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カウントダウン
今日僕は夜とあるカフェに行きました。
課題を終わらせるという口実でクロックムッシュとハニーオレのMを頼みました。
食べることはどちらかと言えば確実な幸福感をもたらしてくれる気がします。とはいえ、しばらくずっと食欲不振なので、急激に空腹な時に限ります。
それと音楽も不確実ですが、脳内でなにか再生された時に同じものを聞ければ多少幸福をもたらします。
また、通学中暑くて倒れそうな時など目の前のことから気を逸らしたい時、音楽を聞くことで幸福感をもたらすと言うより不快感を多少取り除いてくれます。しかし先程通学中などと言ったように、脳内を使わない作業以外でないと、音楽では不快感は紛れません。
僕の生きる幸福はその程度です。
Mサイズのハニーオレを飲みきり、会計を済ませて家に帰るバスに乗り込みました。
実は1時間に3本あるこのバスの9時51分発に合わせてハニーオレを飲み切っていたので、僕が乗り込んだ後バスはすぐに出発しました。
もうすぐ10時ですが、駅の周りは酔った社会人で賑わっています。
僕には趣味がありません。人と話しても旅行に行っても部屋で絵を描いても幸せな気持ちになることはできません。
他にも生きていて多少の出来事で少し嬉しくなることはありますが、その多少の幸福感とは比にならない程度で、生きている不快感がとてつもなく激しいです。
快感を得ることよりも不快感を得ることの方が簡単に思い浮かばれます。
生きている中で不快感のほうがとてつもなく多い
それでも僕は生きようとしました。そういう「風潮」だから、それだけです。この先を生きて何かしたい、大人になったらこうなりたいということは何一つありません。ただそういう風潮だから生きている。それと死んだら周りの人間に被害が及ぶというのもあります。
でも、他人に及ぶ危害も含め、「風潮だからしょうがない、生きよう」という弱い理由にもガタが来ました。そんななんとなくのぼやっとした抽象的な理由と「切実とした、具体的な苦しみ」は比べ物になりませんでした。
僕にとっての生きる理由はそんなにもふわっとしたものなのに、それは社会では絶対とされています。しんどいと思いました。
2ヶ月ほど前、消えてしまいたいという思いが限界を超えた時、僕は入力した日まで何日か計算するサイトで毎日平均寿命までの日数を数えることにしました。
日本の平均寿命は男性で81.4歳。
僕が81になる2085年6月5日まであと22714日。
2ヶ月前の当時は、それにあと60日ほど加えた数だったでしょう。それは気が遠くなるほどの膨大な時間でした。ぴったりその日に死が訪れるわけではないですが、「分からないがとにかく膨大な時間」という生の時間の未知である恐怖は和らぎました。膨大なことに変わりはないとしても、具体的に示された目安の日数があることに安心感を覚えました。
残りの日数は分からずとも、この苦しくて感情がちぎれそうでズタボロな今日も24時間生きていれば「死ぬまでの日数」が確実にひとつ減ります。
ここ2ヶ月ほど、僕はその日数を毎日見ることを続けています。それは僕のほぼ無に等しかった趣味のひとつになりました。生きていて初めてしっかりとした快感を得たのは、あと何日で死ねるという快感でした。
死にたいからこそ、死ねるという楽しみで生に喜びを見出すことができるなんて、おかしいけど、辛いことばかりよりも楽しみのある生活の方がよほどマシです。
そうこうしている間にバスが自宅であるアパートの前に止まり、僕は降ります。
家に帰ると、いつものようになんとなくスマホでSNSを閲覧します。特に決まった投稿を見る訳ではなく、流れてくるものをひたすら見て時間を潰しています。
時間に余裕がある時の大体の時間をこうやって過ごしていますが、かといってそれが趣味か、こうしていて楽しいかと聞かれるとそれほども感じません。
いわゆる惰性というものに近いでしょうか。
常に何に対してもやる気が出ないので体を動かしたり頭を働かせることを空いた時間にしたいとは全く思いません。
時間に余裕がある時なんてそれほど無いのに貴重な時間を対して楽しくないことに使うのは本当に馬鹿だと思いますが、逆に言えば短時間で快感を得られるような趣味は無いので仕方ないです。
1つ言い訳するとすれば、他の人間はどのように人生を楽しんでいるかを知るためにやっている、とも言えなくはないです。
でも今のところ、それを知ったところで他人のように人生を楽しむことはできないので、それを他人と行った時楽しそうに振る舞うようにするだけであって、心からの楽しいことを見つけられた訳ではありません。
また、なにか目的があって毎日生きて、それを発信するためにSNSを使っている人間を見ると、それがどんな小さいことやたとえ悪だったとしても、僕は羨ましいと感じます。
スクロールして次に現れたのは全身タイツを着て踊る選挙立候補者。
大地震を起こす龍を予言する厨二病。
チクワの健康被害を伝えるおばさん。
10年間地下で活動するアイドル。
2次元に行こうとする中年男性。
僕にとってはどうでもいいことですが、彼らにとってはそれをすることが生きる意味なのでしょう。それをすることで、辛いことがあってもそのために生きているのでしょう。
そういう物があることが、僕にとってはとても羨ましいです。
そうこうしている間に11時半になり、それに気がついた僕は後は寝るだけでいいような全ての支度を急いで済ませて、時計を見て焦りながら風呂に入りました。焦ってはいましたが決して苦しい気持ちではありませんでした。一日の楽しい時間が待っているからです。
風呂から上がりパジャマを着ると、時刻は11時59分と、丁度いい時間でした。急いで日数計算サイトを開きました。
カウントダウンと同時に、頷いて心で数を数えました。
2085年6月5日まであと22713日
よし。
22714から22713になりました。母数に比べてすごく小さな変化ですが、今日もしんどいながら生きたおかげで、死までの日数は一日縮まりました。このまま、とてつもない日数だけれども、頑張れば寿命になって死にます。
このカウントダウンを始める前、寝る時間は明日起きることに対して、また生きなければならないことに対しての鬱を感じる時間でした。
また不眠も酷く、眠れなかったり寝たとしても夜中すぐに目覚めたりするなどが多かった時もありました。
しかし今では、一日減ったという喜びの時間に代わり、明日を生きることについて鬱々とすることはすこし少なくなりました。また、不眠も治るとはいきませんが、若干は症状が良くなった気がします。
目覚めました。
朝一番の深いため息と腰の重たさに目眩がします。
夜は少し明るい気分でしたが、一日が始まってしまえばまた生きなければなりません。1つカウントダウンするということは、また次も生きなければならないということです。朝はそれが鬱です。
しかし苦しんでいる暇はありません。昨日はカフェでのんびりと課題をしたり夜はスマホを見ていましたが、今日はそうとはいかない忙しい日です。
僕にとって、苦しさを自覚できる時はどちらかというとマシな場合です。
本当に忙しくて行き詰まり、体の疲れを体自体が隠しているような時は、気づかないうちに心を病み、思考がおかしくなります。
まあ、忙しくなくとしても僕の思考は少しおかしいかもしれないですがね。
今まで何度も辛い時の対処法を調べましたが、ほぼ全ては休む、寝る、趣味をするの3つです。しかし僕が1番心を病むのは休みたくても休めない時で、そういう時は不眠になり、そして常時楽しい・嬉しいと感じることがほぼありません。
結局だんだんと辛い気持ちをどうにかしようとする気持ちは無くなってきました。今では辛いのかどうかさえもよく分からない時が多いです。
そうこうしている間に家を出る時間になりました。
都心なのでアパートから外に出ると多くの商業施設が見えます。まだどれも開店していませんが派手な色で装飾されています。
僕にも昔は楽しいと感じることが多かった気がします。他の人と同じように、人と話したり、出かけたり、旅行したり、家で絵を描いたり、文章を書いたりするのが楽しかった気がします。だけどもうその感覚は思い出せません。
僕はバスに乗り込みました。座れないので立っていました。
バスに乗ると当然ですが老若男女多くの人がいます。
僕の目の前には70代くらいのおばあさんが和んだ顔で座っています。
すごく不謹慎だと言われてしまいそうですが、僕がいつも夜にやっている以上、最近は街をゆく人の残りの日数は何日くらいかということについてすごく考えてしまいます。
もしこのおばあさんが77歳くらいだと仮定すると、女性の平均寿命は86歳なので、3000日と少しほどでしょうか。
人間として最悪のことをしていることは分かっていてもこの考察は人に会うとすぐやってしまいます。
僕がこの先苦しみから解放されないであろう2万日なんて莫大な時間をこの人は乗り越えた訳です。僕は気が利かず優しくは無いですが、お年寄りに対する尊敬だけは人一倍あると思っています。
カウントダウンの推測はまだ終わりません。
あのサラリーマンは41歳くらいに見えるから、14500日ほど。
あの人は、絶対に本人にはこんなこと言えないけど、体格からして平均寿命ほど長生きはしなさそうだな。
あの女の子はまだ2歳くらいだからまだ30000以上あるだろう。僕みたいにおかしな思考回路の人間にならず、元気に生きてほしいな。
そんなことを考えながら、僕は先頭辺りに立っていたので、窓から外を眺めました。
僕の嫌いで嫌いでたまらないこの世界です。見るだけで目眩がしました。
汚くて気持ち悪いことだらけなのに必死に我慢して生きることを強要される気持ちの悪い世界です。
少子化が進み、不景気になり、更に社会は苦しくなります。
そしてその影響を受けるのが僕たちです。
それでも周りは熱中できることを見つけたり人との交流を楽しんで生き生きと毎日を送っています。
そうやって考えが悪い方へ進んで気分が悪くなると思ったので、正面の窓から目を逸らそうとしたその時でした。
突然体が跳ね上がり、体が力強く左右に動かされ、正面の窓からはゲームで視野をやたらめったらに変える時のように激しく景色が揺れました。1秒後、乗客から多くの悲鳴が上がりました。しかし揺れは強くなる一方です。
何が起こったかは細かくは分かりませんでしたが、思ったことは1つでした。
絶対に死ぬ。
外の様子とこの揺れから僕はそう確信しました。緊急時の良いカンとかそんなテレパシーのようなものではなく、あからさまに死ぬと分かるくらいの揺れでした。1秒もしないうちにはもう確信してました。きっと周りの人もそうだったと思います。
約数秒の間でしたが、やっと死ねるという事実に湧き上がり、嬉しさの狂乱状態でした。
こんな喜びは人生で1度も味わったことがないです。
よく実際死が近づいたら自分の命の大切さに気がつくなどと言われますが、死ぬ、と確信してから実際に死ぬまでの間、僕は全くまだ生きたいとは思いませんでした。
むしろ、結局そんなふうに思うのは上辺だけの死にたい人間で、本当に死にたいとは思ってないからそうなるのだろうと思っていながら、実際にそんな機会にあったことは無いのでそれを否定できずにいましたが、否定できて嬉しいとまでも思いました。
僕は最後まで死にたかった。
次の瞬間、正体不明のコンクリートの壁のようなものがバスに当たりました。ガラスの破片が飛び散る、コンクリートがぶつかる、バスが転倒するの3つの打撃で、僕を含む乗客の全てが命を引き取りました。
僕が周りの人間に対して密かに予想していた死亡までの数は、実際には全て間違いで、全ての乗客の残り日数は終日を含め1日でした。
そして同じように、自身の寿命カウントダウンも大きく違っていました。
それはいいのです。期待を上回れてとても嬉しい気持ちです。
しかし、先程僕は死に対して一切後悔が無かったかのように書きましたが、後悔ではないけれど、あることには気が付きました。
それは僕が、残りだと思っていた22713日に、ほんの少し、あるかないかのようなものだけど、期待をしていたということです。
22713日の間にいつか周りの人間のように普通に生きられるのではないか。
22713日の間にいつか生きていて心から楽しいと思える日が来るのではないか。
22713日の間にいつかこの漠然と辛い期間の根源が明確に分かり、同じように苦しむ人を励ます話となる時が来るのではないか。
なぜ自分がこのような期待を心の底ではしていたことに初めて気がついたかというと、これらのことが果たされる未来などないんだ、と希望が砕かれる感覚が、かすかにあったからです。
まあ、実際死ねるという大きな喜びがその何倍も何倍も大きかったので、ましてや今まで死ねない絶望の方がもっともっと大きかったので、そんな微塵の希望の消滅は僕にとってはどうでもいいことで、その時深くは感じていませんでした。
結局、それよりも未来に対する数字なんて予想でしかないし、全くもって当てにならないということ、そして周りの人間は今まで積み重ねてきたことが全て無駄になったんだろうな、というこの世に対する馬鹿らしさについての方が僕の頭を占めていたような気がします。
まあ、ここで後悔を感じる人ほど人生が喜びに満ち溢れていたということです。
カウントダウンは神様が最後にくれた、死の憧れで生を楽しむ、可笑しいながら確実な快感を与えてくれる趣味でした。
こうして僕の脳内にあった22713日は、今更叶えられるはずもないかすかな期待を生んで、その数秒後に僕の脳と共に消されました。
僕はこの約2ヶ月の毎日、あるはずもない幻の時間について考えていたのです。