運命の女性と巡り会うまで恋愛の必要がない理由【私的】
私の中で、無条件の愛、献身的な愛、全肯定的な愛でなければ本当の愛ではない、と言う気持ちがある。
なぜなら、自分以上に相手のことを考えているのでなければ、それは自己愛の域を出ないから。
例えば、相手のために何かをしたいという気持ちは、相手のためになることで自分の中の何かを満たしたいという動機が上に来ているものであれば美しいとは言えない。
善悪の話でなく、個人的な美醜の話である。
私は美しい恋愛でなければするに値しないと考えている。
私は一人が好きで、物心ついた時から孤独や寂しさを感じたことがなかった。
だから自分を慰めるためにする恋愛は必要はない。
そして私は異性とのセックスなどの肉体接触に興味はない。
中途半端な自己愛による恋愛は退屈しか生まない。
それは私にとって僅かに新しい体験ではあっても、破壊的な衝撃を与えるものにはならないから。
私は常に自己愛と共にある。そこから新しい場所へ行けるのでなければ、そんなものを必死に求める道理はない。
恋愛は感情の発露的行為であり、私のように理論的精神的に恋愛を捉えることは自然の摂理からはズレているだろう。
ただ、私は常に他の人間のことを、自分に何かを提供してくれる存在なのか否かで選別している。(自然とそうせざるを得ない)。
何かというのは、物理的な物や金というのもあるが、どちらかと言うと、インスピレーション、感情、新たな体験など。
そんな私は感情的に恋愛するのは難しい。それを取り払うには、理性を超えなければならない。
私がいつか、自分の何らかの利益という次元を越えられるなら、それは楽しみなことであるとは思う。
しかし別に無理して越える必要はない。
今のままエゴの中に生きるのも悪くはないから。
ただ、エゴを越えても良いと思えたなら、それに値する人間、運命の女性と出会えたなら、楽しそうだなと思うだけのこと。
自分の幸福(心の平穏、苦悩の除去)とか、そんなことどうでも良いと思えるくらい幸せにしたい、笑顔が見たいと思えるような相手と出会えたなら、自然と私は恋愛することになるだろう。
お前は何様なのかと、問う人がいるかもしれない。
俺様である。
デフォルトでは、自分は自分が一番大切に決まっている。
それは私だけでなく多くの人に共通している。
私は自我意識の中で、この世界よりも高い位置に立っている。
「過程は関係ない、犠牲を払っても構わない。
私が最後に幸福であればそれでいい。」(よう実の綾小路清隆風。)
この私の結論を覆してくれるくらいのビッグイベントは用意されているのか。
どんでん返し、私がそれ以上の価値を見つけられるのか。
世界よ、お前はそれを提供できるのか、見物させてもらうよ。
私は自分の人生にいくらかの遊離感を持っている。
この世界に自由意志なんてないという宿命論的立場であるというのもある。
しかしあくまでも自由意志はあるかのように生きている。その方が都合がいいから。
インドのヴェーダーンタ学派の権威であるシャンカラも似たようなことを言っていた。
勝義の世界では意思はあるけど、世俗の世界ではない、みたいな。
また、全ての人間は役者でしかない、予め与えられた役を演じているに過ぎないと、直感的に納得してしまうことが多々ある。
人生とは幼稚園の時にやった"はっぴょうかい"と同じ。
どちらも共通点があるから。
劇が終わって仕舞えば、役はもはや意味を持たない。
命が終わって仕舞えば、私はもはや意味を持たない。
だから結局、運命の女性と出会えても、それはただの役であり何でもないことなる。
そうではあっても理想的な美しい役であることは確か。
それが役だなんて考えないくらいに我を忘れて楽しめる役である。
ただそれだけ。人生にさまざまな差異あれど根本には死という平等がある。
けれど、この価値観すら覆るかもしれない。
運命の女性と愛し合ったら、いつまでも愛し合いたい願望から来世なんて信じてしまうかも。
別にどっちでもいいけど、少し楽しみにしておこう。