結果と原因

今回は結果と原因について書きます。

結論を言うと

「結果があるだけ。原因は存在しない」

となります。

皆さんは「原因」があって「結果」があるという世界にいませんか?


「ファッ?当たり前でしょ。原因があって、結果があるの。私は日々の食事制限、パーソナルトレーニングの「結果」としてこのスタイルを維持しているの。
今隣にいるイケメン彼氏だって、私が髪のトリートメントを変えてから、『髪も綺麗だね』って口説かれて付き合うことになったの。
「因果応報」って言葉知らないの?「結果」には必ず「原因」があるのよ。小学生で習ったでしょ?
私が美しくなった→イケメン彼氏ができたってことよ」


と聞こえましたが、これは本当のことでしょうか? 

例えばあなたが外に出て、鳥の糞が肩に落ちてきたとします。これは何が原因でしょうか? 
例えばあなたが、先程のイケメン彼氏と別れてしまいました。これは何が原因だったでしょうか?

鳥の糞が落ちてきた→原因:空を見なかったため避けられなかった。たまたまそういうこともある。運が悪かった。

彼氏と別れる→原因:喧嘩の勢いで「顔は良いけど器が小さいんだよ!ヤクルトかよ」と言ってしまった。彼氏が以前より私を雑に扱うようになって辛くなった

などですよね。
注目してもらいたいのはこの「原因」の部分です。これって全て皆さんの「解釈」ではないですか?
皆さんの実例で振り返ってみてください。原因→結果を考えてもらいたいんですが、原因は「自分の解釈」で認識していませんか?

「いや、今俺は歩いてこの『ファミマ』まで来た。そしてここで『ファミチキを食べている』これは確実に 『歩いた→ファミマにいる』が成立している。」ということもあるでしょう。

でもこれも解釈です。
歩いた→ファミマにいると関連づけているだけではないですか?
歩いた|景色をみた|ファミマにいる|ファミチキ食べる|これが「単体」で起きているだけなのにあたかも歩いたを起因(原因)とした結果でファミマになってませんか。

とどのつまり、言いたいことは「結果しか存在しない」ということです。原因なんてありません。原因と呼べるものそれは全て「解釈」です。解釈というのは「自由に変えることができる」し、「無限に作れます」つまり「まぼろし」です。真理ではありません。

私たちが原因→結果と強く認識しているから、振り返った時に、「瞬時にそれを作り出している」わけです。
あたかも都合よく私たちが解釈をして器用に繋げているのです。
先程の例だと
鳥の糞が肩に落ちた。→解釈
彼氏と別れた。 →解釈 となります。

それじゃあ直接彼氏に別れた「原因」を聞けば良いんじゃないの?それが分かれば原因→結果が明確になるでしょう?

彼氏は言います。「原因?あーなんだろ、なんか居心地悪かったんだよね。だってめちゃくちゃストイックなんだもん。俺がピザ食べたいっていっても『脂質が多い』とか言われて、ずっと鶏肉ばっかりで、俺鳥嫌いなんだよね。羽がバサバサ散るのとか鳥肌立つし」
と言ったとします。
これは確実に「ストイックと鶏肉」が原因だと思うでしょう。

しかし、これも彼が「原因」を聞かれて生み出した「彼の解釈」ではないですか?
半年後家彼は言います。「やっぱりお前のことが忘れられない。もう一度やり直したい。実は別れた後もずっと好き。鶏肉は嫌いだけど。」
そうして彼とよりを戻すことになりました。

彼氏と別れた→鶏肉のせいで別れた(解釈)
彼氏と戻った→ずっと好きだったらしい(解釈)
解釈は変幻自在ですね。

彼氏と別れた|彼氏とよりを戻した
これが結果で、ただそれが「起きているだけ」です。

つまり「原因」は私たちが「結果」の「解釈」として、
「生み出している」ということです。
「結果→原因(解釈)」です。
もっというと解釈は幻なので
「結果→     」=「結果」ということになります。
つまり因果律というものは存在しないのです。

結果のみが存在して、あとは私たちが「都合よく自然に時系列で繋げている」ということです。


「論破してみせよう。私は今日仕事に『遅刻』をした。それも2時間もだ。10時に起きた。そして上司に『怒られた』
これは遅刻が原因の結果で怒られた だろ?
ファミマとか適当なこと言ってるんじゃないよ」


これはなかなか厳しいですね。ですが解説しましょう。
結果として起こったことは、「遅刻した」|「怒られた」です。
突飛なことを言うようですが、

あなたはその時に「焦り、不安の感情」で「遅刻して怒られるはずだ」と考えていませんか?
「遅刻は悪いことだ、だから怒られる」という「観念」がありませんか?

詳しくはこちらの記事をご参照ください。



「怒られた」ことに本当に原因はあるのでしょうか? 遅刻しても「怒られない」こともありますよね。ならば遅刻→怒られるは成立しないことになります。

例えば3年間、無遅刻無欠席、誰がみてもエリートだと思う「時間厳守君」と呼ばれるような真面目な人が、初めて遅刻をしたときに「怒られる」でしょうか?「大丈夫か?」と逆に心配されると思いませんか?

そうです、これも私の考え(解釈)です。
つまり、「怒られる」も「怒られない」も、「原因」を見つけようと思えばいくらでも自由に作れるのです。それは解釈なのでまやかしということになります。
この場合はもっともらしく「遅刻」という所に繋げたというわけです。

「詭弁」だと思いますか?


ここまでで勘の良いみなさまは気がついていることでしょう。
「それならば『良いこと』が起こった原因(理由)も解釈じゃん。ってことは全部解釈じゃん」

そうです。実は私たちは結果(事実)に対して自由に解釈をして、喜んだり、悲しんだりしているわけです。
しかも「良いこと」が起きた原因なんて皆適当ではないですか?「運が良かった」とか、「日々頑張った成果だ」などで納得しているわけです。
そして「悪いこと」と思われること(結果)が起こった時は、
その「結果」自体にではなく、「とても豊かな解釈」によって、傷ついたり、心配、不安になったりすることが多いのです。解釈は存在しないものであれば、それに起因した「心配、不安は存在しない」まやかしということになります。逆も然りです。

つまりは全ては「自分で創っている」のです。
これが「自作自演」と言われているものです。

存在しないのだから、心配しなくてよいし、
心配することは「不自然」なのです。
「おがくずを挽くな」ということです。

解釈したいのであれば、まやかしといえど、「自分の都合の良い解釈をするべき」です。
「怒られた」→「俺のこと大好きなんだな」ということです。

最後にご提案です。

起きていることが全て「結果」だけでそれが「単体」で起きているだけ。なのであれば解釈は無駄です。
とどのつまり

「結果だけを意図してその後の解釈をやめましょう」


と言いたいのですが、難しいと思う方は結果に対して
「解釈しない」or「都合の良い解釈をする」をするをやってみてください。
シンプルに、「私たちは結果の連続を生きるだけでよい」のです。

そうすると不思議なことに、あなたには良いことしか起こらなくなります。

よくわからなくても、気楽にやってみてください。意識してみてください。

ちなみに、もし会社に遅刻をしてしまった場合は、「周りがドン引きするほど大きな声」で申し訳ございませんでした!!と30秒ほど頭を下げましょう。

そんなことを考えている筆者はいま「深酒」が「原因」で「二日酔い」であります。


最後までお読みいただきありがとうございました。


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