「人は見かけによらない」。 これは単に人の能力や性質はうわべだけでは判断できないというだけではない。 「うわべ」=「現時点の私にとっての一時的な見方」という認識が大切なのである。 "現時点の私"とは、想像し得る全ての可能性・視点・解釈の中の、私という主観の中の、今この瞬間の私、という極めて限定的な一部である、ということ。 宇宙には気が遠くなるほどの多くの銀河があり、その中に天の川銀河があり、またその中に太陽系があり、その一部として地球がある。 可能性や視点というのは
23時59分。 街は沈黙していた。 さっきまで遠くでパトカーのサイレンが鳴っていたがそれも聞こえなくなった。 サイレンはまだどこかで聞こえてるだろうが、ここでは沈黙だけが聞こえる。 自宅の2階、自室。 NetflixかAmazon PrimeかDisney+、どのアプリを開こうか迷っていると、「特にどれも求めていないのでは?」と自分の声が聞こえたので、開くのをやめた。 YouTubeで焚き火の動画でも見ていたら何かいい案が浮かぶかも、と思ったけど、また自分の声が聞
望みの輪郭がぼやぼやっと淡くなる時がある。 ある時にはこれをしたいあれをしたいって、はっきり望みが浮かんでて行動に移せる時もある。 でもある時は、かなりぼやっとしてて、何もせずぼーっとしていれば成り立つ、みたいな状態になる。 もちろんそれまで思いついていたやりたいことはやりたいことのままなんだけど、それらは時によって"今"やりたいことではなかったりして、 そうすると「今この瞬間のワクワクを優先して生きる」ということを実践していきたい時に、うーん何をしよう、とちょっと困
話したい人多すぎて"今"誰に連絡するか 決められなくて困っちゃう今日この頃 この人にこれのこと聞きたいし あの人の最近調子良くなったか聞きたい あいつに嬉しかったこと報告したい でもそもそもそうやって話したい人が 思い浮かぶこと自体がすでにハッピーだよね 恵まれたタイミング、繋がり、環境 今日はこういう自分でいたいっていう 前からいたけど新しくもある自分を 良い感じに再現することができた それも全部話せた人達のおかげ 日常の関わりをあまり大げさに 扱うことはないかも
余白。 余白があるっていいですよね。 まだ描ける。 まだ入る。 まだ余裕がある。 余白。 自分が絵を描く時は余白を割と埋めたくなっちゃうんすけど、ある時余白がめっちゃある絵をたまたま描いたことがありました。 いつもなら良い感じにごちゃごちゃさせたくなってたところを、なんかその時は気付いたんですよね。 空間そのものが、絵の一部として成り立ってる! みたいな感じに結構感動したんです。 もちろん余白、何もない空間を意図的に作ることで魅せるデザ
プラモデルをねえ、やりたいなーって急に思ったんですよ。 ていってもそんな本格的なやつじゃなくてよくて。 昔ゾイドっていうのが流行ってたんですね。 動物がモデルになってるメカみたいなやつで、結構デザインかっこいいんすよね。 ゾイドは(全般的にそうなのかは知らんけど)わりとパーツくっ付けるだけだから、組み立てるっていえるほどの感じじゃないんだけど。 気持ちとしてはなんか2,3時間で出来て、更に電動で動いたりしたらいいなって。 そんな欲に急に駆られました。
ハッピーなフィーリングでいる時って自然と笑顔になっちゃうし、聴こえてくる音楽もいつもより心に染みたり、いつもの景色が急にchillになったり、でやっぱそういう人って周りから見ても魅力的に見えるんですよね。 こっから全てスピ的な原理や解釈の話ですがこの世のものは大まかに分類するとポジティブなエネルギーのものかネガティブのものかで分けることができます。 ハッピーなフィーリングは当然ポジティブなエネルギー。 原子とか分子とかをより細かく見ていくと一つのエネルギーの粒子に辿り着
新しい行動を何も起こさずすでに習慣になっていることだけで人生を回している時、ずっと同じ日を繰り返しているような感覚になる。 同じ日、同じ場所、似たような行動。 一つの狭いフィールドの中だけで生きているような感じ。 そんな日を続けてると、望みがわからなくなる。 望みを持っている自分が、体を操っている自分から離れていく。 エゴは中立の操縦者で、観察と体験以上の役割を持っていない。 だから頭で何をしたら良いのか何をすべきかを考えるとキャパオーバーになり、それ
死ぬほどどうでもいいことで悩み続けてきた。 どんなこともいつかきっと「些細なこと」になる。 今まで気付いてなかったことが表面に浮かんできて、新たに「悩み」や「苦手」になる。 その前にあった悩みが解決されても、次の課題が見えてくるか、もしくは作られる。 そんな風に繰り返してきた。 今も他人から見たら「そんなこと」で終わること、考えてる。 ふと愛しい友人の顔を拝みたくなって、昔の動画を探した。 今のスマホにはもうなくて、別のところを探して、結局見つかんなか
望む形、望む結果であることを求めている時、楽しむことを忘れがちになる。 先を見ていて今を見ていないから。 何かチャンスに思えるような出来事が起きた時、これは本当に望むものか?これは望む結果に繋がる確率が高いか?ということばかり気にしていると、今の自分にとってよりワクワクする、よりマッチする感じ方や行動が取れなくなる。 目の前にあることではない他のもの(先のことや過去の経験)に意識が行っている為に、今起きていることに集中することができず、楽しみや喜びが減ってしまう。
人がついついどうでもいい動画で時間を潰したり、別に今やらなくてもいい家事や片付けに手を付けたり、特に話したいわけでもないことで間を埋めたりするのは、暇な時間や沈黙、やりたくないことや解決すべき問題に身を置かれた時の、自分の心の声のやかましさに耐えられないからかもしれない。 ざわざわ、ぎゃーぎゃー、ピーチクパーチク、えーんえーん 色んな声で鳴く自分自身にうんざりし、疲弊し、呆れ、対応し切れないようにかんじる。 そもそも心が騒いだらどうにかしなきゃいけないと信じている。 そ
「今日は中華が食べたい」 ある日の帰り、電車に乗ってたら隣の吊り革に捕まってたおじさんに突然話しかけられた。 「紫色が、紫色が好きなんです」 おじさんは震えた声でそう言ってた。訳が分からなかった。 ついつい「だからなんだよ」と言いそうになったけど、刺激したらどうなるかわからなくて怖かったので抑えた。とりあえず軽く会釈だけしといた。それまで読んでた本も、まだ何か言われるのかな、次は何言われるのかなとか考えちゃって全然内容に集中できなかった。 いっそのことおじさんを観察