。そもそも性はふたつでないし。
さてさて、なんでこんなことを書くのかと問われれば、なにか文を書きたいのだよ。しかし書きたいことが見当たらない。だからだらだらと冒頭にボヤいたのです。日々頭に浮かぶ夢たちを組んで繋げてフィクションに。はたまた日常を書き連ねていく徒然スタイル。説教する気もなければ辛い泣き言を読んでくれとも思わない。立てよ、同胞と仲間を募る気もねえ。ただ、なにか文を書きたい。
そも、長い文を書くということは(想像だけど)設計図がいるだろう。いわゆる起承転結、序破急なんていうのに合わせて組み上げていくもんだろう。それがあたしはなんか書きたいってだけでフラっと書き出しちまうんだから書けるわけがない。それでも書き出したというのは勢いが欲しかった。部屋を少し片付けようかとものを動かしていくと現れてくる怪しい箱や怪しい袋、そんなのを開けてみると懐かしいものやおもしろいもの、見てもなんだか分からないものが出てくる。そういうものに出逢えるのには先づ、片付ける、という勢いが必要じゃない?だから書き出しは掃除を始める勢い。脳みその中を整理したいのかもしれないね。


僕の部屋では常に音楽が流れている。何かしらのメロディとリズム、そこに詩が乗っていたりいなかったり。そういう音楽が流れている。僕は音楽が好きだからそういうものに自分の思考行動が引っ張られる。良い方に動く時もあれば悪い方に動く時もある。なので今夜は音楽を止めた。ただサーっというブルーノイズが流れている。部屋の照明を落とし、暖かい格好をして少し落ち着きたいんだと思う。食事も済まし食後の薬も飲んだ。あとはただこうやって筆が進むのに任せてみよう、そう思った。
このブルーノイズ、ホワイトノイズやピンクノイズは知っているけれど初めて聴くものでね。なるほどこれはブルーだと思う。イメージとしては渓流や瀧のロウをやや削ってランダムにはみ出す音も削った感じ。環境音楽に近い感じだね。さてさてこんな環境の中で頭になにか浮かんでくるかしら。


近い未来のお話。
環境問題が大きくなりついに石油製品の生産は不可、残ったものは回収させていただければ自治体が見合った金銭を支払うシステムができあがった。木と石の世界が帰ってきた。電気は生きてるしいわゆる異世界だとは思わないでね。屎尿や屑野菜、生ゴミはコンポストして堆肥にしたりさ、紙や木材は砕いて圧縮してまた材木にして。
嗚呼、夢のリサイクル世界。
さて、ひとつ残った問題。ヒトの身体をどう処理するか。基本的にコンポスト葬、樹木葬が推奨された。次に使えるからね。存在は墓誌に刻んでおけば残るから。ただ一部からは拒否された。拒否した者たちは何らかの理由で自分の遺伝子を残せない者たち。彼らは回り回って種に帰ってくるその時間を拒否した。直接的に種の一部になりたい、彼らは食べられることを望んだ。愛する者や親族に食べられたいと、そう望んだ。これには自治体も頭を抱えた。ヒトは以前、牛を育てるときの飼料に死んだ牛の一部を混ぜ込んで与えていた。その死んだ牛が感染していた病が調理済みの飼料になっても経口感染し広まった。この病は種を超えても感染した。ウイルスが感染するのでなく異形蛋白質が形成されるようになって死んだ牛の肉を食べただけで感染した。ただ、発生源が分からない。共食いを続けたからなのか、それとも奇形の一種で蛋白質を上手く作ることができなかったのか。
ここに一人の男がいた。彼は自分に遺伝可能性のある疾病があるため子を生さなかった。しかし彼は自分はヒトの一部でありその輪環の中に存在し続けたいと考えていた。大きく自然の輪環の中にいたいのではなくヒトからヒトへの輪環にあり続けたいと。しかし自治体はなかなか頭を縦に振らない。
嗚呼、食べられたい。
そう望みながら、日々を生き続けた。
誰でもいい、私をヒトで在り続けさせて欲しい。
それだけが彼の願いであった。本来であれば種の一部として子孫を作りその中に彼は在り続けるのだが、彼が子孫を作ればその子孫には瑕疵が残る。彼はそれが怖かった。しかしヒトの一部で在り続けたい。矛盾である。食べられたい、ヒトの一部に自分の一部を残したい、しかしそれも子を生さずとも新たな病を産み出すかもしれない所業。悩みに悩み、悩み抜いて辿り着いた彼の結論はヒトの輪環を諦めることであった。その代わり、墓誌に名を残すだけではなく、自分が何を考え何を感じ何を思ったのかその全てをネットに放流しよう、そういうものであった。ある意味でそれはヒトの輪環の中に在り続けることである。親から子へ、子から孫へ、伝わっていくのは遺伝子だけではない。そこには文化がある。歴史がある。言葉がある。彼は肉体的、物質的遺伝から精神的、無機質遺伝へと舵を切った。


などとつらつら書き連ねてみたけれど、あなたはどうだい?
ヒトを続けたい?
ヒトでないモノになりたい?
ヒトという種を存続させたい?
ヒトは亡ぶべき?
まあ既にお分かりの通り、さっきまで書いていた「彼」というのはあたしだよ。あたしは子を生さないけれど、別段反出生主義というものでもない。むしろ生すことが可能な環境だったならば生していたと思う。だからヒトはこれからもあってほしいし、ヒトで在り続けたい。
ただね?
亡んでも構わないとも思っている。あたしの存在が消えても構わない。
あたしはね、一度死にかけたのさ。というか厳密に言えば数日間機械で生かされて自発的な呼吸も拍動も止まっていた。死んだんだよ。
その時から、どう表現したらいいのか自分でもよく分からないのだけど、諦念というか諦観というか、そういうものが自分の中に生まれた。ここでいう諦念や諦観は仏教用語ではないよ?文字通りの諦め。幸せとは奪い掴み取るものか、それとも、ゆく河に身を任すことか。そんなことを昔歌っていた人がいたけれど、あたしは今、ゆく河に身を任している。だからいつ自分が消えてもいい。もちろん、自発的に消えることはないよ。消えるその時まで生きるし生きることを放棄はしない。ただ、ものが消えていくというのは必定じゃない?それに抗わないだけ。その時が来たら、ハイサヨウナラ。バイバイさよならお先にね。幸せになりたくないのか?何をもって幸せと定義するかは分からないけれど、あたしは今とても幸せだよ。苦しい日もあるけれど幸せ。楽しい日々を送っている。好きな人もいれば嫌いな人もいる。嫌いな人がいるなら幸せじゃないじゃないかと言われたらあたしはこう思う。では今嫌いな人が全て消えたら幸せなの?って。たぶんだけどね、嫌いな人がいなくなったら好きな人の中から嫌いな人が出てくるよ。キリがない。だから今幸せ。流されるなんて弱いと思うかな?流され続けるのだって案外しんどい時はあるよ。去るものがいればそれは哀しいしね。諦めていたって在って欲しいという思いは消えないよ。ただ仕方がない、それだけなんだ。あたしは頑張っている人を応援している。苦しいという人には自分にできることはないだろうかと思う。このままいくと宮沢賢治の一節になりそうだね。あ、そうか。宮沢賢治か。サウイフモノニワタシハナリタイ。一日に四合も食べられないけれどね。
なんだかだらだらととりとめのないことを書いてしまって申し訳ない。ただなにか書きたかったんだよ。とんだお目汚しをあい失礼、またの機会までごきげんよう。


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