見出し画像

ノー・サマー・ロマンス

 「もう戻らない夏」にも、幾つかの種類がある。その中でもとりわけ僕の心に残るのは、「何も起こらなかった夏の日」だ。

 それは、仲間と過ごす汗と涙の青春でもなく、ひと夏の恋のようなメロドラマでもない。ただ、大学の授業をサボって過ごす平日の昼下がり、5畳半のワンルームに佇むベタついたテーブルの上にはビールの空き缶、微妙に中身が残るウイスキー・ボトル、近くの川が放つ磯臭い匂いとそれを運ぶ生ぬるい風。夏の終わりと、鈴虫の声、マジックアワー。そんなところだ。

 どうしてそんな夏を僕は忘れられないのだろう?とてもじゃないけれど誰かに自慢できるような代物ではない。けれども、それが僕にとって学生生活最後の夏だった。限りなく大人に近く、それでいて最も中途半端な僕が過ごした夏だった。どれだけあがいてみたところで、その事実は覆せない。

———

 不採用通知で目を覚ました。まとわりつく汗が不快で、やけに目覚めが悪く、伸びをしながらタオルケットを足で蹴ってベットから落とした。

 時計は10時10分を指している。急いで準備をすれば、大学の二限にもギリギリ間に合うだろう。重い身体を起こし、とりあえずベランダに立ち、煙草に火を付け、どうして人はこんなにまずいものを吸うのだろうかと思いながら生ぬるい風に煙を溶かした。近くを流れる川は磯臭さを放ち、蝉はやかましく鳴いていた。

 外の空気を吸っただけではどうも頭が冴えない。それでも外を眺めていると、急に現実感が増すから不思議だ。周りの同級生たちが就職活動を終え、こぞってバリ島やらタイやらインドネシアに旅行しにいくこの時期にも僕はこの部屋から出られず、将来のことを決めあぐねていた。幾つもの不採用通知を前にしても、大学の卒業状況すら曖昧でも、僕は何とかなるだろうと高をくくっていたのだ。

 今思えば、目の前の現実を見ないようにしていただけなのかもしれない。将来への実感がわかず、地に足がつかず、ただ残された学生としての猶予を浪費するだけの、蒸し暑い夏だった。

 彼からの電話は、そんな気怠い夏を象徴するような出来事だった。

———

 「昼過ぎくらいに家に訪ねていいか」という電話だった。僕は快く頷いた。「何か買っていこうか?」というありがたいお言葉も頂いたが、特に思い当たる物もなく「とりあえず愛をお願いします」と、気の利かない冗談を返した。

 彼は大学の元同級生だった。「元」と言うのは、つまり彼は「卒業すれば良い就職ができるはずの、そこそこの大学」を四年になって突然中退した。理由は色々あるのだろうが、主に「演劇、役者の道を志すから」というものだったと思う。

 彼の生き方は、その日暮らしのようにとにかく刹那的で、傍からはただのちゃらんぽらんな男のように映っていたのかもしれない。ただ、何者でもなく、将来の見通しがついていないという点で、僕らの状況は似ていたし、何より気が合った。とはいえ、生活の拠点が変わったことによりしばらく疎遠になっていた…そんな矢先の訪問だった。

 彼が訪ねてきた。玄関で迎えると、スーパーの袋を重そうに抱えていた。僕は彼を部屋に通し、「何買ってきたの?」と中身を訊ねると、彼は一つ一つ取り出しながら、「スコッチ・ウイスキー、割る炭酸、あと、お総菜パン2つ」と答えた。

 僕は素直に「これは愛だねえ」と言った。彼も「これは愛だろう」と言った。「いつもお世話になってるから」なんて言葉も添えられていた。

 曇ったグラスにウイスキーと炭酸を注ぐ。もちろんこの部屋に氷なんて上等なものはないから、とてもとてもぬるいハイボールだった。それで十分だった。彼と乾杯すると、乾いた音が部屋に鳴り響いた。

 僕が「学生ローンまで借りているお前がパンまで買ってきてくれるなんて思ってもいなかったよ」と言うと、彼は「稽古以外は働きづめだからな。踏み倒すつもりだったローンも完済した」と、現状をぽつぽつと話し出した。

 なんとなく彼の心境の変化を悟った僕は、「そういえば、今は彼女の家に転がり込んでるんだっけ」と、彼の恋人について訊ねてみた。

 「うん。流石に無収入で住まわせてもらうなんて虫の良いことは考えてないからね、結構ちゃんと働いてるんだよ」

 僕は「ふーん…それもまた愛だねえ」と、冗談っぽく彼に言った。彼は、それには何も応えなかった。

 特に難しい話をしたわけでも、見えない将来の話をしたわけでもない。が、しかしすぐにウイスキー・ボトルは空になり、気づけば傾き始めた西日が埃臭い部屋を橙色に染め始めた。

 なんてことはない、大人になれなかった僕らが酔っぱらって過ごした昼下がりの話だ。

———

 別に夏だからと言って、ロマンスに溢れていなくちゃいけないという訳ではないと僕は思う。むしろ、何でもなかった夏、焦燥感とそれを誤魔化すためのカタルシスに浸った夏の方が、よっぽど記憶に染みついていたりする。

 確かにあの夏、僕はどこにも行けなかった。ビーチで仲間たちと瓶ビールで乾杯することも、ビアガーデンで夜風に吹かれながら異性とシャンパングラスを鳴らすことも叶わなかった。けれども、くだらない友人と過ごした何でもない時間に喉を潤した手製のハイボールや、ぬるい缶ビールも、それはそれで格別だった。

 きっと、あの夏の続きをしようとしても、上手くは行かないだろう。

 大学を無事卒業し、ちゃんと就職先も見つけた。スーツも新調し、髪も短く揃えた。そして平日の昼はオフィス街を闊歩している。同僚と、どこそこのランチが安くてうまいだとか、そんな話をしている。

 そんな生活に不満があるわけでもない、けれども、だからこそ、満たされていなかった、中途半端だったあの夏が、無性に愛おしくなるのかもしれない。

良かったら話しかけてください