不毛
死ぬほどどうでもいいことで悩み続けてきた。
どんなこともいつかきっと「些細なこと」になる。
今まで気付いてなかったことが表面に浮かんできて、新たに「悩み」や「苦手」になる。
その前にあった悩みが解決されても、次の課題が見えてくるか、もしくは作られる。
そんな風に繰り返してきた。
今も他人から見たら「そんなこと」で終わること、考えてる。
ふと愛しい友人の顔を拝みたくなって、昔の動画を探した。
今のスマホにはもうなくて、別のところを探して、結局見つかんなかったけど、他の思い出に触れた。
昔仲良くしてくれた人達。
遊んでくれた人達。
慕ってくれてるのか、慕ってくれてるのフリなのかわからないけど、絡んでくれた人達。
かけてくれた言葉。
ああいうものは、容易に幻想になる。
夢だったことになって、繋がりも見えなくなる。
触れていいのかいけないのかわからない薄い関係だけが間にすうっと通ってるけど、それもただのこちら側の意識でしかない。
あちら側には、おれはもういない。
おそらく。
いたら嬉しいけど、何だか求めちゃいけないような気がしたり、気軽に声かけていいような気もしたり。
結局怖いんだと思う。
戸惑う顔を見る事になるかもしれないから。
それでも一時向けてくれていた眼差しとか、かけてくれた言葉とかは、今見返してみてもとても綺麗で、愛らしくて、優しくて、嬉しいものだから、まだその時と似たものがそこにあるのかなって、少し確かめたくなってしまう。
今はそこにいなくても、訃報を聞いたりしたら、その時だけは、当時のことを思い出して、少しは懐かしんだり、惜しんだり、愛を感じたりしてくれるだろうと思うと、少し目頭が熱くなって、それを視る為だけに死んでみたいと思ったりする。
こういう想像をする時は、何か飢えているのかな。
これを書く前はそういうわけでもなかったけど、写真や動画や言葉に触れて、今はもうないものを見て、なくなってしまったように感じているのが切なくなって、飢えの意識が生まれたのかな。
今は今で、大事なものがあるけど、なくなることや変わることに慣れて、諦めたり引くことが平気なことになってしまって、だからこそわざわざ取り戻してみようとするには少し勇気がいって、となると自分はしばらくいいやってなるんだろうなって。
そしたら結局あの時の喜びと出会える確率は少ないだろうから、それが寂しく感じる。