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【豊臣秀吉】👍 ・・・ 【フランシスコ・ザビエル】👎再登場〜。 (ビデオ3本・10/26まで公開です)


大東亜四百年戦争の歴史
https://in.kamijimayoshiro.jp/mmmr1_dm_2110?cap=ml

ビデオ ①:植民地侵略を跳ね返した豊臣秀吉の4枚の手紙

ビデオ ②:“イベリア・インパクト” ( 興味深い内容です 🐧 )

ビデオ ③:( これは、誰に対して言われているのでしょうね…? 🐧💦 )

(メルマガ・ビデオ① より…)

①  〜 戦国武将 VS 白人列強 〜
植民地侵略を跳ね返した豊臣秀吉の4枚の手紙


<日本人を黒船に買い取らせて、手足に鉄の鎖をつけ、地獄の苦しみを与えています>・・・これは、豊臣秀吉の配下である大村由己ゆうこが書き残した記録です。

今から遡ること500年前。日本では腕に自信のある強者たちが群雄割拠し、各地で血で血を洗う合戦が繰り広げられていました。そんな戦国時代では、桶狭間の戦い、本能寺の変、関ケ原の戦いなど、これまで日本国内の大きな争いばかりが注目されてきました。

しかし、その裏で今日までほとんど語られてこなかった真実があります。それは、戦国日本と白人列強との戦い。そして、“日本人奴隷の存在”です。実は、戦国時代は、日本が初めてスペインやポルトガルなどの白人列強に侵略を仕掛けられた時代でもありました。例えば、日本人奴隷を作っていた代表的な侵略者が、あのフランシスコ・ザビエルです。

しかし、皆さんもご存知のように、日本はこれまで植民地になったことはありません。なぜ、日本は植民地にならなかったのか?その秘密は、今ではサルと呼ばれ、ラッキーで天下を統一した老人のイメージがある豊臣秀吉が、フィリピンの首都マニラに送った“4枚の手紙”にありました。この4枚の手紙は日本の未来を大きく変えました。この秀吉の4枚の手紙。

そこから明かされる日本が植民地にならなかった秘密。日本が鎖国に踏み込んだ本当の理由。明治維新はなぜ起きたのか。そして、なぜ日本が大東亜戦争で、欧米列強と戦う道を選んだのか。今まで明確に語られてこなかったこれら全ては、秀吉の4枚の手紙から明らかになります。

コロンブスの偉業の裏に隠された1億大虐殺事件

日本が戦国時代を迎えた当時、日本は歴史上最大の危機を迎えていた。何故なら、ローマ教皇の許可によって結ばれたトルデシリャス条約によって、日本は勝手にスペインやポルトガルの領土と見做されていたから。

ポルトガル人が種子島に上陸し、スペイン人のザビエルも鹿児島に上陸。とうとう日本にも、白人列強の侵略の手が伸びてきたのである。戦国時代の日本にやってきたスペイン人やポルトガル人には、明らかに侵略の意図があった。なにしろ、ローマ教皇から侵略の許可が出ていたから、彼らにとっての侵略はごく自然な発想だった。こうした白人列強による侵略現象は日本だけではない。

この時代の白人たちは、新たな領土や富を求めて大海原に乗り出していった。冒険家と知られるコロンブス、ヴァスコ・ダ・ガマ、マゼランも新大陸を発見することで、ヨーロッパを大きく繁栄させた偉大な冒険家として、今でも世界中で語り継がれている。

しかし、視点を変えてみるとヨーロッパが海外に進出したこの大航海時代こそ、人類史上、最も不幸な「殺戮と略奪の時代」の幕開けだった。コロンブスたち冒険家は“新大陸発見”と声を上げて、実質的には新しい侵略対象候補を見つけ出す。
そして、見つけられてしまった侵略対象候補は、スペイン、ポルトガルの2ヶ国から大量の軍隊が送り込まれ、次々と植民地にされていった。

アメリカ大陸、アフリカ大陸、オーストラリア、そしてアジアへ。もはや“世界を飲み込む勢いの残虐な侵略”によって、最大で1億人もの先住民族が虐殺されたという。この次の侵略対象が戦国日本だった。

これまで秀吉は、日本にやってきた外国人宣教師たちが、良くない存在であることを察していたとはいえ、キリスト教に対して極めて寛容だった。日本人のキリシタンに対して、「キリスト教に一夫一婦の戒律さえなければ、私もキリスト教徒になったであろうに… 」などという冗談を言った。

ところが、秀吉は、予想以上のキリシタン、ザビエル一行の悪行を九州の地で知ることになる。秀吉に仕え、共に九州に赴いていた大村由己は、その様子を手紙にこう書き残している。

<五島、平戸、長崎などでは、南蛮船が着くごとに、その国の領主を信者にし、様々な信仰の者を自分の宗派に引き入れ、それだけではなく、日本人を数百人、男女は関係なく、黒船に買い取らせて、手足に鉄の鎖をつけ、船底に押し入れ、地獄の苦しみを与えています>

つまり、キリスト教の宣教師たちとポルトガルの奴隷商人たちは“グル”で、日本人を奴隷として買い、連れ去って行ったということだ。その証拠に、宣教師たちが『奴隷貿易許可証』を発給していた事実が露見し、ポルトガルのリスボンでは、行く先々で日本人奴隷の目撃情報が後を絶たなかった。

スペインの首都マドリードに残る日本人奴隷の資料には、
「手足に鉄の鎖を付け」「むやみに積み重ね」
「奴隷の日本人少女たちと醜い行い」
…など、見るに堪えない記録が散見される。

このように、徐々に侵略されていった日本だったが、戦国日本には、アメリカ大陸の先住民にも、他のアジア諸地域にも、どこにもないものがあった。

それは、秀吉による強力な統一政権。それに従う全国の百戦錬磨の大名たち。そして、戦闘能力の高い武士たちと最新鋭で大量の武器だ。例えば、鉄砲は、
「鉄砲の絶対数では、16世紀末の日本は、間違いなく世界のどの国よりも大量に持っていた」と言われている。
つまり、戦国日本は、世界がまだ知らなくとも軍事大国だった。

日本人奴隷を作って、日本の信仰を破壊していた外国人に秀吉は激怒し、『伴天連バテレン追放令』を出して、大胆に外国人宣教師たちの国外追放を命じた。こうして、日本に伸びた侵略の手は一旦、秀吉によって弾かれた。ここまでなら、他の武将でもやって退け、侵略者の排除に安堵の息をつくかもしれない。

しかし、秀吉だけはこれで安堵することはなかった。これまでの日本史のデータにはなくとも、侵略者の執念深さというものを非常に理解していたのだ。続け様に秀吉は、ある大事業に乗り出した。その大事業とは、近代の歴史学では、古くから秀吉の『功名心』とか『誇大妄想』ということで済ませられがちな『朝鮮出兵』である。

白人列強が恐怖した秀吉の4枚の手紙

そして、来たる朝鮮出兵の時、秀吉はマニラのフィリピン総督に対して、威嚇の為にこんな手紙を送る。

「今、私は支那に対して、戦いを為そうとしている。あなた方も旗を倒して、私に従う時が来た。もし、従う時が少しでも遅れれば、私はあなた方に対して、速やかに罰を与えるであろう。その時、後悔してはならない」

なぜ、秀吉はマニラのフィリピン総督に送ったのか? それは、既にフィリピンが植民地支配され、実質的な君主がスペインであることを秀吉が見抜いていたからである。秀吉は、国際情報も踏まえた上で威嚇をしていたのだ。この手紙はマニラに届き、現地のスペイン人はかなり動揺した。慌てふためいたマニラには厳戒令が敷かれ、フィリピン総督はスペイン国王に援軍の派遣を求めた。

スペイン人は、日本軍の攻撃をきっかけにして、フィリピンの人々が立ち上がり、ひいてはスペインの植民地体制が崩壊する危険性を本気で感じていたのだ。キリスト教徒の支那人である通訳者アントニオ・ロペスは、この日本人と白人の戦いについて、こんな証言を残している。

「この島には4千人から5千人のスペイン人がいると私が言うのを聞いて、日本人は笑った。彼ら、フィリピン諸島の防備は児戯に類する。なぜならば、日本人100名はスペイン人の200名、あるいは300名に匹敵する力を有するからである」

さらに、秀吉は総勢16万の大軍を朝鮮に送り、日本軍は朝鮮王国の首都・京城を陥落させた。その時に秀吉は、フィリピン諸島長官に宛てて、日本の軍事力を誇示する為に、こんな内容の手紙を送る。

「私は、高麗の国にその土地を通過する事を求めたが、それを実行し始めた時、高麗は私に約束したことを行わず抵抗したので、私の軍の先鋒は高麗の国を破壊した。これは、甚だ容易なことで、まるで雪に熱湯をかけるかのようであった。私は、人々が皆、平和に静穏に生きることを求めている。そして、私の統治している地域では、何人も商船の往来を妨げない。

そうであるから、あなた方は、毎年来て貿易をすることができる。フィリピンは遠いとはいっても、もしあなた方が私の命令に背くようなら、私は優秀な将軍を遣わして、あなた方を罰するであろう。あなた方は、急いで私のところに来なさい。また、人を遣わして私が言っていることをスペイン本国にも伝えなさい」

つまり、この頃の日本の軍事力は、朝鮮半島の軍を遥かに凌いでいたのだ。
そして、秀吉の視線は朝鮮半島を越え、支那大陸を越え、遠くスペインにまで注がれていた。さらに、秀吉のスペインへの威嚇は続く。
1593年の秋に秀吉は、フィリピン総督に宛てて、こんな手紙を送る。

「今、私の配下の多くの武将たちが、マニラを占領する許可を私に求めている。支那に到着したらルソンはとても近く、私の親指の下にあるようなもの、ということになる。そうなったら、私たちは地理的にも近い関係になるのであるから、永遠に親しく交わりたいものである。私がそう言っていると、スペインに書き送りなさい。スペイン王は遠くにいるといっても、私の言うことを軽視してはならない」

つまり、秀吉は、「私は、やがてマニラにも攻め入るかもしれない」
と、強く脅しをかけたのだった。

スペイン人は、この手紙に肝を冷やした。スペイン・ポルトガル勢力の側から見ると、日本を“軍事占領する”と大言壮語してナメていたら、いつの間にか自分たちの支配する地域の方が“軍事占領される”かも知れないという状況になっていたのだ。

さらに秀吉は、1597年2月、再び14万の大軍を朝鮮に送ると同時に、フィリピン総督に宛てて、侵略国の企みを暴いた手紙を送った。

「数年前、数人の宣教師が我が国に来て、外国の悪魔の教えを説き、我が国の貧しい庶民の男子や女子の信仰を乱し、更にはその外国の風俗を持ち込み、庶民の心を惑わし、我が国の政治も破壊した。そのため私は、その教えを厳しく禁止し、我が国に一切入ってこないように命じた。

ところが、外国から来た宣教師たちは、自分の国に帰らず、町や村を回って、密かに貧しい庶民、従僕、奴婢などに外国の教えを説いて止まなかった。私はそのことを聞いて忍耐することができず、直ぐに彼らを殺すことを命じた。なぜなら、外国において布教は、外国を征服する策略、また征服するための方便である、と聞いているからである。

もし、我が日本国から日本人の教師や庶民があなた方の国に渡って、神道の教えを説き、庶民を混乱させ、惑わし、人の道を踏み外すようなことがあったら、その国の統治者のあなたは、それを嬉しいと思うであろうか。喜びはすまい。もし私を批判するなら、そのことをちゃんと考えてから批判しなさい。

私は思う。あなた方は、そのような方法を用いて、フィリピンの古来の君主を追い出し、それに代わって自分たちが、フィリピンの新しい君主になったのではないか。それと同じように、あなた方は今、あなた方の国の信仰によって、我が国の信仰を破壊しようとしている。そして、やがては日本国を占領しようと企てているのである」

つまり、秀吉は、スペイン・ポルトガル勢力が、“排他的な思想と侵略的な軍事力”によって、日本を征服しようとしたことも全て見透かしていたのだ。
こうして秀吉の朝鮮出兵は、スペイン・ポルトガル勢力に衝撃を与えた。

それまでは、“日本など、我が軍事力で一ひねり”という勢いだったスペイン・ポルトガル勢力は、むしろ、日本の軍事力に恐れを抱くようになった。

秀吉が目指したのは、世界の植民地化イベリア両国に対する東洋からの反抗と挑戦とも言えるだろう。スペイン勢力に対して、日本の軍事力の強大さを否応なく知らせることになったと言って良い。

早く日本を征服してしまえと威勢の良かったフィリピン総督や宣教師たちは、どこかに行ってしまったかのようだ。朝鮮出兵は、世界最強を自負するスペイン人の心胆を寒からしめる効果を発揮していた。

日本は大東亜戦争よりずっと前の戦国の世から白人列強と戦っていました。一般的にはサルと呼ばれ、ただ天下をラッキーで統治した老人のイメージがある秀吉ですが、実は、国際情報にも詳しくスペインやポルトガルの侵略の魔の手を跳ね返していたことが分かって頂けたと思います。もし、秀吉が白人列強の侵略を跳ね返すことができなかったら、日本はとっくの昔に植民地になっていたかも知れません。

20世紀を代表する歴史家と知られるイギリスのアーノルド・トインビーは、当時の世界の有り様について、このようなことを書いています。

「瓦解した諸帝国が、トルコから中国に至るまでアジアの全大陸にその残骸を並べていて、至るところの原住民らは、やはり羊のごとく従順にその毛を刈り取らせ、ただ黙々たるのみ。敢えて彼らの毛を刈り取る者に立ち向かって反抗しようとはしなかったのである」

つまり、アジアの国々は白人列強国に侵略され言いなりになって反抗もできなかったということですが、トインビーは、この文章に続きを書いています。

「日本人だったら、全く違った反応を示したであろう。しかし、日本は極めて珍しい除外例であり、かえって原住民は反抗しないという一般法則を証明しているにすぎないのだ」

トインビーがこのように言っているように、秀吉のような大胆な行動を起こし自国を守れたのは、日本だけだったのです。そして、この日本だけが戦国時代から白人列強と戦っていたという事実から、もう1つ見えてくるものがあります。それは、秀吉の朝鮮出兵の後に続く鎖国、明治維新、そして大東亜戦争についてです。

秀吉が、一度は白人列強の脅威を跳ね返してくれたからこそ、その後の日本は鎖国という防御態勢を取ることができ、再度、白人列強の脅威に曝されたときには明治維新を起こし、そして大東亜戦争で欧米列強と再び戦うことが出来ました。

一般的に鎖国は、周りが強かったため日本が引き籠もったようなイメージが強いですが、真実は真逆で、日本が強い国であったからこそ、鎖国という防御態勢を作ることが出来ました。秀吉による軍事的プレゼンスが無ければ、日本はいくら鎖国をしたいと主張してもスペイン、ポルトガルはローマ教皇の許可に従って侵略してくるでしょう。

鎖国は続きましたが、ペリー来航と共に再び日本と白人列強のパワーバランスが崩れ始め、白人は300年の時を経て、再び日本に侵略を仕掛けてきました。それから始まったのが大東亜戦争です。そして、大東亜戦争への日本側の準備が、あの明治維新だったのです。このように400年以上、白人の侵略に対する日本の防衛戦争があったという見方をすれば、あらゆる辻褄が合うと思わないでしょうか?

しかし、このようなことは学校やメディアは教えてくれません。そればかりか、朝鮮出兵は秀吉が調子に乗った結果の侵略で、明治維新はテロリストによる革命、大東亜戦争は日本側の侵略だったと流布されて、書店に並ぶ本では、今の日本を私たちに残してくれた色々な武将、幕末の志士、軍人たちが軒並み感情的な言葉で、口汚く罵られています。

このような知識は、歴史学の素人の方が一見すると、あたかも“斬新な視点”と“豊富な知識”が満載されているかのようにも見えるのでしょう。もちろん、歴史上の人物を批判するのは自由です。しかし、それはあくまで事実に基づいて論理的に批判されるべきです。批判する言葉も正確に用いられなくてはなりません。
でないと、嘘で塗り固められた自虐的な歴史を学んでも、私たちは日本人であることを誇ることができませんし、何より今の日本を私たちに残してくれた先人たちを『冤罪』に陥れて日本人の名誉を汚してしまいます。

戦国時代の日本は、勝手にスペインとポルトガルの領土とされていました。大航海時代の16世紀、スペインとポルトガルはアメリカ大陸、アフリカ大陸、オーストラリア、そしてアジアへと世界を飲み込む勢いで侵略を繰り返していました。しかし、侵略の手を広げるうちにスペインとポルトガルの両国で、侵略と掠奪の”競争” が始まって次第に両者で争うようになりました。

そこで、両国の仲裁に入ってきたのが、当時のローマ教皇です。ですが、ローマ教皇の口から出た言葉は…、「虐殺と掠奪をやめろ。」ではなく…、「両国で仲よく山分けにしなさい」でした。こうして、1506年に侵略対象国の分割方式を取り決めた『トリデシリャス条約』が締結されました。

つまり両国は、現地に住む人々には何の断りもなく、丸い地球を2つに割って、その線から西をスペインのものとし、東をポルトガルのものにするという約束がされていたということです。しかも、ほぼ現在の東経135度あたりで、スペイン・ポルトガルの両国は、勝手に“日本の領有”を主張していました。

スペイン・ポルトガルからすれば、
「西日本はポルトガルのもの」「東日本はスペインのもの」
ということになっていたかもしれません。

つまり、日本人が知らない間に、日本は両国の利害が衝突する“世界で最もおどろおどろしい戦場”になっていたということです。

よく歴史の教科書に掲載され、学生の間でネタにされていたフランシスコ・ザビエルが、実はスペインのスパイで侵略者であったことを皆さんはご存知でしたか?

というのも、16世紀の当時、宣教師というのはキリスト教の布教だけではなく、各国を回って、その国の状況を視察するという役割も担っていました。視察を終えると、その後に軍隊を出撃させて他国を植民地化していきました。これが、スペイン国の侵略の常套手段です。実際に、イエズス会の文書館に保存されていた秘密文書には、ザビエルの手紙が見つかり、このように書いてあります。

「スペインの基地を作るために地理的条件を考えると天草が最高だ。長崎に要塞を作るべきだ」

このように、ザビエルは布教活動をする一方で、スペインの基地を作るという計画も遂行していたようです。つまり、ザビエルが日本に上陸した時点で、日本はスペインに侵略されかけていたということです。

・・・

日本が戦国時代を迎えた当時、世界は大航海時代。新たな領土や富を求めて、ヨーロッパ人たちが大海原に乗り出していきました。冒険家として知られるコロンブス、ヴァスコ・ダ・ガマ、マゼランも新大陸を発見することで、ヨーロッパを大きく繁栄させました。偉大な冒険家として今でも世界中で語り継がれています。

しかし、視点を変えてみると、ヨーロッパが海外に進出したこの大航海時代こそ、人類史上、最も不幸な『殺戮と掠奪の時代』の幕開けだったと本編で書きましたが、その理由は下のような事実があったからです。

コロンブスたち冒険家は、“新大陸発見”と声を上げて、実質的には新しい侵略対象候補を見つけ出します。そして、見つけられてしまった侵略対象候補は、スペインとポルトガルの2ヶ国から大量の軍隊が送り込まれ、次々と植民地にされていきました。例えば、エスパニョーラ島では、こんな暴虐の記録が今も残っています。

「キリスト教徒たちは、女や子供を奪って使役、虐待し、食料を強奪した。ある司令官は、島で最大の権威を誇る王の后を強姦した。彼らは、絞首台を作り、我らが救世主と2人の使徒を称えるためだと言って、13人ずつその絞首台に吊るし、その下に薪を置いて、生きたまま火あぶりにした。」

・グアテマラ地方とその王国では…

「スペイン人たちは、多くのインディオを鎖に繋ぎ、国王の焼印を押して奴隷にした。インディオには食料を与えなかった。その代わり、インディオたちに、そのスペイン人が捕えたインディオたちを食べることを許した。子供が殺され、焼かれた。また、男が手足を切断されて殺された。」

・フロリダ地方でも…

「札付きの無法者たちは、部下たちに命じて、ある村の200人以上のインディオの鼻から口髭まで、唇もろとも削ぎ落とし、のっぺらぼうにした。スペイン人たちは、血を流して苦しんでいるその哀れなインディオたちを他のインディオたちのいるところへ行かせた。目的は、それがカトリックの伝道師たちの起こした奇跡であることを彼らに報せることであった。」

アメリカ大陸、アフリカ大陸、オーストラリア、そしてアジアへ。こうして、“世界を飲み込む勢いの残虐な侵略” によって、最大で1億人もの先住民族が虐殺されたといいます…。

つまり、日本の戦国時代、白人列強は有色人種が平和に暮らしていた土地を次々と侵略し、もはや “白人でなければ人に非あらず” といった究極の白人至上主義が当たり前のように蔓延っていた時代だったということです。

_φ(・_・ 💦

・・・


第1章
「明治維新否定本の大嘘」
〜共産主義で読み解くフェイクヒストリー誕生のカラクリ

講義0プロローグ

講義1「幕末の志士はテロリスト?」
〜江戸時代から続く風説誕生の原点

講義2「明治維新否定=改憲反対?」
〜東京裁判史観、三十二年テーゼ…日本を破壊する2つの史観

講義3「GHQを肯定する東大名誉教授の欺瞞」
〜聖徳太子、吉田松陰、坂本龍馬、なぜ歴史上の偉人は消されかけるのか?

講義4「論文『維新史の新研究』と6つの革命」
〜共産主義者が明治維新を嫌いな理由

講義5「共産主義黒書"1つの思想で1億人が死亡"」
〜大東亜戦争より死者を出した共産主義の2つの武器


第2章「戦国日本 VS 白人列強」
〜英雄・豊臣秀吉で読み解く日本が植民地にならなかった理由

講義6「悪魔の所業"イベリア・インパクト"」
〜コロンブスの偉業の裏に隠されたヨーロッパ人の侵略記録

講義7「トルデシリャス条約とデマルカシオン体制」
〜日本への侵略をローマ教皇が承認した日

講義8「戦国武将 VS キリシタン」
〜日本人奴隷化を食い止めた豊臣秀吉の大英断

講義9「日本を侵略から守った"朝鮮出兵"の真相」
〜ヨーロッパ人が戦慄した豊臣秀吉の手紙とは?


第3章「攘夷思想の正体」
〜学問で読み解く"忠"という明治維新の最大要因

講義10「アマテラス大神で読み解く"敬神"と"尊皇"」
〜儒学、皇学、洋学…尊王攘夷運動に繋がった3つの学問

講義11「後醍醐天皇と三種の神器」
〜皇室の系統断絶を解決した新・皇位継承の資格とは?

講義12「東インド会社という侵略組織」
〜オランダが鎖国令に反かなかった本当の理由

講義13「尊王攘夷論の原点」
〜水戸藩の思想家が示した白人非侵略論への処方箋


第4章「大東亜四百年戦争・最終決戦」
〜なぜ日本は対米戦争という道を選んだのか?

講義14「ハワイの亡国と日本へのSOS」
〜カイウラニ王女と皇室の知られざる縁組話

講義15「パリ講和会議の裏舞台と血塗られた国際連盟規約」
〜人種平等を提案する日本、否決するアメリカ

講義16「フランス元首相の悪い予言と幣原外交」
〜東郷平八郎が見抜いた国際協調の裏に潜む大東亜戦争の火種

講義17「マッカーサー"東京裁判は誤りだった"」
〜日本国憲法に宿るGHQの意思と第九条という足枷

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< 講師の紹介 >

・松浦光修:歴史学者

昭和34年、熊本市生まれ。皇學館大学文学部を卒業後、同大学大学院博士課程に学ぶ。現在、皇學館大学文学部教授。博士(神道学)。専門の日本思想史の研究のかたわら、歴史、文学、宗教、教育、社会に関する評論、また随筆など幅広く執筆。全国各地で、講演活動をつづけている。

<主な著書>
『大国隆正の研究』(神道文化会・平成13年)
『大国隆正全集(編者)』第八巻・補遺(国書刊行会・平成13年)
『竹内式部』(皇學館大学出版部・平成7年)
『やまと心のシンフォニー』(国書刊行会)
『いいかげんにしろ日教組』(PHP研究所・平成15年)
『夜の神々』(慧文社・平成17年)
『永遠なる日本のためにー“女系天皇“は天皇といえるのか』(四柱神社・平成18年)
『【新訳】南洲翁遺訓 西郷隆盛が遺した「敬天愛人」の教え』(PHP研究所・平成20年)
『日本の心に目覚める五つの話』(明成社・平成22年)
『【新訳】留魂録 吉田松陰の「死生観」』(PHP研究所・平成23年)
『楠公精神の歴史』(湊川神社・平成25年)
『日本は天皇の祈りに守られている』(致知出版・平成25年)
『【新釈】講孟余話 吉田松陰、かく語りき』(PHP研究所・平成27年)
『龍馬の「八策」 維新の核心を解き明かす』(PHP研究所・平成29年)

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< 推薦の声 >

・上島嘉郎(元産経新聞社月刊「正論」編集長)

日本の永続のために…糸を紡いで継いでゆく―松浦光修さんの歴史講座に期待する
 松浦光修さんの歴史講座「封印された日本文明の真実」を楽しみにし、また大いに期待しています。私が、松浦さんに初めてお会いしたのは平成11(1999)年でした。当時松浦さんは皇學館大学(三重県伊勢市)の助教授で、私は産経新聞社が発行するオピニオン誌『正論』の編集者でした。どうも三重県の公立学校の教育がひどく偏向しているらしい、という話は耳にしていましたが、上京された松浦さんから実際の話しを聞いた私は、「日本人の〝心の故郷〟とも云える伊勢神宮(正称は「神宮」)のお膝元にありながら、そんなにひどいのか」と思わず口にしたのを今でも覚えています。その頃、三重県教職員組合(三教組)は組織率日本一を誇っていました(現在も日本有数の組織率を維持)。

松浦さんは、その日教組王国に果敢に挑み、不法な勤務時間中の組合活動や、反日的な授業方針などの実態を『正論』などのメディアを通じて追及、文科省や県議会も看過出来なくなり、ついに三教組は、実際は組合活動だった勤務時間中の給与(約11億円)を〝寄付〟というかたちで返還せざるを得なくなりました。松浦さんは国史を専門とする学究の徒として歩んでこられましたが、「日本人として生まれながら日本への愛と誇りのない子供たちを、これ以上増やしてはならない」というやむにやまれぬ思いから、日教組との闘いに身を投じたのです。

「『日本らしい日本』で暮らしたい。日本男児と大和撫子に満ちた尊い国、その国があることを信じ、信じる仲間たちと、その日本に〝帰還〟出来る日まで微力を尽く。」そう語る松浦さんは、私の盟友でもあります。大東亜戦争が敗戦というかたちを強いられたことで、今日の私たちは、戦前の日本とは細々とした幾筋かの糸に繋がれるのみで、その連続性を断たれようとしています。糸を手繰り寄せ、日本人としての思いを継いでゆく。神話、皇室、言葉…守るべきものを、松浦さんの語りのなかに是非見出していただきたいと思います。

・江崎道朗(評論家/情報史学者)

近年、経済低迷に苦しんでいるとはいえ、日本はいまなお世界第三位の経済大国だ。その最大の資源は、素晴らしい歴史と伝統だ。神武天皇の建国以来、皇室を仰ぎつつ、豊かで多様な芸術、技術をはぐくみ、発展させてきた日本は、世界史の中で奇跡と呼ぶべき存在だ。だが、そうした日本のすばらしさ、すごさを肝心の日本人自身があまりよく理解できていないことは本当に残念だ。
松浦先生は、世界の中の日本文明のすばらしさ、すごさを、先人たちが遺した文献を踏まえて、わかりやすく、しかも感動的に伝えることができる歴史家だ。是非とも松浦先生の歴史講座を通じて、日本人たる自分がどれほど素晴らしい歴史と伝統を受け継いでいる存在なのかを再確認してほしい。

・・・

知識は力なりー歴史の知識こそ力なり

「知識は力なり」と哲学者のフランシス・ベーコンはいいました。現代では様々な知識が本やネットで手に入ります。しかし、どんな知識よりも「自国の歴史の知識」ほど力になる事はないのではないでしょうか。

仕事のやり方など技術的な知識を得れば、その人の能力が上がって給料が上がるかもしれません。しかし、自分の国の歴史を知らなければ、その人間は、確固たる信念や価値観、軸を持てず、漂流してしまうでしょう。どんなに仕事が上手くいったとしても、どんなにカネを稼いだとしてもです。

自分の祖先の歴史を知ることで、自分自身が何者か気づくことができ、確固たるアイデンティティや信念を持つことができます。そして、「自立した人間」になれるでしょう。
アメリカを始めとした連合国は戦後、われわれ日本人の祖国の歴史への誇り、故郷や同胞への愛着、そして私たちの精神的な強さをとても恐れていました。2度と強い日本を見たくないと思い、私たちの思考を破壊し、精神を打ち砕くべく、私たちから「日本人のための歴史」を奪いました。

「祖先の歴史を知ることは、力なり」です。
われわれは今、1人も残さず、過去の先人たちの想像を絶するような努力と献身の上で、生活しています。誰1人例外なく、その恩恵を受けていない人はいません。それを知らぬ存ぜぬでは無責任ですし、何より恥ずかしいではありませんか。
ぜひ、この歴史講座から、あなたの祖先の話、お爺ちゃん、お婆ちゃんたちの本当の話を聞いてください。

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