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希死念慮依存症。死を服用する癖
vim-jpというコミュニティで「希死念慮依存」と言う言葉を放った。
そもそも希死念慮とは「自殺への考え」なのだが、私はそこに逃げ込むことで生きている。「死ねばいいか」という思いは私の救いになっている。
昔は自殺するのが恐ろしかった。無間地獄に堕ちるらしく、空虚な空間で小学生が考えた桁数の年数を過ごすらしい。子供の頃はそれはそれは怖がった。
大人になり,どうにも意識というものは死ぬとなくなりそうだということがわかった。未知のものではあるが科学的には脳が機能しなくなり、火葬してしまえば無くなるだろう。存在とはそういうものなのだろうから。
こうなると、途端に死ぬのが怖くなくなる。みんな死ぬ。日本は火葬の国なので、万が一にも「意識が残ったまま土に埋められる」みたいなこともない。私は死んだら火葬派である。早いとことっとと燃やしてほしい、意識が残っていたら嫌だからだ。
Youtubeでも「死」や「殺」といった文字が自動的に死のニュアンスを嗅ぎ取って投稿者に不利益をもたらしているが、そんなに悪いことなのだろうか。
死は人間の唯一の逃げ場であって、逃げるべき対象ではない。当然逃げ切れることもないのだが。意識さえ無くなってしまえば無限の時など怖くない。溺死の恐怖も、怒られることもない。
この死は救いである、というのはありきたりな主張だが、死は滅びであるとするならどうだろうか。逃れられない滅びが君を待っている。生きるのは死ぬのが怖いからだとしたら、不死の体でも求めているのだろうか。生きたまま焼かれ続け、苦しみ続ける身体に生き続けたいと思うのだろうか?
現代社会を生きるということを拷問のように感じているなら死んでしまった方が幸せなんじゃなかろうか。
例えば生きたいと思う人間に不死の力を与えたとしよう。地球が滅びて人類は1人を除いて滅亡する。宇宙空間に投げ出され、沸騰の苦しみに耐えながら生きる。複数の人類に不死を与えよう。人類は死刑廃止してそれに勝る苦しみを編み出すだろう。拷問は死なない程度の苦しみだったが、死ぬ程度の苦しみを何度も味合わせることができるようになるわけだから。
そして、いつか来る「永遠の苦しみ」に怯えながら無限の余生を過ごすといい。それが死を克服するということなのだから。それならば死を隣人と捉え「死ねるからな」で肩の荷を下ろすのはよほど自然なことではなかろうか。
そうすると希死念慮とはそういった「救いを求める心」の事のように思える。この先どんな苦しみも死ねるなら平気だ、死ねるなら終えられる。
カルト宗教として有名な「ヘブンズゲート」は死を「段階の向上」として捉えた。高次元に行くらしい。私はそうは思わないが、そうであったら素晴らしいと思う人の気持ちもわかる。
こうやって死に希望を見出すことを「死を服用する」と捉えた。死神を飲み込むと楽になれる。何度も死の反芻をする、「こうやって死ねる。これでも死ねる。まだ死ねる」と思える限り自分の心の安寧が保たれるような気がする。
これは瞑想なのかもしれない。ガンジーはは「明日死ぬと思って生きなさい。永遠に生きると思って学びなさい」と言う。明日死ぬと思って生きるなら遊び呆けるだろう。永遠に生きると思うなら諦めずに努力し、何か得ようとするだろう。
実際には人は、明日死ぬ。明後日か、明々後日か。来年か、再来年か、1時間後か200年後かには死んでしまうだろう。死ねるというのが大切なのだ。永遠に生きられることができたとしても、いつかは死ねるなら死を選ぶ。永遠に生きる事の恐怖に比べれば、明日死ぬ事なんぞ屁でもない。
こうやって死を待ち望む。いつか死が助けに来ると思って今日も生きる。明日生きるために、死を服用し続ける。