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その愛は正義か

愛とは何だろう、と、よく考える。

愛のようで愛ではない何か、についても、よく考える。

本当は愛だとか恋だとか仰々しく語るのは好きではない。口にするのだって恥ずかしいのだけれど、このnoteでは頬を赤らめながら結構「愛」について書いていたりする。一方で、愛なんてそんな大それたものではないとも思う。

どうやら、日本に「愛」なんて言葉が流行ったのも、元はと言えば英語の「Love」に相当するものとして、その必要性から生まれたのだと聞いた。つまりそれが正しければ、愛という概念を「愛」という言葉の枠に無理やりはめて生まれた、という事だ。

僕はそんな愛なんて信じない。

ここで思い出してほしいのは、『ノルウェイの森』のヒロイン、緑の「私は愛しか信じない」というセリフだ。

さて、あなたはどうだろう。あなたのその愛は正義か。

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だいたい僕が素敵だなぁと思う女性は、前のちょっとヒドイ彼氏が忘れられなかったり、浮気されたりしていて、幸せになれない。まるで、「これを食べたら不幸になるけど、とっても美味しいよ」と差し出されたリンゴをまるかじりしているようだ。

もちろん、その一瞬の幸福を「愛」とか「幸せ」とか定義することもできる。それ以外の時間がどれだけクソでも愛とか幸せとか永遠に言っていてくれたまえ、略してクソくらえ、だ。

僕にはよくわからないけれど、少なくとも君を不幸にする「愛」は、ただのドラッグだと思う。

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どうしてこんなことを急に書き始めたかと言うと、「どうして人は向こう見ずな恋をするのか」、と、急に急を重ねて思ったからだ。どうしてもどうしてである。

僕は結構、人を本当に好きになってしまうと、ウキウキしたり、ぼーっとしたり、時々辛くなったり、浮き沈みが激しくなってしまう。恥じの多い人生の中で、この面倒くさい性格との上手な付き合い方を心得てきたつもりでいる。つまり、恋なんてものを信じず、なるべく人と距離を置く生き方だ。

だけれど、最近いつにもまして胸がざわついて、あーこれはもしかして恋が始まったのか、なんて思っていたら、ふと。

この面倒くさい性格と、自分が課した「愛について」が悉く矛盾していることに気づいた。僕も例によってクソを食らうべきジャンキー達と同じ穴のムジナであったのだ。

恋なんて例外なくどれもが向こう見ずで病みたいなものなのだから、それの延長に愛があると考えると、人生はなんだか面白い。

「これを食べたら不幸になるけど、とっても美味しいよ」と差し出されたリンゴが、もしかしたら幸せへの切符かもしれないからだ。

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井出崎・イン・ザ・スープ
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