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甲子園球児とそうじゃない僕の話

甲子園の季節。夏の風物詩とも言うべきか、高校球児だけでなく様々な人が球場で、あるいはテレビの前で熱狂に包まれる。

僕はこの時期になるとこんなことを思う。グラウンドに立てる者とそうでない者の違いは何か、と。強豪校になればレギュラーの10倍もの部員を抱えていることも少なくない。その分だけアリーナ席は応援要員で埋まる。アリーナ席で大声を張る、日焼けした坊主頭の球児たちと、グラウンドで脚光を浴びる選手たちの違いは何なのだろうか。

高校スポーツの世界では自分の立ち位置がデフォルメされやすい。甲子園に出る高校、マウンドに立つ投手、捕手、4番打者、ベンチ控え選手…しかしながら甲子園に出れば球場の土を踏めるとも限らない。そんな、メディアで決して取り上げられることのない、「試合に出られない選手」に僕はとても親近感を抱いてしまう。

強豪校の球児たちは、誰もが夢を抱いてその門戸を叩いたのではないか。野球がしたい。勝ちたい。だが試合には定員がある。どれだけ時間を費やしても、精神と肉体をすり減らしても、選ばれなければ、実力が無ければ試合に出られない…結構残酷なシステムであるが世の中の縮図のようにも思える。

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中学の頃、バスケ部に入っていた。それなりに強く、市や県大会では必ず入賞するようなチームだった。もちろん練習も厳しかった。それでも、スタメンには5人という定員があり、試合に出られる者と出られない者との分断があった。

ある試合の終わりに、チームを率いるキャプテンがベンチに対してこんなことを言った。「試合に出ない奴らは疲れないから良いよな」と。

僕は彼の発言を一生忘れることはないだろう。「試合に出ない奴ら」は、試合に出られずとも、厳しい練習に耐え、監督に怒鳴られ、果てにはチームメイトに悪態をつかれるのである。それでもなぜ彼らは部活を辞めずにいるのか、なぜほぼすべての週末を自分が出られない練習試合に費やすのか。それぞれのドラマがあるはずなのに、選ばれなかったというだけであたかもそれが存在していないかのように扱われてしまうのだと、僕はその頃に知った。

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高校時代に対バンした同世代のバンド、もう7年も前の話だが———彼らは未だにバンドを続けていて、有名なロックフェスにも出演し、ファンも多く、そろそろメジャーデビューするとのことだ。

あの頃、僕もプロのミュージシャンを目指す世間知らずな高校生のうちの1人だった。

彼らのことをメディアで目にするたびに、ドキッとする。少し緊張もする。それは、恥ずかしながら、もしかしたら僕も何かが違えば、彼らのようになれたのではないか、と思ってしまうから。

もちろん、当時から決して越えられない壁があったことも、「才能」だけでは片づけられない彼らの努力も、僕はわかっている。わかっているけれど、それでも、もしかしたら…もしかしたらと思わずにはいられない。

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人生はきっと、選ばれないことと選ばれることの連続で、もしかしたら「選ばれない」ことの方が多いのかもしれない。もっと言えば、自分が「選ぶ」ことはほとんどないのだろう。

今風に言えば、それは「何者にもなれなかった」ということになるのだが、そんな手垢のついたフレーズで自分の人生を言い切るなと全ての人に言いたい。デフォルメされた情報だけで人の人生を判断するな、その青い芝を刈ってみろ、一枚はがせばただの無機質なコンクリートだから。

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井出崎・イン・ザ・スープ
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