読むこと、書くこと
読むことと書くことについて、いつから興味を持つようになって、いつからしたいと思うようになったんだろう。本当に好きなんだろうか。
幼少期から、確かに人並みより少し多めに読書はしていた。
でもそれは、本が身近にあったこと以上に、本だけはいつでも親が買ってくれたからだと思う。漫画やゲームその他のものは一切買ってくれないから、仕方なく。子供ながらにそういう打算の気持ちも少なからずあった。
例えば、夏休み恒例の読書感想文は大嫌いだった。作文も楽しいなんて思ったことはないし、国語のテストは勉強量に比例せず、いつも不安定だった。漢検は、勉強しなくても受かると言われていた3級を落とした。
ま、でもあの頃に読んだ本はその時の衝撃や感情をと共に今でも強く思い出される。
そういえば、小学生のことはよく早起きをして小説もどきにような創作物をせっせ書いていたっけ。その頃から、細く長く途切れながらも日記は書き続けている。国語の教科書に載っている本を先取りして読んだり、音読するのも好きだった。あと、国語の授業は気まぐれで真剣に受け、集中できない時は国語便覧を読み込んでいた。(落書きもよくして怒られた。)
こうして学生時代を振り返ってみても、読むことや書くこと、意識せず気まぐれにすることはあったようだけど、強い興味や執着はなかったんだよな、と改めて思う。
では、いつからだろう。
働き出してから、心身に余裕がないことが増え、小説に没頭できない時期があった。
そんな時、小説以外の読書を知った。それは詩集、エッセイ、実用書、絵本など多岐にわたる。自分のまとまらない感情や思考の言語化を助けてくれる一番の拠り所として、読書の深みに浸っていったような感覚は覚えている。そんな頃に出会った人に、言語化の場所としてこのnoteを教えてもらったんだった。そうして、読むことで頭の中で言語化されたものをさらに解像度を上げるために自分の言葉に落とし込むようになった。(あ、でも正確には、noteを知る前まで、別のアプリで書くことはしていたけど)
それから、本の虫だと名乗ってみたり、読書会や書店巡りに勤しみとにかく本を買い漁って、本棚を充実させた。本屋で働いてみたりもした。
でも結局、本屋は辞めてしまったし、読める本<読みたい本のせいで積読しまくっているし、多趣味のせいでなかなか本を読めなかったりもしている。自分のことを本の虫とはもう言っていない。
それでも、生活の中で本に触れることは癒しで、昼下がりの窓べや静かなカフェでの読書は至福だと感じる。通勤時間に、5分でも本を読めると心がほぐれる。好きなだぁと思う。
書くことに関しては、本の感想や、日々のことをのInstagramのサブ垢やnoteに書いてみたり。表現の本や辞書なんかも眺めてみたり、ライターへの興味を持ったこともある。でも未だに長い文章は書いたことがないし、頻繁に書きたいと思うわけでもない。書くのに時間がかかるし得意にはなっていない。けれども、書き上げた時、何度も自分の文章を読む。書いている時も読み返す時もたのしい。だから、やっぱり書くことは好きだなと思っている。
何が言いたいって、自分のこの読むことと書くこと対する好きという感情が、どこか嘘っぽいような浅いような、違和感を抱くこともあって、それについ改めて考えてみたかったわけ。
けして幼少期からの文学少女でなくても、自慢できるエピソードがなくても、触れる頻度に波があっても、どっかの読書家が年間100冊読もうとも、有料記事をさらりと書ける人がいようとも、誰と比べるでもなく、好きなもんは好きなんだと、言っていいよね。