(8月9日まで 公開ビデオ) 天皇島の真実 ・・・ ドイツ統治により、パラオ🇵🇼の人口は、 半世紀で 90%も‼️ 減少した。 ((((;゚Д゚)))))))
差出人: ライズアップジャパン事務局
件名: パラオ人が感謝した日本軍の統治とは?
日付: 2021年8月7日
<本日スタート!>
テレビや教科書では伝えられない
大東亜戦争時代の"隠された事実"を暴いた
新しいビデオを作りました。
↓
ここから確認する
天皇島の真実
https://in.kamijimayoshiro.jp/kjdr1_19800_2108?cap=mail
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写真は1920年代、
日本が統治していた頃のパラオの街並みです。
あなたはこの写真を見てどのように感じますか?
"統治されている国"のイメージとは
異なるのではないでしょうか?
統治といえば、
1899年、ドイツがパラオにしていたような、
住民を奴隷のように扱い支配するといった
イメージを持っているのではないでしょうか?
具体的には、厳しい労働を倒れるまで強い、
反発して暴動を起こせば、大衆の場で銃撃され、
公園の木に吊るされ見世物にされました。
このような統治により、パラオの人口は、
半世紀で90%も減少したのです。
しかし日本の統治はドイツのそれまでのものと、
大きく違っていました。
ドイツが第一次世界大戦で敗北後、
日本によるパラオの統治が始まりました。
日本は、ほとんど進んでいなかった、
学校や病院、道路等のインフラ整備を整え、
近代的な町並みへと変貌させました。
そして多くの日本人が島民と暮らし、
差別のない扱いに努めたのです。
他にも、例えば、
・第二次世界大戦の終戦後、
島に残された日本兵の亡骸を見て涙したり…
・島には日本の方角に向けて
「西太平洋戦争没者の碑」が建てられていたり…
・1990年代初頭の独立後、
名前やパラオ語に日本語が使われていたり…
つまり日本の統治は、
ドイツのような侵略的な支配とは違って、
パラオ人を同じ国民の一人として扱うことで、
島に現代に続く活気と繁栄をもたらしたのです。
ではなぜ、教科書やメディアは、
"日本はアジアを侵略し、
植民地支配を行なった"
と伝えるのでしょうか?
そこにはある組織の思惑が隠れていたのです。
それは…
↓
天皇島の真実
https://in.kamijimayoshiro.jp/kjdr1_19800_2108?cap=mail
リニューアルされた新しいビデオを
まだ見ていない方はこちらからどうぞ
(公開は、8/9(月)までです)
天皇島の真実
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件名: 世界中を反日にした中国人女性の正体
日付: 2021年8月8日
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あなたは「日本は非道で残虐だ」と広めた
写真の女性をご存知ですか?
彼女の名前は、宋美齢(そうびれい)です。
中華民国総銃夫人で、
大きな影響を及ぼしました。
1942年に開かれたアメリカ議会において、
彼女は流暢な英語で中華民国に対する
日本の非道な行為を訴えました。
この演説により、
「残酷で野蛮な日本人と戦っている
美しくか弱い宋美齢」
というイメージが全米のアメリカ人に共有され、
多くの人が彼女の虜となり、
米国を中国の味方につけることとなりました。
そして日本に対する憎悪感を、
世界へ広げていったのです。
しかし、知っていますか?
宋美齢が主張する「残虐非道な日本」と裏腹に、
世界で初めて平和を提唱したのは
日本であるということを…
1919年、パリ講和会議において、
日本代表団代表の牧野伸顕元外務大臣は、
人種差別の撤廃を提唱しました。
このような提唱は、世界で初めてでした。
多くの国が賛成する中、
イギリス、アメリカを含む5ヵ国が反対し、
アメリカのウィルソン議長は、
全開一致でないことを理由に不採択としました。
当時、世界は白人列強により、
有色人種は差別されていました。
実際にアメリカのフィリピン征服は、
非常に残虐でした。
虐殺や水責めの拷問…
アメリカ軍の行動に抵抗した村には、
罰として子ども(男)を全員死刑にしました。
このような非道な行為により、
およそ100万人の命を奪ったのです。
つまり、日本は世界に平和を作りたかったが、
白人国家のアジア進出を進める都合により、
その機会を失ったと
考えられるのではないでしょうか?
ではなぜ、
現代のメディアや教科書は、
「日本は悪いことした」というトーンの
論調ばかり伝えるのでしょうか?
視聴率を取るために
情報をねじ曲げているからでもありません。
メディアが馬鹿だからでもありません。
戦争に対する苦しみや恐怖を煽って、
目を惹こうとしているからでもありません。
もちろんこれらもメディアが、
「日本が悪いことをした」と伝えている
一つの理由ではありますが、
このようになった裏には、
ある組織が関係していました…
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件名: [本日〆]アジア人差別から解放した日本軍の功績
日付: 2021年8月9日
「有色人種は人間ではない、
白人だけが人間である」
このような思想は白人列強による
植民地支配が進んでいく中で当たり前でした。
実際に、日米衝突が始まる前、
アジアは、ほぼ植民地支配されていたのです。
そのような中、
日本は欧米列強と戦うことになったのです。
戦時中の日本に対して
次のような賞賛の声があります。
-タイ副首相
タナット・コーマン
「あの戦争によって世界の至る所で、
植民地支配が打ち壊されました。
これは日本が勇敢に戦ってくれたおかげです」
-シンガポール第2代首相
ゴーチョクトン
「日本軍の緒戦の勝利によって、
アジア人は自分たちも
欧米人に負けないという自信を持った」
-マレーシア第4代首相
マハティール・ビン・モハマド
「わたしの心の中にアジア人としての自信が
次第に芽生えてきた。
マレー人だって日本人のように決心すれば、
なんでもできるはずだと」
また、朝鮮半島においては、
頻繁に暴動が起こり、
何十万人という死者が出るのが当たり前でした。
しかし、日本による朝鮮併合後、
日本列島同様にインフラを整え発展させ、
暴動は一度きりしか起こらなかったのです。
つまり、
日本はアジア侵略が目的ではなく、
欧米の植民地支配に対抗し、
アジア人の平等を守る為に
立ち向かえる唯一の国として、
戦っていたのではないでしょうか?
しかし、今日の教科書やメディアには、
「アジアの解放ではなく、アジアを侵略した」
「当時の日本は狂った野蛮な国」
といったように伝えられます。
あなたは、どのように読みときますか?
その他にも、
日本が侵略を目的としていたならば、
不可解な点が多い
"ペリリュー島での日米決戦"があります。
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最後に転載した、🎶 HEAVENESE 🎶の、リーダーマレさんによる手記もとても良いです。。。 「パラオの大和魂 ①〜⑤」
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盲目にさせられた戦後の日本人
インドに伝わる「6人の盲目とゾウ」という話を聞いたことはありませんか?この話が、戦後の日本の状況をよく表しているのです、、、目が見えない6人の修行僧はゾウを触り、こんな風に言いました。
1人は、腹 を触ります。 「これは立派な 壁 です」
1人は、牙 を触ります。 「これは 槍 ではないでしょうか」
1人は、鼻 を触ります。 「これは ヘビ じゃないですか!」
1人は、足 を触ります。 「これは 木の幹 ですね!」
1人は、耳 を触ります。 「これは随分と大きな うちわ ですね」
1人は、尾 を触ります。 「これは ロープ だな…」
こんな風に、6人の修行僧が思い浮かべたものは、それぞれまったく異なるものでした。
学校で習った戦前日本の知識はまさにこんな具合ではないでしょうか?「日本=悪」という色眼鏡だけで日本のことを理解しようとした結果、当時の日本人が何を考え、何を大事にしていたかという視点が欠けてしまっているので、もっと色彩豊かなはずの戦前の日本をモノクロにしか捉えることができず、、、盲目の修行僧のように目隠しをされた状態になっているので、知ることができない事実があることにすら気づけていません。
モノクロな歴史しか教わっていないから、無意識のうちに「アジアを侵略した軍国主義国家日本」という自虐史観に加担して、日本人自身が日本人を悪く言って、ますます自信をなくし、自尊心を傷つけています。「日本=悪」という色眼鏡を外せば、ご先祖の素晴らしい活躍、日本の誇り高い伝統や歴史があることは、あっさり見えてくるにもかかわらず、、、
そこで、一つ一つ歴史を見る視点を増やし、より深い歴史を学び、日本人の自信を取り戻す講座を作ろうと、上島嘉郎さんと協力して作り始めたのが「大東亜戦争の研究全8巻セット」であり、そのうちひとつが「大日本帝国の地政学」です。ぜひこの講座を通して「誤解された私たちの父祖の誇り」を一緒に取り戻しましょう…
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(伊勢雅臣氏のメルマガより転載)
■1.インド解放を目指して共に戦った日本陸軍とインド国民軍
8月15日は終戦記念日ですが、世界史から見て、もう一つ重要な出来事が起こった日です。終戦の2年後、1947年8月15日にインドは独立しました。それは大英帝国が最大の植民地インドを失い、その帝国主義が終わりを遂げた日でもありました。そして、インドの独立には、日本が重大な関与をしたのです。
大東亜戦争の開戦劈頭、日本陸軍は英領マレー半島を南下して、イギリスの東洋支配の拠点シンガポールを攻略しました。1200キロの距離を72日で快進撃し、兵力3倍の英軍を降伏させたのです。
最大の成功要因は、藤原岩市少佐率いるF機関が、英軍の中心であるインド兵たちを寝返らせ、味方につけたことです。「インド独立のために共に戦おう」との呼びかけに共鳴したインド人将兵たちが次々と投降しました。
そこにインド独立革命家チャンドラ・ボースが到着して、日本陸軍のもとで組織されていたインド国民軍の最高司令官となり、また自由インド仮政府を樹立して、その首席となります。
ボース率いるインド国民軍は、日本陸軍と対等の立場で、ビルマからインドを目指します。1944(昭和19)年1月に始まったインパール作戦です。一度はインドの土を踏んだ日印連合軍10万の将兵は、補給能力の限界から力尽き、3万の屍を遺して、撤退しました。
1945(昭和20)年8月15日、日本は降伏しますが、ボースは諦めません。戦後はソ連と米英の対立になると読んで、満洲に南下しつつあったソ連軍に身を投じようとします。日本陸軍の軍用機で台北まで飛び、そこから満洲に向かおうと離陸した時に、墜落炎上して、ボースは命を失いました。
ここまではJOG(508)、JOG(509)で述べました。本号では、その続編として、インド国民軍の決起が、どのようにインドの独立に繋がったのかを見ていきましょう。
■2.「メージャー・フジワラ(藤原少佐)!」
終戦時に福岡陸軍病院に入院していた藤原岩市中佐(当時)は、占領軍から「インド・デリーで開かれる軍事法廷へ出頭せよ」との命令を受けました。インド国民軍幹部の裁判の証人として召喚する、ということでした。
「これはねがってもないチャンスだ」と藤原は思いました。「一緒に戦ったインド国民軍の将兵たちは、祖国独立のために戦った愛国者であることを、全インドの民衆に訴えよう」と決心したのです。裁判の後で、自分も戦争犯罪人として捕らえられるかもしれないが、それでも自分は行かなければならない、と考えました。
藤原がデリーについたのは10月18日でした。すでにインド国民軍と関係の深かった片倉少将など数名の日本陸軍幹部が待ち構えていました。
到着の翌日、弁護団との初顔合わせがありました。弁護団のほかに、インド国民軍参謀長のボンスレー少将以下、懐かしい面々が口々に「ジャ・ヒンド(インド万歳)」「メージャー・フジワラ(藤原少佐)!」と言って、駆け寄ってきました。「ジャ・ヒンド」はインド国民軍のスローガンです。インパール作戦以来、10ヶ月ぶりの再会に、肩を抱き合って喜び合いました。
「裁判はどうなるだろうか?」と藤原中佐が聞くと、デイロン連隊長は胸を叩いて「心配は無用だ。もしわれわれをひとりでも処刑にしたら、イギリス人は生きて本国へ帰ることはできないだろう」と断言しました。イギリスがインド国民軍の将兵を反逆罪で裁こうとしているのに、全インドの民衆が怒って、デモやストライキを行っていたのです。
■3.「日本のおかげでインドの独立は早まった」
インドの最大政党・国民会議派の長老で首席弁護士に就いたデサイ博士は、胸まで白いあごひげを垂らした堂々たる老人でした。にこやかに藤原と握手をすると、博士はこう言いました。
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このたびの大戦に日本が敗北したことは残念であり、わたしは深く同情している。日本は建国以考初めて敗戦の苦痛をなめたわけだが、・・・いったんの勝敗ぐらいは決して失望するにあたらない。あなたたちのお国は優秀なのだ。わたしは、きわめて近い将来に、日本はは必ずやアジアの大国としてふたたび復興するであろうと信じている。
インドもまたきわめて近い将来必ず独立する。そのチャンスをあたえたのは日本である。日本のおかげでインドの独立は早まった。このことはインドだけでなく、ビルマにもインドネシアにも、ベトナムにもいえることだ。日本人は失望落胆することなく堂どうと胸をはっていいのだ。
さて、このたびの裁判は、不正義の裁判である。それを正義にするためにわれわれはあらゆる努力をかたむけるつもりである。[棟田、p187]
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博士の力強い励ましの言葉に、藤原は涙を流しました。
■4.「アメリカもイギリスも、この戦争を遂行する道徳的基礎を欠いている」
インド民衆の英国への怒りは、植民地とされた長い歴史の間に蓄積されていました。形式上は独立したインド帝国でしたが、イギリスの君主がインド皇帝を兼ねており、実質的に植民地支配されていたのです。
第一次大戦では、イギリスから戦後には自治権を与えると約束され、多くのインド兵が欧州戦線に赴きましたが、実際に与えられた自治権は名ばかりでした。裏切られたインド国内では独立運動が活発となり、後に「インド独立の父」と呼ばれるマハトマ・ガンディーが登場して、一般大衆にまで独立運動を広げたのです。
第二次大戦が始まると、インドは同意もしていないのにイギリス側の交戦国とされてしまいます。ガンジー率いる国民会議派は、イギリスに対して、対日戦に協力はできない、と声明を出しています。
米英は、日独伊との戦いはファシズム対民主主義の戦争だと主張しましたが、ガンディーは次のように批判しています。
__________
アメリカもイギリスも次のことをしないかぎり、この戦争を遂行する道徳的基礎を欠いている。それはアジアとアフリカから彼らの影響力と権力を撤退させ、人種差別の壁を取り除くという確固とした決断をして自らの家の内部をきちんとしておくことだ。[長崎、p6]
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アジア・アフリカの多くの地域を植民地とし、非白人に対して人種差別を行っている英米が、「民主主義」国として善玉ぶることは偽善である、という批判です。
インド人をさらに怒らせたのが、イギリスが1942(昭和17)年に行ったインド東部の焦土作戦でした。日本陸軍がビルマ(現在のミャンマー)までイギリス支配から解放した時に、インドへの侵入を防ごうと行った作戦です。
日本軍が食糧などを現地調達することから、農業と工業を破壊して、兵糧攻めにしようという冷徹な戦術ではありしたが、あまりにも現地人の生活を無視した作戦でした。
雨期には水浸しとなって、船がないと生活できない地域では、イギリス軍によって船が没収され、住民は「我々は日本軍の侵入前に殺されなくてはならないのか」と訴えたほどでした。
こうしたイギリスへの反感から、大衆運動として「クウイット・インディア(インドを立ち去れ)」が始まりました。この頃、ガンディーは日本軍がインドに侵攻してくると考えていたようです。
マレー半島やビルマでは、日本軍は抗日レジスタンスを行った華僑は弾圧しましたが、インド人には手を触れませんでした。ガンディーは勝利者としてやってくる日本軍とインド国民軍に友好的に振る舞う事で、インドの戦場化を避け、インドが独立して日本と講和を結ぶことを考えていたようです。
かつてガンディーは一度はボースを国民会議派の議長に任命しましたが、その後、武力での独立を主張するボースは袂(たもと)を分かっていました。しかし、この時期には、ボースとの連携を考えていたのでしょう。[長崎、p251]
しかし、1942年8月、国民会議派が「インドを立ち去れ」運動を決議した途端、イギリスはガンディーをはじめとする指導者を一網打尽に逮捕してしまいました。指導者のいないまま始まった運動は、インド総督リンリスゴーをして「1857年の大反乱以来、最も深刻な反乱である」と言わしめたほどの規模、期間、激しさでした。
■5.ネルーの裏と表
後に初代インド首相となるジャワハルラール・ネルーは、ガンディーの弟子ながら、まったくイギリス寄りの考え方をしていました。イギリスの焦土作戦を支持し、抗日ゲリラ戦の呼びかけまで行いました。さすがにこれは国民会議派内部からも抗議の声があがりました。
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ゲリラ戦などを語ることによって我々は中立の札を捨て、戦争に飛びこんでいくことになるのです。もし我々がガンディーの指導を採用すれば、日本は我々を攻撃さえしないかもしれないと私は思っています。日本の中国に対する戦争を除けば、我々は日本にたいして何の敵愾心も持っていないのですから。[長崎、p157]
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ネルーはさらに「もし日本がインド人裏切り者の軍隊(JOG注:ボースとインド国民軍)を使っているなら、彼らにたいしても抵抗しなければならない」とまで言っています。[長崎、p165]
イギリスから見れば、まことに好ましい存在でした。しかし、こういう極端な意見には支持は集まらず、ネルーはガンディーの路線に妥協せざるを得ませんでした。
戦後、インド国民軍の裁判が始まろうとすると、ネルーは一転して、弁護団にまで加わり、「反乱はインドの義務であり、もし自らを解放するために革命を行なう用意のない民族があるならば、それは死んだ民族である」[稲垣、p238]と述べました。どうもネルーは表と裏を使い分ける、風見鶏のような人物だったのではないか、と思われます。
■6.インド国民軍裁判へのインド民衆の怒り
裁判では、藤原中佐がインド国民軍創設の事情について陳述し、英印軍捕虜の国民軍参加はあくまで個人の自由意志によるもので、決して強制されたのではないことを強調しました。
また片倉少将は、インド国民軍はインパール作戦の際に、日本軍の組織内に繰り入れられたのではなく、独立した軍隊として別個の正面を担当し、全く対等独立の存在であったことを述べました。
こうした証言は、インド全土のマスコミに報道され、ボースとインド国民軍が日本軍の傀儡ではなく、インド独立のために戦った愛国者であったことを国民に印象づけました。インド民衆の裁判に対する抗議行動はさらに過激化しました。
首都デリーはデモの波で覆い尽くされ、押し寄せる何万もの群衆の叫びが裁判所内部まで聞こえてきました。カルカッタ、ボンベイ、カラチなどの主要都市は騒乱状態になりました。とどめとなったのは、全インド海軍のインド人水兵がイギリスに反旗を翻したことでした。水兵たちは「インド国民軍海軍」と名乗って、ほとんどの艦艇と海軍施設を乗っ取り、英国旗を引きずり降ろしました。
イギリスがインド支配を続けようとすれば、大規模な本国軍と官僚群を送り込み、民生安定のための莫大な経済援助もする必要がありました。第二次大戦で疲弊したイギリスには、その力は残っていません。アトリー英首相は、インドに自治権を与え、将来の憲法制定も、英連邦に留まるかどうかの選択も、インド国民の自由意志に任せるとの声明を発表しました。
■7.ボースが復活する日
こうしてインドは独立を達成し、ネルーが初代の首相となりました。『革命家チャンドラ・ボース』の著者・稲垣武氏は次のように述べています。
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ネルーら会議派主流は大戦直後の四五~四六年の独立運動高揚期にはボースと国民軍の業績を評価し、それへの民衆の感動を運動のテコに利用したが、独立達成後はなるべく無視しようとした。[稲垣、p249]
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ボースは、事故死の後、東京・杉並の蓮光寺に埋葬されました。インド政府が連合国への聞こえを慮(おもんばか)ってか、遺骨の引き取りをためらったのです。
ネルー首相は1957(昭和32)年10月に来日した際、蓮光寺を訪れ、ボースの冥福を祈りました。「この遺骨はインド国家のものであり、いずれは引き取らねばならないが、それまではよろしくお願いする」と言い残して辞去しました。
日本ではボースにゆかりのあった人達が、8月18日の命日に毎年、盛大な慰霊祭を催すようになりました。これらの人々は何度か正式な外交ルートでインド政府に遺骨引き取りを打診しましたが、反応はありませんでした。
ボースの遺骨が母国に帰れなかったのは、当時の国民会議派としてボースとインド国民軍が独立の原動力として脚光を浴びては面白くないこと。さらにボースはまだどこかで生きている、という伝説が民衆の間で広く信じられていたからでしょう。
それでも、ボースはインド人の歴史観の中で蘇りつつあるようです。インドの国会議事堂の中央大ホールにはガンディー、ネルーらの肖像画のみが掲げられていましたが、1978年にはボースの肖像画もそれらに並びました。デリーの、かつてはイギリス国王でインド皇帝だったジョージ5世の銅像があった跡には、インド国民軍を率いるボースの銅像が建っています。
ボースとインド国民軍がインド建国の物語で正当な地位を得たときには、多くの犠牲を払いながらも共に戦った日本の貢献も再確認されていくでしょう。それは日本とインドの新たな絆になるはずです。そして、その時にこそインパール作戦に斃れた日本陸軍の英霊たちも報われるのです。
(文責 伊勢雅臣)
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HEAVENESEリーダーマレ手記 「パラオの大和魂 ①」
Posted on 2015年4月26日 by staff
天皇皇后両陛下が、戦後70年の節目にパラオを慰霊のために訪れたことで、多くの人がパラオや、日本軍が玉砕したペリリュー島の戦いに興味を持った。 とてもいいことだと思った。
でも、今のパラオがものすごい親日で、しかも当時は日本の委任統治領だったと知ると「日本の植民地だったのにどうして親日なの?」と不思議がる人がいまだに多い。 そういう訳で簡単におさらいしてみよう。
まず、パラオが日本の植民地であったと認識している人が多いがこれは間違いだ。 日本はパラオを植民地にしていない。 正確にはパラオは日本の「委任統治領」だった。
「え?委任統治領って植民地でしょ?」なんて言う声が聞こえてきそうが、大違いだ。 植民地というのは、ある国が他の国に武力で侵略し、その国を勝手に自分たちのものにしてしまうことだ。
しかし委任統治領というのはこれとは違う。 これは、第一次大戦後、敗戦国の領土や植民地を統治するために、国際連盟が、別の国に統治を委ねた統治形態のことを言う。
つまり日本は、パラオを植民地にしたのではなく、国際連盟によって「パラオを統治してください」とその統治権を委任されたということだ。
なぜそうなったかと言えば、日本は第一次世界大戦のとき連合国側にいたからだ。 ドイツ帝国は、オスマン帝国やハンガリー帝国と組んで連合国と戦った。
日本は、敵国であるドイツの植民地だったパラオを攻め、ドイツを蹴散らしてパラオをドイツから解放する。 そして戦争は終わる。 連合国側の勝利であった。
日本は戦勝国の一つとなったわけだ。 そして終戦後、講和の具体的な内容を取り決める国際会議が開かれる。 これが「パリ講和会議」だ。 賠償金や、国境、領土など、多くのことが話し合われ、具体的に決めらた。 これが「ベルサイユ条約」だ。
ドイツは、この条約により、植民地をすべて放棄しなければならなくなった。 そしてドイツが放棄した植民地は、国際連盟が指定する国が統治する形へと移行することが決められた。
これが「委任統治」である。 そして、国際連盟はパラオを日本の委任統治領にすることを決める。 かくして、講和会議の翌年、1920年、日本は国際連盟から委任をうけて、パラオを統治することになったというわけだ。
まずは、この流れを正しく理解しておこう。 戦後、権力の移行がスムーズに行われないと、その国は大混乱する。
イラク戦争で、アメリカがフセイン政権を倒してしまったから、イラクは内線状態に陥ってしまった。 アメリカ軍が去った後のイラクの歴史は混乱の一言に尽きる。 その結果、今はあのテロ集団イスラム国が大暴れしている。
シリアも状況は同じだ。 権力の空白があると、必ずそこを狙ってどこかの国が入ってくる。 権力が存在していても、統治機能が盤石でなければ、内戦が勃発する。 それは、歴史を見なくても、昨今のニュースを見れば明らかなことだ。
無政府状態という言葉をよく耳にするが、一つの国の権力が倒れたら、その次を誰がどうするのかは限りなく重要な問題だ。
だから、ドイツの植民地から脱したパラオが、無政府状態にも内戦状態に陥らず、他国からの不当な侵略の憂き目にも遭わず発展していくためには、それなりの力を持った国の統治力による秩序が必要だ。
国際連盟はそのために日本を選んだ。 これは、侵略が目的ではなく、統治される国の安定と発展、将来の独立をサポートするめのもので、統治を任された国は、そのために尽力しなければならない。 これが委任統治だ。
パラオは、戦争という不条理の歴史の流れに翻弄された。 しかしその結果、1920年、日本の委任統治領になった。 そしてこれが、パラオにとっては幸運だったのだ。 なぜなら、日本は委任統治を、植民地とはき違えることなく、そもそもの目的どおり、責任をもってパラオの発展のために尽くしたからだ。
その統治の仕方が素晴らしかったので、パラオの人は今も「日本時代は素晴らしかった」と思い出す。 日本時代がなければ、今のパラオ共和国はない。
だから、パラオの人々は、今も日本に感謝しているというわけだ。これは、日本人が誇るべき本当の歴史で、実際のところ、パラオのために日本がなしたことは本当に素晴らしかったのだ。
②につづく
パラオを植民地支配から救った日本
1920年、パラオでは国際連盟の委任統治による日本統治時代が始まった。それ以前のパラオはどうだったのかと言えば、
①で言ったとおり、1899年以来ドイツの「植民地」だった。
その前は、1885年からスペインの植民地だった。
スペインはイギリスとの植民地争奪戦に勝利し、勝手にパラオを領土にしてしまったのだ。
しかしその後、アメリカとの戦争で疲弊したスペインは、財政的な事情から、パラオをドイツに売ってしまう。不幸なことに、パラオは、ヨーロッパの大国間で売り買いされたという不遇の歴史を持つ。
国そのものが、売り買いされるなんていうのは、ちょっと我々の感覚では理解できないが、これが、15世紀の大航海時代以降、ヨーロッパ人たちがしてきたことだ。
他国を侵略し、勝手に自国の領有として、そこにある権益を自分たちのものにしてしまうという植民地主義が、海という天然の防波堤に守られてきた島々にも押し寄せてきた。これによって、どれほど多くの国々が悲惨な目に遭ってきたことか。
パラオには、遺跡などの手がかりによれば2000年前あたりから人が住んでいたという。 南の島の平和と独自の文化は、ヨーロッパ人がくるまでは守られていたのだ。
しかし、15世紀の大航海時代の到来は、南の島々にとっては破壊の始まりとなった。
15世紀以降、ヨーロッパ人たちがやってくると、鉄砲が持ち込まれ、力による支配が始まる。 鉄砲だけでなく、天然痘も持ち込まれた。 4万人以上いたパラオの人口は、一挙に5000人まで減少してしまう。 人口のおよそ90%が死に絶えたのだ。 恐ろしいことである。
ドイツ時代も、スペイン時代と同様、愚民政策がとられた。
教育は殆どを行わなかったということだ。 インテリはいらない。 賢くない人の方が支配しやすいからだ。
パラオ発展のために絶対に必要な、水道や道路などのインフラ整備も行なわれず、病院や学校もパラオ人のために整備されることはなかった。 ヨーロッパ諸国が支配した植民地はみなどこも同じようなものだったことはよく知られている。
ヨーロッパの発展は、植民地における、資源の一方的な収奪によるものだ。植民地の資源は吸い上げられ、その国の人々が働いても働いても自国は富まず、国力が衰退していった。
それがヨーロッパの繁栄を支えたということになる。
その結果、文化の破壊がおこり、壊滅的な影響をうけた国々が多い。 今も、かつてヨーロッパの植民地だった多くの国々は内戦や貧困で苦しみ「途上国」と呼ばれる憂き目にあっている。
しかし、有色人種国家で、世界で唯一、当時の欧米列強の植民地とならなかった国がある。
それが日本だ。
日本は、開国以降、彗星のごとく列強支配の世界に現れた。
絶対に負けないと信じられていたロシアのバルチック艦隊を殲滅させ、超大国ロシアを破った。
日本が日露戦争に勝利したことは、白人が支配していた歴史の終わりを意味した。 大航海時代以降の、白人至上主義的世界の終焉は、日本によってもたらされたものだ。
これは世界史の重大な転換点で、日本がその大きな役割を果たしたことは日本人は知らなければいけない。
だから、第一次世界大戦が終わったとき、日本は欧米列強と肩を並べる国として存在していた。
それまで、世界中に植民地をつくり、派遣争いを展開し、世界地図を書き換えてきた西洋列強のただ中にあって、ただ一国、東洋人の国として、日本は彼らが無視できない国へと上り詰めていた。
日本は有色人であれながら、白人至上主義者たちと肩を並べる世界秩序構築の一翼を担う国となっていたのだ。
だから国際連盟は、日本にパラオの委任統治を任せた。
考えて見れば、白人国家であるドイツの植民地を、日本が委任統治するようになったという事実は、それまでの歴史からは考えられないことだ。
そして、この日本時代がパラオを救った。
日本は、①で述べたように、委任統治と植民地とを履き違えることもなく、真心を尽くしてパラオ発展のために尽くしたからだ。
西洋の植民地主義によって深く傷ついていた南洋の島国を、日本は根底から立て直したのだ。
日本は、パラオから搾取しなかった。
パラオ人を奴隷のように扱わなかった。
日本は、国家予算を捻出し、国家の威信をかけて、パラオを復興させたのであった。
日本によって殖産産業が興された。
缶詰工場やビール工場も作られ、日本から多くの熟練資した技術者が現地の人々を指導した。
むち打って働かせるのではなく、日本人は自ら現場に出て、仕事を見せ、共に働いた。
パラオの人々は、このようなことは見たことがなかった。
日本人の真面目さとパラオ発展のために尽くす姿に、純朴なパラオの人々は、傷ついた心を開き、信頼関係が築かれるようになっていった。
日本は、それまで一度もなされなかったことをした。
パラオ人全てに伝染病の予防接種を受けさせた。
これは「日本国民」として彼らを扱ったという意味だ。
日本式の学校も整備され、現地の子供たちは、日本人と一緒に学んだ。パラオは、日本人の心をわけた故郷の一部となっていった。
日本統治時代の31年間はパラオ人にとって、夢のような裕福で平和な時代だったのだ。 当時を偲び、彼らは言う。
唱歌の時間がほんとに楽しかった。
「ハトポッポ」「昔々浦島は」 「もしもし亀よ」
「桃太郎さん」「白地に赤く」とか教えてもらいました…。
おとぎ話もたくさん習いました。
例えば「サルカニ合戦」「桃太郎」「舌きり雀」「亀と兎」なんかでしたね。
日本の先生は良い心をもった先生だった。 日本人に責任感を教えてもらったことがいちばん良かった。
この時代があったから、パラオは後に独立することができた。
15世紀中期以降、何百年もの間、白人至上主義の犠牲になり、主権国家としての体を成すこともなく、民族の誇りさえ持ち得ない環境で生きてきた純朴な人々たちの島を、立派な国に立ち直らせた功績は、少しばかり日本人が誇りに感じても罰は当たらないだろう。
他ならぬパラオ人は、今もこれを感謝している。
だから、パラオは世界で一番の親日国家なのだ。
③につづく
語り継がれなかったわけ
大東亜戦争(第2次世界大戦)末期、南洋諸島に展開していた日本軍は補給が途絶え、備蓄も尽き、負けるのは時間の問題だった。 しかし日本軍は降伏する事も逃げる事もなく、最後の最後まで戦う。
パラオにペリリューという島がある。南北9キロ・東西3キロ・高さ80メートル・全体で20平方キロの珊瑚礁の小島だ。
当時、日本軍はフィリピンを防衛する為に、その島に東洋最大といわれる飛行場を建設していた。 エメラルドグリーンの海に囲まれた、南洋の小島は、1944年9月ついに戦場となった。
これが、世に言う『ペリリュー島の戦い』である。
この度、天皇皇后両陛下が慰霊をしたのは、この戦いで命を落とした英霊たちだ。 天皇陛下のおかげで、多くの人の知るところとなった。
日本は、中川州男陸軍大佐ひきいる守備隊1万2千の兵士のみ。対するアメリカ軍の兵力は4万8千以上で、武器も弾薬も日本の6倍以上。 日本軍には、もともと勝ち目はない。 これは、いかに長く持ちこたえるかの戦いだった。
1944年(昭和19年)9月15日早朝、ウィリアム・リュパータス率いる米軍が上陸を開始した。 圧倒的有利の米軍は、この地を3日で攻略する計画だった。
しかし日本軍は、決死の抵抗により、73日間も持ちこたえたのだった。 しかし、米軍は空からも絨毯爆弾の雨を降らせ、海上に展開する戦艦からも砲撃を加えた。 次々に死んでいく日本兵。
遂に兵力は60名をきった。 73日間の攻防の末、そしてついに 日本軍玉砕の時がくる。
「もはやこれまで」 と 意を決した 中川州男大佐は、11月22日、 パラオ地区集団参謀長宛に、訣別の電報を打つ・・・
『地区隊は本二十四日以降、統一ある戦闘を打切り、残る健在者約五十名を以て 遊撃戦闘に移行、あくまで、持久に徹し、米奴撃滅に邁進せしむ。 重軽傷者中戦闘行動不能なるものは自決せしむ。 将兵一同聖寿の万歳を三唱、皇運の弥栄(イヤサカ)を祈念し奉る。 集団の益々の発展を祈る』
そして、中川州男大佐は、武士の作法に則って切腹した。
根本甲子郎大尉以下、55名になってしまった残存部隊は、最後の決死隊として突撃。 24日の夜から27日7時頃までの間に米軍と激しく交戦し、全員玉砕した。
「サクラ・サクラ」 日本の情緒を伝えるこの二語が、軍旗も機密書類も、すべて焼却したことを意味する最後の暗号電文だった。
11月24日16時、参謀本部に電文は届いた。
さくら・さくら・・・散りゆく桜の花のように、中川隊が最後まで戦い抜いて死んだことを告げたのだった。
この戦いのことを、多くの日本人が知らない。 しかし、アメリカでも、あまり語り継がれなかった。 だから硫黄島の戦いのように、日本人の耳にも届かなかったのだ。
それは、米軍の最精鋭部隊といわれた「第一海兵師団」の死傷率が約50%と極めて高く、米国にとっても「不名誉な戦い」とされたからだ。 彼らにとって、語り継ぐのは恥をさらすことを意味した。
それほど、中川隊の戦いぶりは壮絶だったということだ。 日本を守るために、一日でも長く持ちこたえようと、必至に戦い、壮絶な死を遂げた彼らを我々は忘れてしまっていた。
でも、 天皇陛下はおぼえていた。 自分が始めた戦争ではない。 けれども、陛下は彼らの慰霊のために、日本国民を代表して訪れて下さった。
④に続く
パラオの大和魂 ④ 「緑の島のお墓」
ペリリュー島の戦いで特筆すべきは、この戦闘で島が焦土と化したのに、現地住民の被害はゼロであったことだ。 島民は誰も死ななかった。 これがこの戦いのすごいところなのだ。
ここに日本精神がある。
なぜパラオ人の被害がゼロだったのか…。
それは、日本が決戦の前に現地住民を全員ペリリュー島の外へ非難させたからだ。
島の人の命を死なせてはならない!!! まずは租界させる・・
これが日本軍の心だった。
平成21年から25年まで駐日パラオ大使だったミノル・ウエキさん(83)は言う。
「日本軍は、ペリリューの島民を全員、疎開させることで保護してくれた。 だから島民に死傷者は出なかった。 日本軍への感謝は何年たっても忘れない」 (産経新聞ニュース)
当時9歳だったアマレイ・ニルゲサンさん(79)は、夜間を利用して両親らとバベルダオブ島に疎開したといい、こう記憶をたどった。
「日本の兵隊がダイハツ(上陸艇)で連れて行ってくれた。 バベルダオブに着いた後も、憲兵が2日かけてジャングルの中をエスコートしてくれた。 なぜ自分たちの島から避難しないといけないのか分からなかった。 2年半ほどして島に戻り、草木がなく石だけの島を見て、もし、残っていたら死んでいたと思った。 家族で日本軍に感謝した」 (産経新聞ニュース)
昭和18年6月現在でペリリューには899人の島民が住んでいた。 しかし日本軍は彼ら全員を自ら骨折って本島やその他へ移住させた。
ただ、島外へ避難させただけではない。 ジャングル中を、無事に安全な場所へ逃れられるように、2日間もかけてエスコートしたというのだから驚きだ。 日本軍が、いかに島民を思っていたのかが伺える。
こういうことを、我々はもっと教えられなければならない。 島民によると、日本軍と一緒に戦う決意をしていた島民もいたという。
米軍の上陸が避けられない情勢となったとき、現地住民の代表者が中川大佐に直談判した。
「自分たちも一緒に戦わせてほしい!」
すると中川大佐が激怒した。
「誇りたかき帝国軍人が、貴様らと戦えるか!!」
大佐の言葉に、住民代表は大きなショックを受けてその場を後にした。 まさか、このような扱いを受けるとは思わなかったからだ。自分たちは、日本人と一緒に島を作り上げてきたのに…築き上げてきた信頼関係は崩壊の危機に瀕した。
日本軍は空襲の目をかいくぐって、夜間、住民たちを強制的に移住させた。 彼らが島を去る夜、中川大佐初め、帝国軍人は見送りにも来ていなかった。 住民は失望しながら、舟に乗り込んだ。
舟が港から離れたあと、草むらから日本兵たちが現れ、ともに歌っていた歌を歌いながら、笑顔で手を振って別れを告げ始めた。そのただ中に、激怒したはずの中川大佐もいた。
このとき、彼らは気づいたという。 中川大佐が、自分たちを救うために強制的に島を去らせたのだということを。
なんと美しくい話か・・・。 出来すぎている。 僕は数年前、自分が主催しているBRIDGEとう会でで、この話をした。 しかし、そのときも、これは作り話に違いないと思っていた。 日本を美化するために誰かが創作したのだろうと。
しかし、天皇皇后両陛下のパラオ訪問関連のニュースを調べる中で、これが本当だったと知った。
当時9歳だった前述のニルゲサンが、取材に答えてこう言っている。 「自分は見ていないので分からないが、両親からそんな話を聞いたことがある」
そして、元駐日パラオ大使だったミノル・ウエキさん(83)も言う。 「逸話は今でも語り継がれている」と。
なんと、この逸話は、他ならぬパラオで、語り継がれていたのだった。 逸話の出どころは、日本の戦争時代を美化しようと企てる似非保守の人々ではなく、他ならぬパラオ人たちだったのだ。
彼らこそ、この逸話を語り継いで来たのだった。 それは、この話しの一部始終が事実でなかったとしても、話しの大筋として実際に起こったことであったからい違いない。
いや仮に、この話を誰かが作り出したものであったとしても、現実はこの逸話を喜んで語り継いできたパラオ人がいるということが、どれほど驚きに値することか。
それがパラオの人々の感謝と日本への愛情を如実に物語っているからだ。 それほど、日本は愛されていたし、今も愛されているのだ。
戦後、島の人たちは、そこら中にちらばる日本兵の死体を見て涙した。 日本が負け、アメリカが支配者としてやってきた。 彼らは、日本人には見向きもせず、アメリカ人の遺体だけを片付けた。
ペリリューの人々は、涙の中で、日本人の遺体を埋葬した。
1947(昭和22)年8月15日、住民は島に戻った。
島民が 日本兵の被害状況を具体的に知ったのは、昭和40年代に入ってからだったという。 日本から、慰問団がくるようになってから、初めて知ったのだ。
多くの遺骨が取り残されていのを知った島民たちは、遺骨収集に取り組み始めた。 遺骨収集に関わったアントニア・ウエンティさん(85)がいる。 彼女は、戦後ペリリューに移り住み、島民とジャングルに入り、遺骨収容を始めたというのだ。
ある軍医の遺骨については自宅に持ち帰って供養し、軍医の妻には 「だんな様と一緒に住んでいるから安心して下さい」と手紙を書いたという。
我々日本人が忘れ去った人たちを、他ならぬ島民たちは忘れることなく、今も感謝をもって遺骨収集に取り組んでくれている。
申し訳なく、感謝が尽きない。 彼女がつくったという「緑の島のお墓」という日本語の歌がある。 歌詞を噛み締めれば涙が溢れて止まらない。
ありがとう。 ペリリュー島の皆様。 本当にありがとう。
「緑の島のお墓」
遠い故郷から はるばると お墓を参りに ありがとう みどりのお墓のお守りはペ島にまかせよ いつまでも海の中にも 山の中 ジャングルの中にも 土の中 英霊よ よろこべ 安らかに 一緒に暮らそよ とこしえにペ島の願いは唯1つ 日本とペリリューは 親善の友 かよわい力 よく合わせ 知らせておくれよ 祖国まで伝えておくれよ 祖国まで 父母兄弟 妻や子に 僕らはみどりの 島暮らし 涙をおさえて さようなら涙をおさえて さようなら
⑤に続く
最終回 日本によって輝く南洋の国
①〜④にわたって、パラオの大和魂と題して書いてきたが、僕は戦争を美化したり、日本を軍事大国化するたするための啓蒙活動をしているのでもない。 ただ、これは実話なのだから、もっと日本人が知るべきことだと思っている。
日本は第一次世界大戦当時、東洋の国として、歴史上はじめて、西洋列強の植民地主義と戦うことができた唯一の大国となったていた。 だから国際連盟によるパラオの委任統治が許された。 そして、日本統治時代が、パラオを植民地の悲惨から救い出したのだ。
④で書いた出来すぎた日本軍の感動的逸話も、確かに事実だった。 この日本人のスピリットに心を打たれたのは敵国アメリカも同じであった。
今、ペリリュー島の「ペリリュー神社」に日本人の魂を賞賛する記念碑が建っている。
『この島を訪れる、もろもろの国の旅人たちよ。 あなたが日本の国を通過することあらば伝えてほしい。 此の島を死んで守った日本軍守備隊の勇気と祖国を憶うその心根を』
これはニミッツ提督の言葉であるとインターネットで流布しているが、それは正しくない。 実際には誰の言葉であるかわからない。 しかし、日本と激しい戦いを繰り広げたアメリカ人の誰かが記したものであることは分かっている。
しかし日本は敗戦した。 そして、1920年から日本の委任統治領だったパラオは、アメリカの信託統治領になる。 戦後、パラオの全てが変わった。
日本は悪。 アメリカは善。 この世界観は、日本ではGHQの統治時代に完全に定着し、日本は国家をあげて軍部批判を展開し、戦前の価値観の全否定へと舵を切った。
国のために決死の戦いを演じた軍人たちは、非難され、まるで罪人のように扱われた。 重く暗い恥ずべき歴史だ。 同じ路線の教育は、パラオでも実施された。
それどころか、日本の工場が破壊されるなど、日本の痕跡の排除が徹底されていく。 公用語が英語に変わり、教科書も書き換えられた。
しかし、日本を否定するアメリカの教育は、パラオに根付かなかった。 パラオ人は、日本への感謝を忘れず、反日的な考えを受け入れなかったからだ。 なんとありがたいことか。
そんなパラオも、ついに独立するときがきた。 15世紀以降、西洋の植民地主義に翻弄され続けて来た南洋の島が、初めて近代国家として独立するのだ。
1994年10月1日。パラオは「パラオ共和国」として、独立した。国家には国旗が必要だ。70余りの候補の中から選ばれた国旗。それが今のパラオ共和国国旗だ。 そして、 この国旗は、 なんと 日本に対する深い想いから生まれたものなのだ。
彼らは言う。
『私達は国旗の選択に相当苦労した。 大募者は悉く各島の人々であり、それぞれの旗にパラオの歴史と伝統がこめられていた。 だから、選考委員会は真剣であった。 選考に日数をかけた。
でも、最終的にこの旗にきまったのは、日本の旗に一番似ているので、最大の人気が集まった。 日の丸の部分を黄色にしたのは、月を現す。 周囲の青地は海を意味する。 月は太陽が出ないと輝くことができない。
つまり月は太陽によって支えられ、月としての生命を持つ。 太陽とは日本のことである。 海に囲まれたパラオという国は、日本の太陽の反射によって輝かねば生きられないのである。
我々はまた 戦争中に、 日の丸を掲げて強大な米軍と交戦した 日本軍将兵の勇敢さと純粋さに、大きな魅力と尊敬を捧げている。 一万に及ぶ英霊たちは私達に、勇気と国を想う心があれば、アメリカよりも強くなれることを教えて死んだのである・・・』
ブルーは海。 真ん中の黄色い円は月を表す。 日本の日の丸が太陽ならば、パラオはその光に照らされて輝く月であると。 月は日の光が無ければ輝かない。 パラオは日本という光がなければ輝かない国なのだと、この国旗は彼らの想いを世界に伝えている。
「月」が、真ん中から少しズレているのは、日本に対する敬愛から、同じにならにように少しずらしたというのだ。 真ん中でないことに彼らは、民族の「徳」を見出した。 なんということか。
相手を思う慎みの心、左右非対称を美とする日本精神は、パラオに受け継がれたのだ。 国旗はその旗の下に、団結して戦い生きることの証である。 古代ペルシャの5000年前の金属製の旗印も、考古学者により発見されている。
旗とはその共同体の印である。 個人ではなく、その共同体が一つの旗しるしのもとに生きるということだ。 だから国旗には、その国の性質や理念を現しているものが多い。
パラオは、南洋の日本精神を、慎みをもって輝かせる国なのだ。しかも、みずからの力で輝いているのではなく、日本のおかで、輝くことができるのだと、世界にむけて語り続けている。
国旗とともに、ペリリュー兵士の歌も作られた。
「ペ島の桜を讃える歌」である。 それは彼らの心に刻まれている日本の心を歌い上げいるものだ。 彼らは、日本の桜を見たことがない。 それなのに、日本の兵士を桜にたとえ、日本情緒を見事に表現している。
作詞者はオキヤマ・トヨミ氏、ショージ・シゲオ氏。 日本人ではなく、現地の人々である。 日本を慕って止まない心。 それが国民の8割以上が、姓名のいずれかに日本名を名乗る習慣となった。
詩の中にあるペリリュー兵士とは日本兵を意味している。感動的なこの歌の歌詞をぜひ噛み締めてほしい。
「ペ島の桜を讃える歌」
1.激しく弾雨(たま)が降り注ぎ オレンジ浜を血で染めた強兵(つわもの)たちはみな散って ペ島(じま)は総て墓地(はか)となる
2.小さな異国のこの島を 死んでも守ると誓いつつ山なす敵を迎え撃ち 弾(たま)射(う)ち尽くし食糧(しょく)もない
3.将兵(ヘいし)は桜を叫びつつ これが最期の伝えごと父母よ祖国よ妻や子よ 別れの桜に意味深し
4.日本の桜は春いちど 見事に咲いて明日(あす)は散るペ島(じま)の桜は散り散りに 玉砕(ち)れども勲功(いさお)は永久(とこしえ)に
5.今、守備勇士(もののふ)の姿なく 残りし洞窟(じんち)の夢の跡古いペ島(じま)の習慣で 我等勇士の霊魂(たま)守る
6.平和と自由の尊さを 身を鴻(こな)にしてこの島に教えて散りし桜花 今では平和が甦る
7.どうぞ再びペリリューヘ 時なし桜花(さくら)の花びらは椰子の木陰で待ち佗(わび)し あつい涙がこみあげる
8.戦友遺族の皆さまに 永遠(いついつ)までもかわりなく必ず我等は待ち望む 桜とともに皆さまを
このたび、天皇皇后両陛下が、戦後初めてパラオを訪問するにあたり、初代パラオ共和国大統領 クニオ・ナカムラ氏は、その喜びをこう語った。
「(戦争について)忘れない、忘れたらだめですね。 だけど、私たちはもう許しています。 私たちは日本の国民を愛しています。 私たちは天皇陛下を愛しています」
もし日本軍の基地がなければ、戦場になることもなかったペリリュー島。 しかし、無情にも島は焦土と化した。 日本が戦争に加わったから、島はやきつくされた。 それを恨もうと思えばいくらでもできる。
でも、彼らは、その事実はとっくの昔に許している。 それどころか、今も日本を愛し、そして我々以上に天皇陛下を愛している。 パラオは紛れも無く、大和魂の国だ。 日本人が忘れた心を、彼らは国旗を通して世界に輝かせているのだ。
お知らせ:
これは、僕が毎週主催している日本の心を発信するイベント
HEAVENES BRIDGEで話した内容を文章にしたものです。
4月29日(祝)は羽田空港TIAT SKY HALLにて昭和の日スペシャル
を開催します。
音楽とメッセージに魂を込めてお届けします。
お時間のある方は、ぜひお越し下さい。