"いちどにひとり”半径1メートルの世界「恋」(3)
恋愛システムを展開できるのは「いちどにひとり」と言われている。これは二人同時に好きな人を作れないということで、彼氏がいて他の人を好きになっているのであれば彼氏に対してもうシステムは働いていないし、好きな人が二人いると言っている人は完全にシステムに落ちていないということになる。
生物学的にホモ・サピエンスは乱婚(コロニーの中で複数人と婚姻関係に)だとか、つがいを作るもの(一夫一妻)だとか色々と議論されているが、脳(本能)の中ではパートナーは一人が大原則だと考えられている。
現在の知見では人は一生のうちに何度でも恋に落ちることができるが、「いちどにひとり」だ。脳を特殊な状態にしてまで相手に入れ込む、集中することができるのは「その時」に「1人限定」だ。しかし、ほとんどの人は生まれてから一番最初に選んだパートナーだけに恋に落ち続けている者は存在しない。私はホモ・サピエンスは生来ハーレムのイメージを持ちやすい「乱婚」ではなく、一度作ったつがいのみで生きていく「一夫一妻」でもなく、つがいは作るが期間限定で、「多婚」なのではないかと言いたい。
そもそもヒトにおいて「いちどにふたりいじょう」は生殖戦略に意味のあることなのか?
一夫多妻制の雄は、雌に対して投資(保護や食物の供給)行わず、エネルギーをより多くの雌と繁殖することにつぎ込むことで自らの遺伝子を持つ子孫をより多く残す生殖戦略をとるものが多い。乱婚制との違いは、ライバルの雄が自分の囲い込む雌と配偶関係を持つことを排除するという点だ。
つまり、繁殖に費やすエネルギーの投資をより多くの雌を獲得することだけに注ぐのではなく、雌の囲い込みとライバルの排除に相当量投資することで、より確実に自らの子孫を残そうとしているわけである。このような繁殖戦略を取る動物は、他のオスを排除するために大きな体と戦闘能力を必要とし、闘争によってより優秀な遺伝子を後世に残そうとする。
すなわち一夫多妻制の本質は、優秀で強い遺伝子を持つ一部の雄による種の独占だ。体が大きく強い種にのみ、遺伝情報を残すために雌は集まる。
確かに歴史的にも一部の権力者の子孫をより多く残すシステムを構築しているところは世界各地にある。一部のイスラム圏やアフリカなどでは未だ一夫多妻制を取っているところもある。では、ヒトは乱婚あるいは一夫多妻かというとそうは思えない。システム上のルールは恋に落ちるのは一度に一人だが、ある一定期間で発情期は終わり、離別が生じる。そして機会や環境によりまた恋に落ち、つがいを作ろうとする。一生のうちで何度でも恋に落ちることができたと考えている。
ただし、これは狩猟採取時代の古代の話だ。農耕の発明によりヒトは資源を求めて移動をしなくなり、さらに資源の保有が可能になった。余った資源を備蓄できるようになり、一部の才能のある人間により資産の保持と効率的な生産性の向上が図られるようになった。ここから格差(地位や権力)が生まれたのではないかと考えている。農耕の発達により形成された集団の中で、コントロールが得意な男性に地位が集まることになったのであろう。種の保存のために不可欠な女性も、富を持つ権力者からは貴重な資源の一部と捉えられるようになった。
生存に優位なリソース持つ男性の元に女性が集まるのは当たり前のことで、より安定した生存の保証と種の継続ができる。つまりは農業により格差が生まれ、格差が生まれることによって権力と資源の不均衡が生じ、一夫多妻制が生まれたのではないだろうか。
これら前近代の一夫多妻制では、しばしば女性の側からの男性の選択は認められておらず、家と家との取り決めなどコミュニティの意思が重視された。ヒトの一夫多妻制の基礎には、男性側の社会的地位、経済的地位の高さが絶対に存在する。これらは、農耕以前には存在しなかったと考えられている。
そして、今も一夫多妻制は存在する。キリスト教の一派のモルモン教から分裂した原理主義派のキングストン一族は6000人もの親戚が存在する。主から多妻結婚を命じられたとのことで1840年代の初めからその教えを守り続けていたのだ。これは宗教による多婚のケースであり、神の教えを知るものを増やす=教徒を増やすための最も信用できる方法の一つであるとも言える。近親による交配は劣性遺伝のリスクが高く、種の保存としては最も駄作であり、多様性を失うからだ。
また、アラブ圏のハーレム(ハレム)は元々「禁じられた」という意味で、オスマン帝国で親族以外の男性しか入れない女性や子供の居室のことで、西欧人がそれを勘違いして性的な妾を1箇所に集めている居室のようなイメージが面白おかしく形成された。
いつしかその言葉はゾウアザラシやアシカなどの一夫多妻制をとる動物のコロニーに対して使われるようになったが、本来のハレムはイメージ先行で散々こねくり回されて製造され、日本に輸入した言葉なのだ。
イスラム圏における一夫多妻制は法源をコーランとする法的制度である。男性は最大4人まで妻を娶ることができるが、コーランの規定上、夫は妻を保護し扶助を与える義務があり、またそれぞれの妻の間に差異を設けることは決して許されないとされる。これらの条件を満たせないときは一夫一妻が奨励され、夫が義務を怠ったりそれぞれの妻の扱いに差異を設けた場合は離婚申し立てと賠償の根拠となりうるそうだ。
東京イスラミックセンターの「イスラム教入門」には面白いことが書かれている。「人間の男性の性の能力は一夫一妻制を遥かに超えており、不自然な姿である」確かに、コスト上において男女は不平等すぎる。しかしその性能力の本質は「何度でも恋に落ちることができる」からだ。
アフリカではイスラム教国以外でも、宗教とは関係なく一夫多妻制である国が多い。南アフリカ共和国第12代大統領のジェイコブ・ズマが一夫多妻を実践しているのは有名で、彼には三人の妻がおり、この三人の妻は公式行事等にも交互に出席している。南アフリカ共和国全体が一夫多妻を公認しているわけではなく、その習慣がある部族に限って認められている。
だが夫の下に大家族を形成するアジアや北アフリカと異なり、アフリカの一夫多妻婚では、妻たちは別々に暮らしていて、妻子の家を夫が順に訪れるという形態を取っている。これは母系だけのコミュニティがあり、相互扶助している。一夫多妻制ではこのような形態を取っているところも多い。子育てにあたっては男性は不要なのかもしれない。
日本において一夫多妻制と言えば江戸時代の大奥機関だ。乳幼児の感染症が脅威となっていた時代、明治32年の1〜5歳の死亡率は最大15%ほどだったと言われている。古代はもっと低かっただろうが、3人に1人が死ぬ訳だから、権力者の世継ぎ問題は深刻だっただろう。
徳川家康は世継ぎの重要性を特に理解していた。子に恵まれなかった豊臣家を見てそう思ったのか、効率的に世継ぎを確保するため、全国の大名の娘を半ば人質とし、それらの中から種付けを行うシステムを構築した。正室(第一婦人)以外は500人近い側室(第二婦人以降)がいる。女性自身の心は全く無視だが、もしその子が次の将軍となれば家も母親も恐ろしいほどの権力を握ることができる。
これらを眺めてわかるのは、一夫多妻制はホモ・サピエンスにとっての効率的な種の保存ではなく、個人の血統の維持、権力の維持のために結婚制度が使われていることである。
1945年から1950年にかけて起きた太平洋マリアナ諸島にあるアナタハン島で起こった事件はかなり面白い。第二次大戦末期に事業の目的や船の爆撃により集まった31人の男性と1人の女性は、敗戦後忘れ去られた状態となり自給自足に近い共同生活を行ううちに1人の女性をめぐって争いが始まった。その後墜落したアメリカ軍の爆撃機から拳銃が発見されたことで権力闘争に発展し、女性を巡って殺し合いが始まり、7〜9件の殺人が起こったとされる。女性は身の危険を感じ、アメリカ軍に投降、男性たちも救出されたが、すでにその時には20人に減っていた。
この事件の面白いところは、種の保存を目的としているだけでなく、「誰が女性を獲得するか」が男性間での権力の象徴になったところだ。「男性は永遠にお互いライバル」という話を聞いたことがあるが、男性の獲得競争はこのような不思議な状況に置かれると加速するのだろう。
なぜ、ひとりなのだろうか。そもそも女性はシステムに落ち、受精に成功しても、10ヶ月間の妊娠期間がある。さらにその後2〜3年間は少なくともつきっきりで子育てをしないといけない。女性の方が男性と比べて種の保存に対してはコストが恐ろしく高いのだ。
女性側は一定期間新たな生殖活動ができないうえ、身重になると一人では資源の採取もままならない。しかし男性側はすぐにホイホイと次に行ける。これを防止し、一定期間種を守るためにも一人限定である必要がある。何しろ、太古では胎内で10ヶ月育てても新生児の生存率は恐ろしく低いからだ。
自然な本能に従った恋愛システムはその溢れるエネルギーを女性の望むように使える訳では決してない。キルギスタンでは今も誘拐婚と呼ばれる女性を拉致しそのまま結婚させてしまう犯罪じみた伝統が存在する。
不思議な伝統はキルギス族に伝わる「マナス」という英雄叙事詩から来ているとされる。誘拐婚は(アラ・カチュー:奪い去る)と呼ばれ、法律や宗教よりも伝統を尊重する傾向があるキルギス族はいまだに伝統を踏襲し誘拐婚を続けている。
またキルギスタンでは、親が決めた相手と結婚することが一般的だったが、旧ソビエト連邦の共和国になった20世紀以降、男女平等や自由恋愛の考え方が広がり、アラカチューは、その際おこなわれた「駆け落ち」を表す言葉として使われていた。
現在も両親からの結婚反対を理由とした、合意のあるアラカチュー(駆け落ち)は存在している。一方で、アラカチューの意味が「伝統」としてねじ曲げられて伝わり、合意のない暴力的な誘拐行為が年々増えている。
誘拐された女性の8割が結婚を受け入れると言われており、結婚後に幸せな家庭生活を送る女性たちもいれば、離婚や家庭内暴力も後を絶たない。
キルギスタンでは、いまだに年間約1万人もの女性が誘拐され、そのうち約2000人がアラカチューの過程でレイプ被害にあっている。
サピエンスの雄は社会からの容認がされればここまで無謀なこともできる生殖へのエネルギーを持っているとも言える。
さらに、ヒトの脳は実はマルチタスクできるようになっていない。そもそも人間はマルチタスクしていない。複数のタスクの同時進行などできないのだ。複数の作業を同時進行で行うことを「マルチタスク」と呼ぶが、研究結果でマルチタスクは「脳の錯覚」であると結論づけられている。
実際に脳内で行われているのは「マルチタスク」ではなく「タスクスイッチング」といって、脳が高速で対象タスクを切り替えて処理をしているだけである。元来ヒトはシングルタスクで、仕事ができる人は同時進行で色々なタスクをこなしていると思われがちだが、頻回な切り替えを強いられているだけである。
マイクロリサーチによるデータでは、マルチタスクは生産性が40%低下するだけでなく、作業ミスが50%増加するデータもある。何人もアプローチして結局失敗してしまえば結局何の意味もなさない。多数を相手にできるのは圧倒的強者だけなのだ。
おそらくホモ・サピエンスは「一度に沢山」ではなく「一生で沢山」の生殖システムを選択したのだろう。どちらにせよ、受精に向かって男女は「半径1メートルの世界」を相互に展開するのだが、その後の男女の種の保存に対する行動は少しだけ違う。男性は資源の提供と精子の注入、女性は子孫の保護と長期的な生活の安定を受精後望む。男女に差異はかなり深い。
このミスマッチを改善するためにはやはり一定期間脳をバカ状態にするしかない。この状態を1人ではなく何人で起こせたとしても到底エネルギーや資源は足りない。さらに何よりも1人のカリスマ性のある魅力的なものに全て取られてしまうことになり、いずれ多様性はなくなる。
「いちどにひとり」は生物学的多様性のためにも合理的であり、ロマンチックさを高める意味でも非常に有効だ。