ぶっちゃけ、AIって敵なの?味方なの?
タイトルは後付けです。昔書いた原稿から削った文章をたまたま見つけて、もったいないので残しておこうと思った次第。ちょっとでも目を引くように、挑発的な表題を付けました。「ぶっちゃけ」とか慣れない言葉を使ってみたりして。
以下がその本文です。確か、これかこれを書いていた時に、「詰まるところ文章って、矛盾する二つの結論があっても、どちらも説得力を持って表現できる」ことを説明するために考えた話だったかと。首記のタイトルに即して言えば、「AIは人の敵である」「AIは人の味方である」のどちらでも、それなりの根拠を持って主張できるということです。
こんな例はどうでしょう。先日、AIと人間の関係を考えた文章をnoteに書いてみました。骨子はこうです。
現在猛烈に発展中のAIでも、得意なのはあくまで画像や言語といった情報の操作にすぎない。自動車の運転など、現実世界の行動を人並みにこなすことは、今でも難しい。現実は画像や言語のように人の都合に合わせておらず、例外がいくらでも発生しうる。そこにAIは、まだまだ対処できないのである。だから、日ごとに高まるAIの脅威に屈しないためには、人間に一日の長がある現実の複雑さへの対応に、改めて向き合うべきではないか。AIが人類を支配するといった、仄暗い未来が到来する前に。
この説に対立する主張を、それなりの説得力を持って展開することは可能です。すなわち、人間は現実の複雑さにうまく対処していくために、AIの力をもっと借りるようになるはずだと。ざっとアウトラインを描いてみましょう。
いまだに自動車事故はゼロにはならないし、人間が車を運転している限り一定数は必ず残り続けるはずである。なぜなら人の認知能力には限界があり、複雑に変化する運転状況全てに注意を払い、あらゆる問題を回避するのは事実上無理だからだ。一方でAIは、疲れ知らずで周囲を確認し続けるのはもちろん、現実よりも時間の進み方を猛烈に加速したシミュレーション世界で、何百年もの運転経験を積める。その上、半導体やアルゴリズムの高度化が続く限り、今後もずっと運転がうまくなり続ける。人の認知機能が短時間に進化する望みはない以上、両者の運転能力は遠からず逆転するだろう。同様に、人間は複雑で不確実な現実を手懐けるために、ありとあらゆる局面でAIに頼るようになるはずだ。
果たして、どちらの主張が正しいのでしょうか。私は両方とも正しいと思っています。
説明しましょう。この例の明らかな矛盾の一つは、最初の文章(①とします)ではAIに自動運転は難しいとしておきながら、次に取り上げたプロット(②とします)では自動運転が可能なことを前提にしている点でしょう。
二つを同時に成り立たせる説明はいくつかあります。例えば①と②では時間軸が違う。①は現在からせいぜい数年先の状況を見ているのに対して、②は10年以上の長期を想定した見方といえます。時間とともに、人とAを巡る状況は大きく変わっていくと見るわけです。
主張の細部に踏み込んだ解釈も可能です。重箱の隅をつつくと、①の主張は「複雑な現実に対処するAIの実現は難しい」であって「不可能」とはしていません。現在の大量のデータでAIを学習させる手法だけでは、そのようなAIの実現は極めて困難だと思う一方、AIの研究開発はものすごいスピードで進んでおり、現行手法の限界を突破するブレークスルーが生じる可能性は高いとも考えます。そこで②には「アルゴリズムの高度化」という言葉を滑り込ませて、AIがこのハードルを乗り越えることを、暗黙の前提にしているのです。
「そんな細かい話ではなく、①は『AIは脅威』としているのに、②は『AIに頼るべき』としている点が問題だ」という反論もあるでしょう。これも筆者の頭の中では問題なく両立しています。まず、仮にAIが②で示すような進化を遂げるとすると、それを最大限に生かすべきであることは論を俟ちません。車の運転に限らず、日常生活で出会う面倒くさい作業をAIに任せられるようになれば、多くの人に福音をもたらします。自分自身、早くそうなって欲しい一人です。
ただし、AIに頼りすぎると弊害が生じます。自分の能力が衰えてしまうことです。これまでもさまざまな機械の登場で、人間の技能はだいぶ削がれてきました。私自身、もはや大きな数の計算を筆算で解こうとは思いませんし、パソコンを使い始めてから漢字の書き方はだいぶ忘れてしまいました。それでも日常生活に不都合は一切ありません。だったら、いつもAIが使えさえすれば、人のどんな能力でも衰えてもいいとはいえるのでは。
それは違うと私は思います。①や②では「複雑な世界に対処する能力」の代表例として車の運転を取り上げました。このほかにも、日常生活の様々な活動がこの範疇に含まれます。農林水産業のような自然を相手にした労働、職人の熟練作業やサービス業のおもてなし、あるいは顧客の問題解決など高度な知的業務から、就職・結婚といった人生を左右する決断まで、ありとあらゆる行為で人は想定外の状況に対する創造的な対応を求められます。
そのうち車の運転のような個別の技能をAIに奪われても個人的には構わないのですが、人から「複雑な世界に対処する能力」自体を奪うことはさすがに看過できません。人間が生きる上で、最も根本にある能力だと考えるからです。
どんなにAIが発達しても、人生で不測の事態にぶつかり、難問の解決に臨んで、苦渋の選択を迫られることは、決してなくならないでしょう。その時に頼るべきは、自分の直感であり、哲学であり、信念であるはずです。もちろんAIに相談しても構わないのですが、それだけで決めてしまったら、一体誰の人生なのか、わからないじゃないですか。
いかがでしょうか。二つの主張のどちらもありうることに、納得していただけたでしょうか。
実はこのあと、色々思うところを書き連ねてみたのですが、どうもしっくり来ないので削りました。この文がお蔵入りになったのは、前回も同じ問題に突き当たったからかもしれません。言いたいことの概略はこちらの記事と同じなので、ご興味があればご覧ください。
ざっくりまとめると、「AIは敵」「AIは味方」と言っているように見える文章であっても、書き手からすれば、あくまでも限定した状況の中で成り立つ主張と見なしているということです。
言い換えると、そもそも「AIは敵か、味方か」という問いの立て方が間違っています。いきなりそう聞いて、どんな答えをもらったとしても、サイコロを振ったのとの同程度の意味しか持ち得ません。タイトルに掲げておきながら、梯子を外すみたいな仕打ちで恐縮ですが。
もちろん、記者としてこうした質問を投げることはよくあります。しかしそれは、一定の読者に向けた企画を立て、念入りに選んだ人物に取材し、言葉の応酬から相手の出方をうかがった上で、ようやく口に出せる一言です。特定の構図の中に位置付けて初めて意味を成す疑問なのです。
言ってみればChatGPTに与えるプロンプトのようなものです。漠然と問いかけても、返ってくるのはぼやけた返事ばかり。有意義な回答を引き出すには、こちらの意図をきちんと整理し、追加の情報も与えた上で、何度も対話を繰り返す必要があります。相手が人間でも同じです。人の場合、腹に一物あったりするので、もう少し厄介なんですけど。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?