飛び降り自殺者に共感できる人とそうでない人で何が違うのだろうか。【考察】

はじめに

横浜駅での飛び降り自殺のニュースについて思うこと。
今回、飛び降り自殺した方が、下にいた関係のない方を巻き込んで命を奪ってしまったということで、大変バッシングされていて、私としてはここまで極端なことあるんだ、と驚きました。
嘘です。まあ毎度の如くそうなるだろうと思いました。

飛び降り自殺者は自分の意志でこのようなことを起こしたというよりは、そうせざるを得なかった環境の被害者であったことは言うまでもありません。
つまり両者ともが被害者なのであるが、何故か多くの人間にとっては、巻き込まれて亡くなった方が被害者で、巻き込んだ自殺者の方が加害者のように思えるようである。

ここでは生きることに希望を持ち、死に消極的である人間を強者、そうではない人間を弱者と便宜的に呼ぶことにする。
また、本記事は強者と弱者の相互理解の一環として、できれば強者側の人にも知ってほしいと思って書いていくこととする。


私の考えを受け入れろ、弱者を尊重しろ、と言うのではなく、大多数の人間には私のスタンスは受け入れ難いことは承知の上であるが、世の中を良くしていく上で、両者の意見を闘わせ止揚することが必要であると思っているので、その一助となるように、論理的な批判を受けることができるように祈ります。

もちろん、自殺の問題は人間の感情を勘定に入れて議論する必要もあるので、それを排するつもりはないが大事なのは割合だと思っていて、ツイッターみたいなSNSだと短文でしか会話できないから、極論憎悪の交換にしかなっていない場合が多い。
まとまった文章でないと主張というのは伝わりにくいし、そこに至るまでの思考の道筋がなければ、立場の違う人同士は分かり合えるわけがない。

そういった意味で、社会的には理解されないことを承知で忌憚なく、私の考えを書いていきたい。

なぜ一般的に、今回のケースの巻き込まれた側の方がはるかに共感(同情)され、飛び降り自殺者側が共感よりもバッシングを受けるのか考える。
① 見える影響と見えない影響
②強者と弱者の立場の違い
この二つに分けて、細々とした部分はこの二章の中に折衷して書くこととする。

① 見える影響と見えない影響

今回の場合、直接的に死に至らしめられたのは巻き込まれて激突された方である。
この死には分かりやすい具体的な人間としての加害者がいる。
一方、自殺者の方を死に至らしめたのは社会的環境であり、それは具体的なかたちを取らない。つまりその怒り悲しみはぶつけようがないのであり、そもそもイメージがしづらい。

いや、正直、私のように本気で自殺をしようと思ったことのある人間には後者の方がイメージしやすいのだが、そうでない一般の人にとっては前者の方がイメージをしやすい。
社会という透明性のある、具体的な個人を取らないものよりも、具体的な人間の加害者の方に何かをぶつけたがる傾向が強い。


そのため、実際には被害者であるが、直接的には加害者のかたちを取る今回の飛び降り自殺者は非常に非難される。
本当に憎み、本当に非難しなければならないのはこの社会であり、私たち一人一人であるということに気づかない。
気づきたくないという可能性もある。分かりやすい加害者をつくる限り、その原因を全てその個人へと集約できるから。その方が楽だからね。

責任を取りたくないというのは人間として自然なことで、私たち一人一人が今回の自殺、それに付随する事故死をつくったとした場合は、私たちは内省しなければならなくなる。
しかし今の世の中で、元気に精力的に生きている人たちにとっては、そういったことは自分たちの生活上において余計なことであり、どうしても弱者の生き死にを自分にも関係があることだと思うことは難しいから、自殺者個人に解決を丸投げする。

つまりは「勝手に死ぬのはいいけど、俺たち強者側に迷惑はかけないでね」と。
しかしそれは絶対的な解決にはならない。なぜなら、自殺する側は迷惑とか、そんなことを考える余裕はないから。
そういったケースがまさに今回の場合であり、私たち一人一人に原因があるということに気づく必要があると思った。

「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。おのおのの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。
キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。」

新約聖書(ローマの信徒への手紙 15.1-3)

これは私自身への自戒も込めている。マタイ福音書にて、人を裁くことの浅ましさが述べられるとおり、私は人に対してあれこれ言う前に自分がやらなければならないと思っている。
だからこそ私は、今はインターネットで、こうやって弱い者に慈悲をもち、人間生命としてお互いに向上していく大切さを訴えることしかできないが、精神的に立ちなおってきている現在ではあるので、やがて具体的に行動を起こしていきたい。

私の行動をより善くしていくことで隣人愛の輪をひろげていきたい。それはこの世界を変えることのほんの一助にしかならないだろうけど、できる限りのことをするというのが人間の真骨頂だと思うから。
ちなみに私は特別クリスチャンというわけではないです。強いて言えば自由主義神学。

②強者と弱者の立場の違い

ここからは強者と弱者の立場の違いということで話していく。
強者の方々が弱者を理解できないのは仕方がない。私も強者の方々を理解できないから。でも、少しずつ対話をして便宜上での理解をする必要はあると思う。
完全には理解できなくても、それによる社会的弊害が起こらないようにするために、理解せねばならない部分と、そうでない部分を切り分けて、前者をできる限りの受容した方が、強者弱者入り混じるこの社会を成り立たせる上で合理的であるだろう。

弱者をジェノサイドするとかならまだしも、そういうことはしないわけでしょう。つまりこれからも強者と弱者間の、生きている世界観や立場が違うゆえの争いというのは終わることがない。無差別刺傷とかね。
そういうことは起こらない方がいいわけだから、じゃあできる限り相互理解する必要があるよね、弱者に対して、勝手に迷惑かけずに死ねみたいな風潮はよくないよね、ということにならざるをえない。

例えば、私の中では生と死はフラットであり、特別死ぬことが悪いことであるとは思わないから、「突然上から人が落ちてきて訳も分からずに死ねるとか羨ましいな。あー、一般の人にとってはこれって嘆かわしいことなんだ」みたいにツイッター見て思った。
意外と私みたいな感性での引用リツイートほぼなかったから驚いた。日々希死念慮を抱えて生きてる人間からしたら羨ましいが真っ先に浮かんでくると思うけどな。


多分これは一般的には不謹慎と言われるから、あまり言わない方がいいことだと分かっているが、ここではあえて書いた。それだけ私は死に対して大袈裟に振る舞う強者の方々を理解できない。逆もまた同様だろう。

また、本当にこの考えを受け入れてほしいとがではなくて、絶対に今回死亡した方二人ともが平等に被害者であるという方が平和的であり、どちらかをより被害者であるとすることは間違いであることは承知であるが、弱者目線での感想では、はるかに自殺者の方に同情してしまう現実がある。
私は苦しみの総量で判断してしまうから。

私はずっと自殺したいと思っていた。でも自殺できなかった。生物としての死への抗いに勝てなかった。
だからこそ、自殺を実行に移すことの難しさ、自殺を実行に移せるまでに心が死んでしまった過程の部分を想像すると本当に辛くなる。自殺という生物として不合理である行動をするほど生物を辞めねばならなかった、そこまでにどれだけのものがあったんだろう、と想像した時に、とてつもないものがあったんだろうなと、思うと私は何も言えない。

そんなふうに人生で苦しみ切って、自分の意志などという領域ではなく、自殺を選ばざるをえない人が年間20000人以上いるという事実。
私は毎日、「今日も生き残った。きっと今日も誰かが死んだけど、私は生きている。それは何故なんだろう」と自分に問うている。
私にとって死は身近なものだし、きっとそれは全ての人にとってもそうで、自覚しているか否かでしかない。

それなのに強者側の人間は、毎日自殺者に対して何かしらの思いを抱くことがない。が、今回のように強者側の人間が亡くなった場合は大いに死について考える。
強者側の人にとって自殺は身近ではなく、事故は身近だから、構造上仕方ないことは分かっているため、私は責めたいのではなく、知ってほしいと願う。


ただ、今回の飛び降り自殺者を殺人者であると感情に任せて曲解するのはあまりにおかしいのでやめた方がいいと思った。ネットの極論好き人間だけで、現実ではそんなに多数派ではないと思うけど。
事実上殺人とか、結果としては殺人、みたいに使ってる時点で、殺人ではないことは本人が一番示唆している。
殺人の意志がない時点でそれは殺人ではなく過失致死なんだけど、誤ったことを発信して、それが感情論のもとたくさん拡散されるSNSはほんとうに怖い。

また、自分が被害者遺族でも同じこと言えるのか、みたいな常套句があるが、そりゃ言えないでしょう。
ただ被害者遺族でない人間が被害者遺族に勝手に感情移入して好き放題加害者を罵っていい理由にはならない。殺人っていう汚名を着せてみたりとか。
100歩譲ってそういったことをしていいのは被害者遺族とその友達だけ。そういった方々にはその権利があるけど、そうでない人間は片方に肩入れし冷静さを失うことは異常だと思う。

人と人は分かり合えないが、社会を形成する以上はわかり合っているていでいなければならない。
そのための努力を相互的にする必要があるので私はそれを訴えていきたい。
情報発信以外に私に何ができるのか。誰かの役に立てるような準備、日頃の行動を頑張っていきたい。
人と接するときにできる限り笑顔でいるとか、電車で我先に座らないで席を人に譲ってあげるとか、今はその程度でも、私はいつか実際的に苦しんでいる人と向き合いたいし、その時がくると信じている。

やたらと理想論は嫌われるけど、多くの人が理想を抱けばそれは成すことができると思うので一人一人が自己ではなく利他に生きてく、それが人生であると気づけるように祈っています。
利他について、私が影響を受けている考え↓

「生産的な性格の人にとっては、与えることはまったくちがった意味をもつ。彼らにとって、与えることは、自分のもてる力のもっとも高度な表現である。与えるというまさにその行為を通じて、私は自分のもてる力と豊かさを実感する。この生命力と能力の高まりに、私は喜びをおぼえる。私は自分が生命力にあふれ、惜しみなく消費し、いきいきとしているのを実感し、それゆえに喜びをおぼえる。与えることはもらうよりも喜ばしい。それは剥とられるからではなく、与えるという行為が自分の生命力の表現だからである。」

エーリッヒ・フロム『愛するということ』  鈴木晶訳 p42


強者と弱者では、どうしても自殺する弱者というのは軽くみられる。社会的弱者なのだから字の如くなのだけど。
一方巻き込まれた側の方は一般的な強者側として感情移入される。
飛び降り自殺では毎回そうだ。
飛び降り自殺者と電車の運転手は両者ともが被害者であるが、社会生産性や目に見えるかたちでの加害性によって前者は責められる。

私はどちらが正しいとかでなくて、ただ「どちらも被害者であり私たち一人一人の問題である」というスタンスをとった方が社会的な問題を解決していく上で合理的だと思う。

しかし強者は弱者を理解できないので、私が弱者として考えを文章化して相互理解を図ろうということだけど、急進的に何かを変えようとすることは良くないと私は思う。
必ず反動がくるから。

私は本当に理解し合えない人に対して言葉を紡いでいるつもりはない。
本気で心から今回の飛び降り自殺者を加害者だと非難してる人とか、本気で迷惑かけないように死ねとか言ってる人にいちいち突っかかっても何にもならない。
私は愛の実践、その情報発信をこれからもやっていくし、それをできうる人に対して発信している。

安楽死なんていつ実装されるか分からない。個人的に、安楽死が実装されれば自死者は半分くらいにはなると思う。ほんと、何で実装されないのか。
でもそんなことを言っていても仕方ないから、できることをやっていきたい。

今この瞬間、今日も自殺をした人はいただろうし、親から虐待を受ける子供もいる。そんな世界で、私たちは今こうして生き延びている。それってとても感慨深いことだと思う。多くの人がそれを感じてほしい。

当たり前じゃないこの幸せを感じて、苦しんでいる人に寄り添おうという意思決定をしていける世界になる。絶望が伝染するように希望は伝染するから、そのために慈悲の心をもってほしいと思う。


自殺が当たり前に起こるこの世界で、どうして普通にしていられるんだろう。どうして私じゃなかったんだろう。
そうやって他人の死を悼むことは多くの人にとっては無理な話なのだろうか。
飛び降り自殺者によって電車が止まった時に、多くの人は、その人を一人の人間として、社会共同体の一員として命を悼むということはなく、ただ迷惑行為するなと非難する。

正直私は信じられないし、それは多くの人が心に余裕がないからで、少しずつ変わっていくことはできるはずだと、思わなければあまりにも残酷すぎて私が耐えられない。
だからこそ私は隣人愛や感謝など、ポジティブな発信をしていきたい。
私はこの世界が弁証法的に進歩していけると信じている。

自殺者は好きで自殺したわけではない。
自らの意思ではなく、選ばされた結果であり、両者ともが生きたかった命。
でも自殺せざるを得なかった要因があったし、倫理的に考えれば命に優劣なんてないということを最後に付け加えて締めくくります。

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