「ひろゆき論」批判(6)

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 ところでこの連載をすべて読んでいるという人は、すくないながらもいるらしい。

 そのひとたちはこう思っているのではないか。これを書いているひとは暇なのでは。ある意味そうで、ある意味そうではない。

 コロナ禍以降、私の働く業界ではテレワーク化が他の業界に比べてもかなり進行した。私も2020年の夏頃からはほとんどリモートワークをしていて、たまに通勤電車に乗ると、ひといきれしてしまって、職場でもあまり集中できない。

 テレワークになったことでいろんな恩恵を受けているが、私にとってよかったのは、昼休みや終業後の時間をフルに活かせるようになったことだ。

 それまでその時間は文庫本を読むことで埋めていた。しかし職場や電車のなかでの読書というのは、それはそれでなかなか集中できないという問題がある。

 なによりもそのような場所で文章を書いたりすることは、すくなくとも私にはできない。それがテレワークになったことで、文章を書く時間が増えた。昼休みになったら、すぐにエディタを起こして文章を書く。また仕事に戻る。

 仕事が終わればまた文章を書く。そしてある程度書けたら、次に書くものに備えて、本を読んだりする。

 なんだかんだ私はフルタイムワーカーで知的な作業というのは、その合間を縫ってやるしかない。そしてその合間でしか知的な作業ができないから、その時間でも長く書ける文体や、その時間でも多くの本を読めるスタイルというのを確立したのだ。

 どうせそうなるだろうとは予測していたので、私はその確立作業を大学時代からはじめた。はたしてその作業はいま役にたっている。

 もちろん仕事はしたくないし、宝くじがあたったら私は速攻で仕事をやめる心の準備ができている。それは中学校のころから変わらない。もっとお金があれば、もっと時間があれば、と毎日思っている。

 しかし私はこうは思わないようにしている。「もっとお金があれば」「もっと時間があれば」、私はもっといい作品が書けるようになるのに。

 こう思いはじめた人間は、もうほとんど物書きとして死んでいると、私は思っている。なにも最近考えはじめたわけではなく、十年前くらいからそう思っているのだ。

 そういっていて、いざ経済的・時間的余裕が確保されたあとに物を書かなくなったひとをゴマンと見てきた。だからこれは理論ではなく、経験則の話だし、理論的というよりは一種の信仰だ。

 書くやつは書くし、書かないやつは書かない。そう思わないと今日この日の執筆すら進まない。物書きにかぎらず、クリエイティブな分野においてはどこにでも妥当する話ではないだろうか。

 だから今日も私は定時に仕事を終わらせ、即座に文章を書き始めているのである。

 この話の教訓は、前提条件というのはひとそれぞれであって、あとはアウトプットで評価するしか、知の公正さというのは保たれない、ということだ。

§ 「ひろゆき論」第5節の批判

「ひろゆき論」第5節は「なぜリベラル派を嫌うのか」と題されている。

 47段落。「ではそれは、なぜ『ダメな人のためのネオリベラリズム』であり、『リベラリズム』ではないのだろうか。本来はむしろリベラリズムこそが『弱者の論理』として持ち出されるべきものだろう」。

 むろんこの話は突然でてくるのである。なので「突然!?」と驚いても仕方はない。リベラリズムとはなにか?という解説はなされることはない。

 とにもかくにも、著者のなかでは、そして著者が想定している読者のなかでは、リベラリズムは善であり、ネオリベラリズムは悪である、ということになっているようなのだ。

 そのような図式的な思考は重力のようなものとしてこの世界にある。ぼやんとしていると人はすぐにその落とし穴にはまる。「~が善、~は悪」という符牒が通じる共同体のなかで、おしゃべりに興じるようにになる。

 そこから抜けだすのが思想や文学、そして哲学の言葉なのであって、岩波書店の『世界』はそういう言葉を載せる場所だったのではないか。

 などと、かつて大学図書館の地下書庫で『世界』のバックナンバーをめくっていた私は思うのだが、それは私のような地下室人の勘違いなのかもしれない。

 この文章に続き「それなのにひろゆきは、そしてその支持者はリベラル派を嫌い、さまざまな局面でその立場に反対している。それはなぜなのだろうか」と続いて、とうとう「リベラル派を嫌い」「なぜなのだろうか」と、完成された被害妄想の類を見せられるのであるが、私が上で言及したような図式的思考を嫌うのは、それが受け入れられる共同体が閉鎖的になり病的になり、そして攻撃的になるからだ。

 そしてわずか一段落のなかでリベラリズムという思想の話は、「リベラル派」という派閥の話にすり替わる。そして以降、著者のいうリベラル派はリベラリズムと等値される。しかし、その等値ははたして妥当か?

 通常、このような文章には、「いや妥当ではない」と続く。なのでお約束を回収しておくと、筆者のこの等値はまったく妥当ではない。

 そもそもリベラリズムというのも、また広い言葉であって、さまざまな領域に関するリベラリズムがある。

 ところで私は存外カタカナが好きではないので、以降リベラリズムは単純に自由主義ということにする。

 たとえば政治的自由主義、経済的自由主義というおおきなふたつの枠があり、そのなかでも時代によっても思想内容が異なるし、同じ時代に自由主義を標榜しつつも、まったく異なる思想が語られることもある。

 であるから、現代に自由主義と一言でいっても、そのひとがどのような意味で自由主義を言っているのかは、即座には明らかでなく、そのたびごとに「私はこういう意味で自由主義を考えています」というふうに宣言をしなければならない。

 だから自由主義というのは本来的に孤独なものなのだ。同じことを考えていると思えるひとにでも、都度都度、私はこういうことを考えています、だから私は自由主義者なのです、という説明をしなければならない。そうしなければコミュニケーションギャップが生まれる。全体主義や共産主義と自由主義が本質的に異なるのは、この点においてだ。

 私がリベラリズムというカタカナ語を嫌うのは、この言葉が昨今の人文系の出版業界のなかで、そのような必然的なコミュニケーションギャップを糊塗し、そのたびごとの説明という努力を放棄するための言い訳として機能しているからでもある。

 だから自由主義と「リベラル派」を等値する「ひろゆき論」の著者の文章は、原理的に妥当ではないと思っている。しかしある業界のなかだと、そういう文章がうけるのだろう。実際問題うけているのである。

 とはいえ私は自由主義者ではない。むしろリバタリアニズムに傾倒している人間なので、そこらへんの整理と地ならしは自由主義者のひとたちにやってほしい。

 48段落。しっかりとした基礎のうえにしか建物は建たない。しかしその比喩は文章には妥当せず、文章はずっと変なことを言うことが可能なのである。「その背景にあるのは、とくに『弱者観』の違いという問題だろう。弱者とは誰か、そしてどうあるべきかという見方に関わる問題だ。それぞれについて考えてみよう」。

 というわけで、どうやらひろゆき氏とその支持者は「弱者観」に違いがあるから「リベラル派」とやらを嫌うらしい。

 これまでの分析であれば、ひろゆき氏がそうなるということはいえても(筆者の分析は不十分なのでそれもいえないわけだが)、支持者がそうだということはいえないはずなのだが、そう書いてあるので、筆者はそう思ったらしい。

 この点において、私はこの文章を読む眼を、感想文を読むときの眼に切り替えなければならなくなる。まあずっとそうだったわけだが。

 49段落。「まず弱者とは誰かという点では、一般にリベラル派は、とくに二つの立場に沿った見方をしてきたと考えられる」と書き出され「従来の福祉国家論の立場」と「近年のアイデンティティポリティクスの立場」というのが解説され、それぞれの立場から想定される「弱者」というのが列挙される。

 リバタリアニストであり、新設定を明かすが、リベラルアイロニストでもある私などは、特定の思想の立場からみえる「弱者」がどうのこうの、という話よりも、実際目の前にいる、あるいは知り合いの筆者のいう「弱者」について考えることの方が、大事なのだが、筆者はそういうゲームが好きらしい。

 50段落目。「加えてとくに日本の場合には、戦後民主主義の立場から、さまざまなかたちの戦争被害者がそこに含まれることになった」。ということらしいのだが、なるほどこれが最近の「リベラル派」とかいうひとびとの歴史観なのかと感心する。

 福祉国家的、アイデンティティポリティクス的、戦後民主主義的、なんて別にだいたいの国に当てはまる話だと思うのだが、その最後尾の項目をあげるにあたって「とくに日本の場合には」などと書いてしまうあたり、本当にこのひとは日本のことにしか関心がないのだな、と感じてしまう。

「ちがう。このひとが言ってるだけだ。リベラル派は別のことも考えている!」というひとは、どうぞ、そのことを「ひろゆき論」の著者と版元である岩波書店様に意見していただきたい。ネットにつぶやくのもいいし、どこかで文章を書くのもいいと思う。私にいっても仕方がない。

「この文章を書いているやつもリベラル嫌いだ!」というひとがいるかもしれないが、別に私はそのことを隠してはいない。「ひろゆき論」を批判し、それを載せた版元を批判し、そしてそれを評価している人間を批判する、という行為は市民道徳に則ったものだと私は考えているが、それをしたことによって「反リベラル」認定されるのであれば、そんなに狭小な派閥に入りたいなどと思わないわけであって、別に嫌いでもなんでもいいかなと思っている。

 つまり、嫌いとかいう以前に、どうでもいいのであって、それはひろゆき氏も筆者のいうひろゆき氏の支持者も同じではないか。「リベラル派」とかいう謎の集団のお仲間になることよりも、大事なことがあり、考えるべきことがある、というのが日常というものだ。

 50段落の前半。「これらの存在、すなわち高齢者、障害者、失業者、女性、LGBTQ、在日外国人、戦争被害者などが、いわばリベラル派の『弱者リスト』の構成員となっていると言えるだろうが、一方で彼が問題にしているような『ダメな人』は、そこにはほとんど含まれていない」。

 まず純粋な文章技術の問題として、ひろゆき氏に触れなくなってから2段落をまたいでいるから、ひろゆき氏のことを「彼」というのは、下手だ。

 とうとう「下手だ」という、三文字だけで話を終わらせようとしている自分に驚きを隠せないでいるが、そうとしかいいようがないので、仕方がない。私はここまでに7万字も書いているのだ。多少の脱力には目をつむっていただきたい。

 そしてまず「弱者リスト」という言葉なのだが、下品だ。普通はカッコにくくっても使わない。それでひろゆき氏がそんなに政治的な言葉を使ったことがあるのか、と思ってまた調べてみたのだが、見つけられない。つまり筆者が書いているということであって、筆者が下品だ。

 というか「弱者リスト」ってなんだよ。神様の懐にでも隠されてるのか?文章を読むとどうやら「リベラル派」というのが、そのリストを持っているようなのだが、「リベラル派」というひとたちもいい加減怒ったほうがいいのではないか?そうしないと当事者に怒られることになると思う。

 しかしもしかしたらそのようなリストは本当に存在するのかもしれない。

「比喩だ」と言われるかもしれないが、まず比喩として下品だということは書いた。それはふつうの感覚だと思う。

 にもかかわらず「リスト」という言葉を使っているということは、私が知らないだけで本当にそういうリストが存在するのかもしれないと思うのは当然であって、まあどういうことかというと、「リベラル派」はこの著者に怒ったほうがいいと思う。私のような局外者はただただドン引きしている。

 そこに続く文章。「『コミュ障』『ひきこもり』『うつ病の人』などだ。そうした人々は、リベラル派のプログラムでは救済されることがないと考えてしまいがちだ。そのため、それに従っても意味がないと思ってしまうのだろう」。

 怒られるぞ。いや、怒られてないのか。じゃあ私が怒ろう。とはいえ怒る気力もだいぶなくなっている。

 このように実在の他者に紐づく蔑称を並べ立て、しかもひろゆき氏の文章にあった配慮は洗い流し、あたかもひろゆき氏がそう言っているかのように並べる手つきは、ただただ下品だ。

 著者に対してだけ言っているのではない。編集者、編集部部長、版元、好意的にとりあげる新聞関係者、出版関係者、アカデミシャン、全員に言っているのだ。もう一回書いておこう。下品だ。

 このような一文が存在するだけで、その文章は下品だし、それを評価することも下品なのだ。最後にもう一度言う。下品だ。

 ところで、筆者によるとそのようなひとは「良識派」なのであった。なるほど。良識派というのは下品なものなのか。私もそれなりに思想や文学を勉強してきたとは思うのだが、それは知らなかった。そしてそんなことは知りたくもなかった。

 このあとの文章で、著者はひろゆき氏の言動に対して「差別的」という形容をあてることになるのだが、よしんば、ひろゆき氏の言動が差別的であったとしても、この文章もまた差別的ではないか。というかこの文章は確定で差別的だろう。そこを棚上げして「差別的」が云々されても、頭には入ってこないのだ。

 もしかして、良い差別と悪い差別があるのだろうか?良識派が行う差別は良い差別で、ひろゆき氏が行う差別は悪い差別なのだろうか?それは知らなかった。そして知りたくもなかった。

 一気に時代は巻き戻り、時代に応じて積み重ねられた言説が吹き飛んだような気がするのだが、この文章の冒頭に書いたとおり図式的思考というのは、このような落とし穴にはまり、そして他者に対する攻撃を始めるのである。

 50段落の最後。「そうした人々は、リベラル派のプログラムでは救済されることがないと考えてしまいがちだ。そのため、それに従っても意味がないと思ってしまうのだろう」。

 いま私が思っていることを言い当てられているようで、すこしドキリとしてしまった。

 そう。そうなのだ。こういうことを書くひと、それを雑誌に載せるひと、その文章を褒めるひと、そういうひとたちがどうやら「リベラル派」と呼ばれているらしいのだが、そのひとたちは果敢にこちらに攻撃を仕掛けてきているので、そういうひとたちの言葉に耳を傾けても仕方がないな、と思っていたところなのだ。

 しかしそういうと「攻撃したのはそちらが先じゃないか」というジョン・ランボーばりの言葉が返ってきそうだが、ひろゆき氏は攻撃したかもしれないが、私は攻撃してないし、そういうひとにまで流れ弾があたってしまうから、「ひろゆき論」という文章はよくないのだ、というのが私の批判の一貫したテーマでもあった。

 ただ「救済」と書かれているのでそれはすこし気になる。私もいろいろと大変なので救済されたいと考えてはいるのだ。筆者によると、リベラル派のプログラムで救済されるひともいるらしい。どう救済されるのだろうか。それは気になる。

「リベラル派のプログラム」に従うことで行くことのできる楽園のような場所があるのだろうか。そこでは日々の労働から解放され、幸福感だけが心に満ちて、これからさきもずっとそんな感じで暮らせるのだろうか。だとしたら私も方針転換をして、いざ「リベラル派」とやらに参入するために頑張ろうと思うのだ。

 これもまた「比喩だ」と言われるのだろうか。であれば別の言葉を使うべきだ。救済という言葉にはそれだけの歴史的な重みがある。なにが言いたいかというと、こういうひとつひとつの言葉選びに下品さというのはあらわれるということだ。

 つぎ。51段落。正直どうでもいい。

「リベラル派」の「弱者観」とやらが、マルクス主義の伝統に紐づいているということが語られている。

 戦後日本の人文知は、所詮はマルクスの広げた風呂敷のなかでだけ動いているのだから、そんなことは言われなくてもわかってる、という感じがあるが、そんな分かり手は少数なのでこのような解説は有用かもしれない。

 ただし「親和的」などとごまかさずに、要は「リベラル派」というのはマルクス主義的思考の残党なのだ、と認めたほうがいい。

 ちなみに私はそのことを認めているし、私の文章はそもそも「批判」という言葉をこれだけ重要視しているのだから、私はマルクス主義に大いに影響を受けている。

 隠してもいない。なんかいい感じに摂取してるだけですよ、といった雰囲気を出すのだけはやめたほうがいいと言っているだけだ。

 52段落。「こうした見方は、しかし『ダメな人』を力づけるものではない。そこでは弱者が、もっぱら搾り取られる側の存在として規定されているからだ」。

「こうした見方」というのは、前の文章のマルクス主義の考え方を指しているのだが、こう書く筆者が共産主義の運動や、ロシア革命などをどのように評価しているのかは気になる。まあ考えたこともないのだろう。

 つづく文章。「そもそも『横並び』が苦手な『ダメな人』たちに連帯するよう説いても、あまり現実的ではないだろう」。

 このあたりから筆者は「ダメな人」に対する差別的な見方を隠さなくなってきていて、もはやひろゆき氏が言ったこととは関係なしに、自身の感想を漏らしはじめている。

 その感想が妥当であれば、それは評論の文章として成立するのだが、いかんせん差別的なので、もはや感想文ともいえないのである。

 53段落。「一方で彼の議論では、逆に各自が稼ぎ取る側の存在になるよう勧めてくれ、そのためのやり方も教えてくれる。だとすれば、集団としての権利よりも個人としての利益を得るために立ち上がるほうが、やる気も出るし、現実的だということになる」。

 ちなみに短期間にひろゆき氏の著作を読み漁った私の感想を言わせてもらえば、ひろゆき氏は著作であまり具体的なアドバイスを書かない。考え方のアドバイスや実例は挙げてくれるが、それをみんながするべきか、という点に関しては常にエクスキューズを設けている。

 なので「やり方を教えてくれる」という筆者の読みは単に誤読だと考える。しかし誤読もなにも、読んでいないのではないかというのが、私の考えなので、ここに踏みこんでも仕方がない。

 そしてマルクス主義が云々としたあとに「稼ぎ取る」という言葉を使っているので、ひろゆき氏が読者に搾取する側に回るようにすすめているというふうに読んでしまうひともいるだろうが、さきほども書いたとおり、ひろゆき氏は具体的なことを言わないので、そうも言えないのである。

 もちろんより高度な読み方として、あえて具体的なことを言わないことが、具体的な現実を変えるためのイデオロギーとして機能する、という分析はありうる。高度とはいうが、スラヴォイ・ジジェクの本を読めば、誰にでも真似ができることだ(だからジジェクの本はおもしろいし、それをもう一度やることはダサいので真似できないのだ)。

 しかし筆者がそのような意図でもって、この部分を書いているかというと、別にそんなことはないのであって、ここまで深読みする読者も珍しいというか、たぶん私ぐらいしかいないのだ。

 あと、うじうじしていないで「個人の利益を得るために立ち上がるほうが、やる気も出るし、現実的」というのはそのとおりなのではないかと思う。なにかいけないことのように書かれているが、悪いことなのだろうか。

「集団の権利」と「個人の利益」が対立させられている。これはケースバイケースではあるが、誰しも初発では個人の利益を優先するだろう。だから毎日働いているのだ。

 あとはその個人の利益追求が、集団の権利を支えるように、どのように社会を設計するかというのが問題なのであって、それはアダム・スミスがわかりやすい目印ではあるが、政治経済思想の根本問題だろう。

 筆者のいう「リベラル派のプログラム」とやらは、まさにそれを考えるはずのものであって、初発の動機としてひとびとが自身の利益を追求するという点に対して嫌味を言われると、ではあなたはどのように生活してきたのですか、と聞きたくなる。

 文章に生活があらわれるのはよくない。しかし生活の匂いがしない文章というのは魅力的ではない。

 私の好きなOZROSAURUSのMACCHOが「Rep」という曲に寄せたリリックでいえば「足元暮らすトコ ルーツ スタイル スタンス無きゃ ただの音 全部が点とか線なら ビートに韻とかフローだけ乗せても 退屈ドラマが見えてこねぇんだよ」ということである。

 とうとう私も純粋に趣味の引用をやるようになってしまった。先に進もう。

 54段落。「こうしたことから『ダメな人』は、そしてそのオピニオンリーダーとしての彼は、リベラル派の見方を拒否することになる。その『弱者観』は彼らを救済するものではなく、力づけるものでもないからだ」。

「ダメな人」「オピニオンリーダー」云々は置いておくとして、後半の文章には「そのとおり!」と膝を打つことになる。私はそうだが、この文章を読んでいるひともそうなのではないだろうか。

 筆者は「リベラル派の見方」とやらを積極的には書かないが、言葉の端々にあらわれた下品さをみていると、そこにいても元気にはならないし、「救済」もされないと思うのは、それこそふつうのことだと思う。

 55段落。「しかしリベラル派はそうした見方にこだわり、自らの『弱者リスト』の構成員にばかり福祉を分配しようとする。一方で彼らは分配の対象にされないばかりか、その原資を拠出するための徴収の対象にされてしまう。彼らの目にはそう映っているのではないだろうか」。

 ところで「リベラル派」は国家の運営主体なのだろうか。というのも「福祉を分配しようと」しているからだ。それは行政にしかできないはずなのだが。

 なにか勘違いしているのではないだろうか。それほど「リベラル派」とやらには力があるのだろうか。そんな勘違いを比肩されても、私の目に映るのは変なことを言っているひとだけである。

 ここで文章技術からはすこし離れる問題ではあるのだが、直前にも「ダメな人」とひろゆき氏を「彼ら」とひとくくりにしている箇所がある。そしてこの文章にもある。

 はたしてその同一視は明らかではないので、より丁寧に議論を進めるためにも分けて書いたほうがいい(「ダメな人」とか書いている時点で、丁寧もクソもないのだが)。

 とはいえ、これは筆者が「彼ら」というふうに、ひろゆき氏や著者のいう支持者をみているという無意識があらわれているわけであって、そのような雑な目線からこそ差別的な言説が生まれるのだなと、これはまた別な発見がある。

 つまりそう見たいからそう見ていて、そう見ているから、このように論旨はぼんやりとしているのに、苛烈に攻撃的・差別的という文章が書けるのだろう。気をつけよう。

 56段落。「そのため彼らは、そうした分配の仕方に異議を申し立てるとともに、その根底にある分配の原理、つまり福祉国家という体制そのものに疑義を呈する」。誰もそんなことは言っていない。被害妄想もいい加減にしてほしい。

 つづき。「その結果、『大きな政府』を否定し、ネオリベラリズムを支持することになる。こうした考え方が、『ダメな人のためのネオリベラリズム』を支える一つの政治思想となっているのだろう」。

「優しいネオリベ」から筆がブレて「ダメな人のためのネオリベラリズム」へと変貌する。著者の差別意識が露骨にあらわれていて、ある意味でおもしろい。

 著者は「ダメな人」も「ネオリベラリズム」も嫌いであろうから、そのふたつが合わさるともっと嫌いなものが出来あがるのだろう。

 しかし言葉は合体ロボではないので、もう少し考えたほうがいいと思う。そう。この「ひろゆき論」は好き嫌いの原理に駆動されていて、思考の跡がまったくみえない。

 別にそういう文章が悪いといっているわけではない。Twitterとかブログとかにいくらでも発表の場はある。そういうところに発表すればいい。そしてその文章はそれだけで良いとか悪いとか言われるものではない。しかし権威のある雑誌に、そして新聞に書くことじゃないだろ、と言っているだけだ。

 むろん好き嫌いの原理を文章から完全に排除することは難しいし、するべきでもないと思う。ただひとに読ませる文章では、思考によってその好き嫌いの問題を理論化しなければならない。物書きなんて職業はたったそれだけのことができるからという理由で成り立っているという側面もある。

 べつに頭がいいからとか、良識があるからという理由で物書きになるわけではない。これまで語ってきたような様々な文章における技術を使いこなせる、むしろそれしかできないから物書きになるのだ。

 だからそれもできていないのに、一丁前に雑誌に文章を掲載したり、それをもとにした原稿を新聞に寄稿している著者を見ていると腹がたつのだ。こんなことをされると物書き全員がこんなやつなんだと思われるじゃないか。単に迷惑なのだ。

 57段落。「しかもそこで提示される弱者、つまりリベラル派の『弱者リスト』の構成員は、そうした『強者の論理』に守られている以上、もはや『真の弱者』ではなく『偽の弱者』なのではないかと、やはり彼らの目には映じるのだろう。というのも彼ら自身が『真の弱者』なのだから」。

 以前指摘したとおり「弱者の論理」というのは、ひろゆき氏の著作の節名から引かれたものだった。ひろゆき氏が筆者の言うようなことを言っていたわけではなくて、なんとなく筆者の琴線に触れる言葉だったから引いたのだろう。

 筆者はそこから連想を伸ばして「強者の論理」という言葉を作り、そしてそれをカッコにくくっているのだが、もはや勝手にしてくれとしか思わない。

 ここで批判をやめてもいいのだが、筆者がその言葉を使って、ひろゆき氏だけでなく、その支持者というあいまいな限定で広い読者を攻撃しているから続けようと思う。

 ひとが言ってないことを言ったことにして、思っていないことを思ったことにしている著者はいったいなにがしたいのか。

 私が思うにそれは著者が「彼ら」と呼ぶ対象に対する攻撃であって、著者がもしそれを意識していないのであれば、もう物書きとしての仕事はやめたほうがいいし、教壇からも降りたほうがいい。

 そしてそれを意識しているのだとしたら、物書きとしての仕事をやめたほうがいいし、教壇からも降りたほうがいい。

 やってはいけないことというのがこの世界にはあって、それをやっているから私は延々と批判をしているのだ。

「ひろゆき論」を無邪気に評価している人間もそうである。

 もし実際に文章を読んでも、そのような攻撃性に気づかずに、つまりあまり読めていない状態で、この文章を評価しているのであれば、物書きとしての仕事をやめたほうがいいし、人に物を教える立場からは退くべきだ。

 そしてこの文章をしっかりと読んだあとに、しかし業界でいい顔をするためだけにこの文章を褒めているのだとしたら、物書きとしての仕事をやめたほうがいいし、人に物を教える立場からは退くべきだ。

 しかしだれもそんなことは言っていないし、言っているのは私だけなので、世界とはそういうものなのかもしれない。

 しかし私が確信をもっているのは、知とは本来そのようなものではないということだ。そして文章を書くことは、そんなことをするためにやることではないということだ。その確信があるからこそ、私は批判を止めない。

 58段落。「こうした見立てに基づいて彼らは、『強者』としてのリベラル派と、『偽の弱者』としてのマイノリティに強く反発することになる。そうすることが『真の弱者』としての彼らの階級闘争となるからだ」。

 あいかわらず考えていないことを考えていることにしている。ちなみにここで「階級闘争」という言葉がでてくるので、ある種、マルクス主義的な思考の枠組みで著者は問題を整理しようとしているようだ。

 そこで思いだすのはマルクスが『資本論』の第1巻に書いた「彼らはそれを知らないが、それをしている」という言葉だ。

 言ってないことを言っていることにして、考えていないことを考えていることにしている著者は、マルクスのこの言葉によって免罪されるのではないかと考えるひともいるだろう。

 そう思うひとは、『資本論』において、その言葉が登場するまでにマルクスが行った分析と、それを書くためにマルクスが要した研究作業に触れてみるとよいと思う。後者は『剰余価値学説史』と題されて翻訳もある。新品で手に入れるのは難しいが、図書館には収められているはずだ。

 とかくファッションとしてマルクスの思想を援用する人間に対しては、邦訳著作集を読み通し、いまでもちょこちょこと独語版全集を読み進めている人間の立場からすると腹が立つのだ。しかしこれはあまりにもニッチな怒りであった。つぎに進もう。

 59段落。「たとえば辺野古をめぐる騒動のきっかけとなったのは、米軍基地建設反対運動の現場で、『座り込み抗議が誰も居なかったので、0日にした方がよくない?』と彼がツイートしたことだった」。

 とうとう著者がひろゆき氏の言葉を一字一句違えずに引用できたことに感動をおさえることができない。

「彼がそうした行動に出たのは、リベラル派の『弱者リスト』に含まれる戦争被害者としての沖縄の人々が、運動するポーズを取っているだけの『偽の弱者』にすぎないという見解を示したかったからだろう」。

 そしてまた真顔に戻る。

 とりあえず沖縄に住む人を「リベラル派の『弱者リスト』に含まれる戦争被害者としての沖縄の人々」とか書くのはやめたほうがいい。怒るひともいるとおもうので。

 あとハンロンのカミソリというのを、この批判文のなかで何度かとりあげた。間違いに必要以上に悪意を見いだすな、という格言であって、著者はとにもかくにも、ひろゆき氏に悪意を見いだしたいようで、その果てに階級闘争開戦の鐘の音を鳴らしているとまで言いたいようなのだが、ぼやんとして、写真をとって、ぼやんとしたことを投稿するというのは誰にでもある。

 それはふつうに批判されるし、その批判からいろいろな問題の問い直しが進んでいくのだということは、ぼやんとした文章を書いて、よくわからない人間に批判されている著者であれば十分すぎるほど分かることなのではないか。

 60段落。「その後、リベラル派との間で論戦が繰り広げられ、さまざまな事実を突き付けられたにもかかわらず、彼は断固として態度を変えようとしなかった。

 彼がそうした行動を取ったのは、特定の『弱者の論理』をあくまでも押し通そうとするリベラル派の『強者の論理』に、あくまでも対抗するという姿勢を示したかったからだろう」。

 さて。たしかに論争にはなっていないが、この批判文を著者が読んだとして、そしてそういうことは私はしないのだが、たとえば私が岩波書店に問い合わせを行って、返信がなかった場合には、このブログ上にその旨を公開するなどとした場合、著者は態度を変えてくれるのであろうか。

 どれだけ言葉を送っても、態度を変えないひとというのは一定数いるので、そことの対話は諦めて、たとえば辺野古の問題を深掘りしていき、他の読者を啓蒙するというのが真に生産的な作業だ。

 狭い業界のなかでひろゆき氏の悪口をいって、あまつさえこんな文章を雑誌に載せたりしても、ひろゆき氏は真面目にとりあわないだろうし、著者のいう支持者は、そもそも読みもしないのだ。

 著者には啓蒙の姿勢が足りない。ただ口喧嘩や言いがかりをしている。それが楽しいのはわかる。実際、この批判文を書いているときに私がまったく楽しんでいないかといったら嘘になる。

 まあ私が書いているのは部分的に口喧嘩ではあっても、言いがかりではないと思うので、その点で著者の文章とは差別化されていると思うが。

 わかる。自分のいうことをわかってくれるひととの間で悪口を言うのは楽しい。私も大学時代に散々それをやった。それがいちばん酒が進む。ある程度、年齢を重ねたいまでも、大学の友人たちと地元で飲むときは、誰かの悪口、誰かの噂話、そのオンパレードだ。

 わかるのだが、なんどもいっているとおり、それを雑誌に載せるなということを私は言っている。雑誌は啓蒙の場だ。啓蒙とはなにか。それは価値観を共有しない人間に、自分の考えを伝えるということだ。

 そこで伝えられるものが正しい知識なのかどうか。それは伝わってから判断されることだ。だから、蒙を啓く、という表現は実態にはそぐわない。

 啓蒙とよばれる営みのなかで、はじめにやらなければならないことは、価値観を共有しない人間に対して、自身の思考の強度をできるだけ落とさないように伝えるにはどうしたらいいか、ということを考えて、何度も何度も言葉を選ぶという作業だ。

 岩波書店の『世界』という雑誌はそのような啓蒙の場としてあったのではないか。たしかに「岩波知識人」などと揶揄されることもあった。人民を馬鹿にして、ひたすらにハイソな議論にふけっている時期がほとんどだっただろう。

 しかし理念というものがある。「ひろゆき論」の増補改訂版が掲載されているサイトにもこう書いてあるじゃないか。

『世界』は、良質な情報と深い学識に支えられた評論によって、戦後史を切り拓いてきた雑誌です。創刊以来70年余、日本唯一のクオリティマガジンとして読者の圧倒的な信頼を確立しています。――https://websekai.iwanami.co.jp/infos/about

 実態はどうあれ、そうあろうと試みてきた70年間はあったわけだから、しっかりしてほしいと私なんかは思うのだ(私のこのような感覚について、大塚英志が戦後民主主義について論じている各論考から影響を受けている)。

 61段落。「それらの行動はいずれも、彼に『いいね』を贈った28万もの『真の弱者』の階級闘争が、その背後で繰り広げられていることを意識してのものだったのだろう」。

 ひろゆき氏のあのツイートをみたときを覚えている。一ヶ月に一回の出社日で、市ヶ谷のオフィスビルに出勤していた私は、職場の近くの名代富士そばでミニカツ丼セットを食べながら、このツイートをみた。

「めっちゃ批判されるだろうなー」と思って、その後の展開も追ってみたかったのだが、いかんせん昼休みというのは一時間しかないし、昼食を食べ終えたあとには、すこし歩いて喫煙所に行きたい。

 なので夜にまたそのツイートをみるために「いいね」を押した。自分のいいね欄からなら、またツイートをたどれるからだ。

 ちなみにそのときにした「いいね」はまだ外していなかったので、さっき外した。イーロン・マスク氏のTwitter改革はいろいろよくない方向に紛糾しているが、「いいね」以外の気軽なブックマーク機能の導入には期待したい。

 ところで私は、階級闘争を行っているのだろうか?

 ここまで読んでいただいた方に感謝する。

次回→https://note.com/illbouze_/n/nb16603b7da76

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