身体性と没入感の相関を忘れてはいけない。
昨今のゲーム環境は驚くほど進化、細分化しており、通信や処理能力の強化も相まって、まるで『その世界に入る』ごとき《メタバース》が拡大していっており、と同時にソシャゲコミュニティとも言える《デジタル関係人口》の増大も顕著。そして《GPT》等のAIの爆発的な普及。。
技術的特異点(シンギュラリティ)に肉薄していくにつれて必ず浮き彫りになると自分が思うのは、
身体性の再認識
どれだけ技術的な進化加速が起こっても、所詮生物である私たちの身体が加速するわけではない(医療ももちろん進化しそうですが、、)
「衣食住」をはじめとした《身体性》は人間知性の核として逃げも隠れもできない《現実》。
昔から人は物語を通して、コミュニケーションを通して、文化を醸成し、神や仏という存在を(生み出し)大切にしてきた。
今はデジタル世界という新しい神のような存在に急速に飲みこまれていますが、そこで知覚する“没入感”というものは、実は経験則や知識、他人や社会という“外部刺激が思考と組み合わされて”『世界を細部に至るまで再認識している状態』であり、それはひとりひとりがそれぞれ必ず持っている《基本的な感性機能の一部》だと思うのです。
登山が好きな方、サーフィンが好きな方、読書が好きな方、旅行が好きな方、、それぞれが“没入感”を識っている。
そしてその大元にはそれぞれの《身体性》がある。
痛いから、心地良いから、重いから、軽いから、、身体が世界を感じるほど“没入感”は深くなる。
神宿-kamiyadori-では、その《身体性》を再認識して、その先にある“没入感”までガイドし合う。そういう《関係性の創造》がもう一つのテーマかもしれません。
それは神音という場所を作った15年前からスタートしていて、
その「神の音」を岐阜の渓流の川石から聴いた40年くらい前に意識し始めたのではないか、、と振り返っています。