【添削歓迎】小論文100本ノック#1
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課題文
一般的に「貧困」と言えば、それには大きく二つの場合がある。一つは絶対的貧困で、もう一つが相対的貧困である。しかし、現代日本社会にはそのほかに「文化的貧困」があるとされ、問題視されている。
なお絶対的貧困とは生命を維持するために最低限必要な衣食住が満ち足りていない状態のことを指す。主に発展途上国に見られる貧困であり、飢餓で苦しむ人々やストリートチルドレン等がこれに該当する。一方、相対的貧困とは社会の構成員として「あたりまえの生活」を営むのに必要な水準を欠いている状態のことを指す。憲法二五条「健康で文化的な最低限度の生活」を保てていない状態がこれに該当する。
しかし、それらとは別に現代には「文化的貧困」というものがある。例えば、経済的に貧しい若者の中には「貧乏だからコンビニ弁当しか食べられない」と言う者がいる。昔であれば、貧乏ならご飯とみそ汁だけで食いつないだものだ。もしくはそれに似たようなものを「自炊」してどうにか切り抜けたものである。どう考えても、今よりも昔のほうが貧乏の度合いは高い。むしろ昔の状況下においては、今の「コンビニ弁当」は非常に高価なものとさえ言えよう。にもかかわらず、「コンビニ弁当しか食べられない」状況を一部の現代人は「貧乏」と言う。
すなわち、これは心もしくは感性の貧困なのである。豊かさの感覚がわからない心。他者依存的に豊かさを求めようとする心。「貧乏だからコンビニ弁当しか食べられない」という一言から、そのような少々ねじれた心的状態すなわち文化状況を指摘することができる。そうすると、憲法二五条「健康で文化的な最低限度の生活」は土台から成立しないことになる。なぜなら、すでに「文化」が貧しいのだから。
答案
要約
意見
課題文で指摘される文化的貧困は現代に限ったものではない。バブル期の熱狂はまさに文化的貧困の空騒ぎだ。金によって世界中の文化、芸術を買い漁った国が文化立国になっただろうか。否だ。
「なんとなくクリスタル」が物的幸福の極点にありながら内心の空しさを抱きそれを物によって埋めようとする若者像によって大きな支持を得たように、当時いおいても内的空しさ、つまり文化的貧困は時代的テーマであった。つまり課題文が指摘する貧困は、現代に限らず、常に「現代」社会が抱えて続けてトピックにすぎない。
では社会が「豊か」であった時代は在存するのか? 明治期に書かれた「こころ」においても現代人の心の空しさが描かれている。つまり我々は少なくともこの150年間ずっと空しく貧しいのだ。
従って我々が考えるべきは「なぜ現代は」ではなく、「なぜ我々は」貧しいかである。この点によって私にとって課題文は退屈であった。
以上
380文字
所要時間 25:38