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午後五時、溶け落ちた恋をした

斜陽がゆっくりと地平線に沈んでいく頃、私は足を止めた。川の水は金色に輝き、まるで絨毯が一面に広がっているかのようだった。その美しさに心を奪われ、写真に収めたくなった。橋の上でスマホを構えたとき、隣に誰かの気配を感じた。視線を横にやると、少年がいた。

彼も一眼レフを構え、同じ景色を眺めていた。そよ風に揺れる黒髪が茜色の夕陽の光を映し出していた。その光景から私は目が離せず、脳裏にじりじりと焼きつくような感覚がした。

こんなにじっくりと人の顔を見たことはなかった。息を忘れ、ただ段々と速くなっていく鼓動をその場で感じていた。感情が揺れ動くなか、全身の力が抜け、持っていたスマホが私の手から滑り落ちた。

「あ…!」

反射的に手を伸ばしたが届かず、スマホは川の水面を撥ねると、ゆっくりと沈んでいった。立ち尽くしている私に、下校途中だった友達のまゆかが慌てて駆け寄った。

「ちはな、大丈夫?スマホ落とした?」

焦りが一層募っていく。どうしよう、どうしようという思いが頭を巡る中。

「スマホ、落としちゃったの?」

ふと顔を上げると、そこにはあの少年がいた。泣き出しそうになり、ただ頷くことしかできなかった。

「ちょっと待ってて、動かないでね」

「え?」

その瞬間、彼は柵を飛び越えて川面へ飛び込んだ。派手に水飛沫を上げ、それが落ち着くころ、

「スマホこれー?あったよ」

彼は腕を高くあげ、爽やかに笑って私のスマホを見せた。

「い、今行きます!待っててください!」

気がついたら川に飛び込もうとしている自分がいた。

「ちはな、危ないよ!」

まゆかが私の腕を掴み、悲鳴じみた声で叫んだ。自分の行動に気づき、ようやく焦燥感と羞恥心に苛まれた。そうこうしているうちに、彼は川から上がり、私たちの元へと駆け寄ってきた。

彼は濡れたスマホを私に差し出し、「はい、これ。じゃあ、気をつけてね」と軽く言った。突然の別れに呆然としていると、気づけば彼は青いバイクに跨っていた。思わず声を絞り出す。

「ありがとうございます、あの、お名前をお聞きしてもいいですか?」

彼は振り返り、少し間を置いて「杉下航星だよ、じゃあまた」と告げると、バイクを走らせた。まるで沈みゆく夕日のように、彼の姿は遠くへと消えていった。彼から滴る水がポツポツと続いていて、私は半ば本気でそれを道標に追いかけようかと思った。

「やば、今の人色白だし、ビジュ良すぎる。リアル王子様すぎる。」

まゆかの黄色い声がぼんやりと聞こえる。私は深く息を吐き、ぎゅっと締め付けられる心臓を抑えながら、「あぁ、もうダメかも」と乾いた唇から情けない声が漏れ出る。スマホのことなんてもうどうでもよかった。それは午後5時のこと。私は生涯忘れられないと思った日のことだった。

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それから一週間が経った。
「もう、超イケメンでヤバくて、なんかもう生きてますか?みたいな。ちはながスマホを川に落としたらすぐ川に飛び込んでくれてさ。ヒーローってまじいるんだな〜とか思った」
「え、その人、どこの高校なんだろ。てか学生なのかな。マジ気になる。会いたすぎるんだが」
あの日の出来事は、まゆかがクラスメイトに話し、クラス中の女子たちはその話題で持ち切りだ。私だって、彼が…杉下航星のことが、どうしても頭から離れない。

「航星くんか…」

彼の名前を口にする度に、彼が私にくれた優しさが思い出されて、胸が苦しくなる。終業の鐘が鳴ってもなお、私はずっと彼の顔を頭に浮かべていた。こんなにも他の誰かを考えたことなんてない。私はもう、自分の気持ちが何なのかを知っている。溢れ出して止まらないその想いは、もう見逃すことができないことなんて分かっていた。

学校が終わり、喉が渇いた私はコンビニに寄った。近づくと、青いバイクが見えた。目を見開いたまま私は足を止めた。胸が早鐘を打つ。店のドアを押して中に入ると、世界が止まったように感じた。飲み物コーナーで真剣な表情で商品を選んでいる少年。目の前には、あの杉下航星がいた。音が鳴りそうなほどバチッと目が合う。思わず深く息を吸った。

「あれ?この間の子じゃん?スマホ大丈夫だった?」

彼は微笑んで私に声をかけてくれた。

「こ、こんばんは。はい、大丈夫です。その節は本当に…」

滑稽な声で返事をしながら、取り乱さないよう必死だった。

「そんなにかたくならないでよ」

彼は柔らかく笑い、私はこのまま時が止まって欲しいと心から願った。

そうだ、以前助けてくれたお礼をしなくちゃ――そう思って、私は彼に声をかけた。

「あの、よかったらですけど、この前のお礼がしたくて…。お飲み物とか、どうですか?」

「え、奢ってもらえるの?」

私が頷くと、彼はにっこりと笑いながら「じゃあ、遠慮なく。これで」と言ってイチゴオレを手に取った。意外にも甘いものが好きなんだと思いつつ、私たちは一緒にレジに向かい、会計を済ませて外に出た。

「ご馳走様、ありがとう」

「いえ、こちらこそ、この間はありがとうございました」

彼は甘そうなイチゴオレを開けて一口飲むと、私に尋ねた。

「名前はなんていうの?」

「三村ちはなです」

「ちはなちゃんか」

突然のちゃん呼びに、落ち着いていた心が再び乱れる。そんな私の反応に彼はほんの少しも気づくことなく、バイクの荷台を開けながら続けた。

「家まで結構かかる?」

「あ、えっと…電車で20分くらいです」

「そっか。じゃあ、せっかくだし家の近くまで送ってあげるよ」

彼がバイクの鍵を手にしながらそう言った。

唐突な提案に驚いたが、彼の物柔らかな眼差しを見ていると、冷静な判断ができなくなる自分を感じた。バイクに乗せてもらうなんて考えたこともない。でも――。

この瞬間を逃したら、もう会えないかもしれない。そう思って「いいんですか?」と、小さな声で答えると、彼は「いいよ」と笑って白いヘルメットを私に手渡した。後ろ座席に恐る恐る足をかけると、彼は「しっかり掴んでね」と言う。

ためらいがちに彼の腰に手を回すと、黒紫色のシャツから、心地よい香りが漂ってくる。

「じゃあ、安全運転で行くね」と言ってバイクはゆっくりと動き出した。

風がふわりと頬を撫で、私のためらいと街並みが後ろへ去っていく。すると彼が大きな声で、「ちはなちゃん、何年生?」と聞いてきた。

「高校二年生の17歳です」

「そっか、俺の一個下だね。全然タメ口でいいよ」

年が近いことがわかり、自然と親しみを感じた。私はつい「…うん」と頷いた。

「航星くんの学校ってどこ?」

「俺、学校通ってないんだ」

「え、そうなの?」

「うん、清掃員をしながら写真を撮ってる。フォトグラファーになりたくてさ」

歳がほとんど変わらないのに、すでに夢を追いかけていることに驚き、何もない自分に情けなくなった。

「そうなんだ、すごい」

「まあ、好きなことをやってるだけ。でも、好き勝手生きるのもそれなりに大変なんだよね」

そう軽く告げる彼の言葉の裏には、どこか計り知れない思いがあるように感じた。自由気ままに生きるのも、難しいんだろうなーーと思いながらいると、気づいた時には最寄り駅だった。

「ありがとう、ここまで送ってくれて」

バイクを降りた私に、彼は笑みを浮かべて言った。

「お礼をお礼で返しただけだよ」

「でも、ここまでしてくれて、申し訳ない……」

私は彼と二度目の別れが近づくことに、焦りが募る。

「じゃあ、来週の週末、良いところに連れて行ってあげる。来る?」

その誘いに、心が踊るのを感じた。彼と一緒に過ごす時間が、もっと増える――そのことが嬉しくてたまらなかった。

「行きたい!」

そう答えると彼は嬉しそうに「じゃあ、連絡先交換しよう」と折りたたみのガラケーを取り出した。これも意外だなと思いつつ、私はすぐにスマホを取り出し、次会う約束を取り付けた。

「じゃあ、また来週」

「うん、わかった。帰り気をつけてね」

彼はハンドルを切って、今来た道を引き返して行った。彼の姿が見えなくなると、私も家へ向かう。彼と過ごす週末を思い描くと、いつもの帰り道は違う道のように感じられた。

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週末、空が段々と暗くなり始めた頃、YouTubeで見た慣れないメイクに苦戦し、昨日念入りに選んだ花柄のワンピースを手に取る。

髪を整えて、サンダルを履いて「頑張れ、私」と鏡の前で笑って見せて、三回深呼吸をして、玄関を出た。

最寄りの駅で待っていると、バイクの音が徐々に近づき、目の前に止まった。

「待たせちゃった?」

「いえ、全然」

ヘルメット越しに聞こえる航星くんの声で緊張が解れていくのを感じた。

バイクに乗ると「行こうか」と彼が言い、ペダルを思いっきり足で蹴る。街の灯りは次第に遠ざかり、夜の道路が広がっていく。

どれくらい走っただろうか。やがてバイクは広い海岸に到着した。波の音が一面に響き渡った。月の明かりが水面に映えて、空には数えきれないほどの星が散りばめられ、私たちを包み込むように輝いていた。

「ここだよ」

航星くんがバイクを止め、そう言った。「わぁ」と小さい声が漏れた。階段を下り、砂浜に足を踏み入れる。足元の砂の感覚や、頬を撫でる潮風の冷たさが心地よく、現実でないような気さえした。

「気持ちいい」

「ここよく来るけど、すごく落ち着くんだ」

彼を追いかけながら歩いていると、朽ちかけたクラゲの死骸が点々と横たわっていた。

航星くんはカメラを構え、その光景をパシャリと撮った。

「溶けかけてるね」

私がそう呟くと、彼はカメラから視線を外し、遠くを見てこう答えた。

「クラゲは、死ぬと跡形もなく消えるんだ。毒残ってるかもだから足元気をつけて」

彼の言葉は、深々と夜の闇に響いた。私はその一言に、どこか胸が締め付けられるような感覚を覚えた。

「なんだか…寂しいな」

私のつぶやきに、彼はカメラを下ろし、少し考え込むようにこう続ける。

「俺は、この消えていく感じが好きなんだ。生きることに固執せず、ただ漂いながらここにたどり着いて、終わる。それが美しいと思う」

彼の言葉が夜の風に乗って、私の心に届いた。

返す言葉を見つけられず、その言葉を反芻する。

航星くんの見ている世界は、私にはまだ理解できない部分が多いけど、そこには自由でありながら、どこか儚さを感じさせるところがある。彼が少し遠く感じられる一方で、彼の世界をもっと知りたくなる。

「だから今、この瞬間が大切なんだ」

航星くんは静寂の中、そう呟いた。

「航星くんの見ている世界は私にはわからないよ。」

私が言うと、彼は「どれくらいわからないの?」と聞いてきた。

「宇宙くらいじゃないかな」

「そこは、深海じゃないんだ?」

彼は少し冗談混じりで答えた。

「深海には底があるけど、航星くんは何もかもが広がっている感じがするから」

彼は肩をすくめて、軽く微笑んだ。

「俺も、無数の人間の一人に過ぎないよ」

彼がそう言う一方で、私にとって航星くんは特別な存在だ。今の私にとって、航星くんは星の中で一番輝いている。

潮風が肌に冷たく触れる。私は少し寒さを感じた。

「冷えてきた?」

「ちょっとだけ」

航星くんが私の様子に気づき、無言で上着を脱いで、私に手渡した。

「これ、かけて」

「え?ありがとう」

彼が渡してくれた上着に包まれると、思いやりがじんわりと胸に染みわたり、寒さが少し軽くなった。『どこまで気配りできるんだろう、この人は』と、その心遣いに浸っていた。

「ちょっとあそこの階段に座ろう」

二人で階段に腰を下ろし、私は持ってきたお茶を取り出した。

「航星くん、温かいお茶を持ってきたけど、飲む?ほうじ茶なんだけど」

「うん、ありがとう」

航星くんに話しかけながら、夜空を見上げた。

「星、すごく綺麗」

「うん」

彼は短く答え、上空を注視した。

「航星くんは何座?」

「天秤座だよ」

「そうなんだ、私は蟹座だよ」

「蟹座、いいね。俺、寿司ネタは蟹味噌が好きなんだ」

ふとした冗談に、自然と笑いがこぼれた。

私はしばらく迷ったが、意を決して口を開いた。

「こうやってまた、航星くんと一緒に過ごしたいな」

その言葉が自分でも驚くほどすらりと出た。思わず顔が熱り、視線を下げた。そんな私を見て航星くんは穏やかな表情を浮かべ、ゆるやかに宙を見つめながら、控えめな声で言った。

「生きていれば、また会えるよ」

航星くんの言葉が、ひっそりとした夜の中で確かに伝わった。暗闇の中で見る彼の横顔が、初めて出会った時のあの夕焼けの中で見せた淡い光を帯びた顔と重なり、頭をよぎる。どこか儚さを感じるその姿を見守りながら、私は密かに自分の中で決心を固めた。

彼の内面には、きっと埋められない何かがあるんじゃないかと。まだよく知らないけれど、もっと近づくことができたら、私はその隙間を埋める存在になりたい。彼がいつか私の元に流れ着いたら、そのときには私が航星くんを支え、癒してあげたい。

その思いを胸に、彼と共に星の海を仰ぐと、星々が夜の帷に溶け込むように、遠くで瞬いていた。

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