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花束みたいな

先延ばしにしていた映画をようやく観た。といっても昨日今日の話ではなく下書きからすでに1ヶ月が経とうとしていることに気づきゾッとする。どうにも時の流れが早すぎる。
おおよそ3年ぶりに遊園地に行った。
背が伸びて一人でゴーカートを運転する子の姿に時の流れを想った。3年か。

寝て起きて見知らぬ人に今は2034年ですよあなたは10年も眠っていたのですよと言われたとしても今のわたしならあぁそうですかとすんなり受け入れてしまうかもしれない。おや、と振り返れば夏になっているような飛ばし飛ばしで毎日を生きてるようなそういう感覚だ。瞬間を生きるとか今を生きるとか言葉にするのは簡単だけど当然のことながら全ては瞬く間に過去になってフォルダに保存されていく。時々どんなに足掻いても思い出せない記憶があるのは神様の優しさなのだろう。
何かに追われているわけでもなく淡々と日々は過ぎてゆくのに時間の感覚というものは不思議なものだ。匍匐前進しながらじりじりと生き延びていた日々に懐かしささえおぼえるほど。
明日から4月だなんて信じられない。
まぁそれはいいとして映画の話。

お互いが同じくらい優しくて同じくらいうんざりしてて同じくらい愛してたならありえる別れ方なのかもしれないと映画を観て一瞬思ったけれどいやいやこんなん無理だしと小声でつっこんだ。
過去のことを笑い合って楽しかったねって微笑んで今までありがとうって握手して別れる。
うつくしいね。うつくしいけど嘘だろって思う。そんなん嘘だろ。五分五分だなんて。だいたいはどっちかにぐらりと傾いてものの見事に落とされる。落とされまいとしがみついても結局無残に落ちてゆく。落とすしか方法がないこともお互いに分かっているし、しがみつかれた傷痕はいつまでも消えない。
別れに美学を持ち込む人間などほとんどいないことをわたしは知っている。どんなにうつくしく別れようとしてもぐしゃぐしゃに踏み潰されるような別れ方しか残念ながらわたしは知らない。うつくしく別れようだなんて終わらせようとする側の傲慢に過ぎない。
踏み潰されてあらためて気づく。この人はわたし自身を愛していたのではない。わたしという人間が自分にとって望ましい存在である時にのみ価値を見出していたに過ぎないのだと。

花束みたいな恋。うつくしいもので溢れた恋。
たとえそれらが幻想であったとしても結局人はまた人に恋をして枯れてしまうその前に相手に花束を渡す夢を見る。些細な記憶は束ねられ両手いっぱいに抱えたままいつの日か渡せますようにと何度も何度もリボンを結ぶ。
ほどけては結びもうほどけまいと思っていたものがまたするするとほどけていく。
花束みたいな恋。いつかは枯れてしまう恋。
恋は枯れても愛は枯れない?ほんとかな。
そもそも愛ってなんだろな。
もういいやとそっぽを向いてはまた見つめる。
何故だろう。わからない。困った困った。
時の流れは早すぎてカサカサになったドライフラワーをいつまでもいつまでも眺めている。
たしかに伝わる感覚を何の疑いも不安もなく信じられたら楽なのに。

渡したくないわけではない。
全てがいつかくしゃくしゃに
握り潰されるのが
怖いだけ。



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