「ひろゆき論」批判(2)
前回 → https://note.com/illbouze_/n/n6477c9b1b711
子どものころ、夏休みの宿題は、配られた瞬間から解答をはじめ、放課後まで教室に残りすべての宿題を片付けたら、自分の机のなかに夏休みの宿題をおいて帰る。そんな子どもだった。
前回の文章で、次回を3月20日週と予告していたが、私もはやくこの文章は書き終えたい。というわけで第2回を掲載する。
§ 今回の批判対象と読者の反応に対するアクション
前回は伊藤昌亮の「ひろゆき論――なぜ支持されるのか、なぜ支持されるべきではないのか」の「はじめに」を読み、批判した。今回は「プログラミング思考で権威に切り込む」と題された2節以降を批判する。
(特別掲載「〈特別公開〉ひろゆき論――なぜ支持されるのか、なぜ支持されるべきではないのか」https://websekai.iwanami.co.jp/posts/7067)
そのまえにいくつか記しておこう。前回の文章を掲載してからさっそく読者から意見をもらった。いわく、私の苛立ちが各所にあらわれていて面白いとのこと。これは少し考えた。たしかに私は苛立っている。だからこのような批判文を書いている。
しかし私はそのような苛立ちが文章にあらわれないように、可能なかぎりフラットな文章を書くように心がけていた。ただ勘のいい読者にはわかってしまうようなので、どうしたものかと悩んでいる。
とりあえずフラットな文章で書くことはこれからも続ける。しかしどうせ隠しきれないのであれば、ある程度は「私は苛立っている」として書いたほうがいいのかなと思った。なによりもそちらのほうが精神の健康にとってよい。
また別の読者からは「自分は電子書籍でひろゆき氏の本を買っているので、電子版でも参照箇所が分かるようにしてほしい」と言われた。
お恥ずかしいことだが、私も実際にひろゆき氏の著書の読者から反応があるとは思っていなかったので、いわゆる人文知的な作法にのっとり物理版の書籍の頁数を記しておけばことたりると考えていた。
しかしこの文章は理論的なものというよりも、どちらかといえばジャーナリスティックな部類に入るので、そのような読者に配慮することが求められる。
それで考えたのだが、ひろゆき氏の著書の内容に言及するさいは、章名や節名、見出しで参照指示を行うことにした。
Kindle版を確認したところ(あたりまえではあるが)、物理版も電子書籍版もそれらは共通しており、またひろゆき氏の著作には章や節で区切られることなく、延々と文章が続くという部分もないため、参照指示の最大公約数としてそれがよいと考えた。
そのためこれ以降は以上のような引用方針にしたがってひろゆき氏の著作に対してはあたることにする。とにもかくにも実際に引用作業を行うまえで助かった。
というのも、今回扱う節から、ひろゆき氏の著書からの引用がはじまるからだ。それでは本文に移ろう。
§ 「ひろゆき論」第2節の批判
第9段落。現在ひろゆき氏が、若い世代に向けて生き方や考え方を指南することに注力しており、しかしひろゆき氏は「通常の論者のように、そこで彼は努力の大切さなどを説くわけでは毛頭ない」とされている。
「通常の論者」は努力の大切さを説いているのか、そしてひろゆき氏は努力の大切さを説いているわけでは「毛頭ない」のか、というような細かい問題は置いておこう。
つづく文章で著者はひろゆき氏の著書名とその本の内容とをミックスして、しかしどれが著書名で、そしてどれが著書の内容にあたるものなのかを明示せず、ひとしくカッコ書きで言葉をならべている。
それがひろゆき氏の主張だと著者はまとめている。
これはあまりにも杜撰ではないか。著書名を並べて誰かの思想だということはふつうできない。誰か特定の著者をあげてパロディを行おうとしたが、馬鹿らしいのでやめておく。
しかし論文を書こうと思ったさいに、誰かの思想をその著書名を並べることで要約しようなどとしたら、それが道を外れたことであるのに気づくのに多くの時間はいらないはずだ。
ひろゆき氏は思想家や文学者、つまり学知にかかわるものでないから、そのような蛮行が許されるのだろうか。いや、許されない。
それは敬意の問題だ。誰かを批判する文章を書くときでも、最低限、批判対象に対する敬意を示すことが、書き手の倫理だ。この段の文章はもはや揶揄の域に入っている。ふさわしくない。
そしてこの文章の各所について言えることなのだが、ひろゆき氏の著作を引用するさいに「文献2、3、6、9」という雑な参照指示しか記されていない。どの本のどの部分からその言葉が引かれたか。それを明示するのは学問における最低限の礼儀ではないだろうか。
あくまで文章のみを批判するという態度をたてている私だが、この点に関しては、著者と編集者の見識を疑わざるをえない、と言っておく。
それではここで挙げられている言葉が、それぞれひろゆき氏のどの著書のどのような部分から引かれているかを確認しよう。
まず「1%の努力」であるが、これは2020年にダイヤモンド社から出版された、ひろゆき氏の同名の著書からとられていると思う。この言葉が書名である以上、むろん本文のなかにはこの言葉が様々な箇所で使われているから、内容のレベルで著者がどの箇所から引用したかは判然としない。
しかしこの言葉のあとに「ラクしてうまくいく生き方」という言葉が並べられているのをみると、著者は「1%の努力」という言葉を、「そんなに努力をしなくてもよい」というメッセージだと誤解してはいないか。
ひろゆき氏の著書を読めば、そのような誤解は生まれえない。なぜならば、ひろゆき氏が訴えているのは、旧来の価値観で努力とみなされることを考えなしに行うことはやめて、自身の条件にしたがって、真に幸福に生きるための努力を行うこと、そのためになにをすればいいかを考えること、そのことを指して「1%の努力」と呼んでいるからだ。
その意味で『1%の努力』という本は、たとえば浅田彰氏の『逃走論』(この本を挙げたのは私が想定する読者層が思い当たりやすいだろうと考えたからだ)などと似た人生論的メッセージを語っているのでいて、奇抜なものではない。むしろ真摯な訴えが書かれていると思う。
ひろゆき氏は本書のあとがきで「あなたにとっての『1%の努力』とは、どんなことを指すのだろうか。それは、あなた自身にしか決められないことだ」と書き、本書のなかで語られたひろゆき氏の人生の話は、「1%の努力」の一例にすぎないことを念押ししている。つまり自分のいったとおりにすればうまくいくというメッセージは発していない。
そのため「1%の努力」という言葉を「ラクしてうまくいく生き方」の前に並べて、文章らしきなにかを作っている「ひろゆき論」の著者は、そもそも本書の内容に目を通してすらいないのではないか、という疑いは捨てきれないわけで、この言葉は単に書名からとられたものだと私としては判断せざるをえない。
つぎに「ラクしてうまくいく生き方」だが、こちらもまたひろゆき氏による同名の著作があり、2021年にPHP研究所から出版されている。こちらの引用は前掲書に比べてより杜撰である。
「そうじゃないか」と思いながらも、一応確認のために本文を読んだが、「ラクしてうまくいく生き方」という言葉は、本文には登場しない。書名にのみ登場する(むろん「ラクして~」という表現は本文に多様されている)。
つまり『1%の努力』と違いこちらは言い逃れのしようがなく、たんに書名からとったことが分かる。
書名からとるのは悪いのか、といわれれば、一義的には悪くないが、その言葉を使って他人の思想を要約するのはよくないし、せめて二重カッコでくくることで、その言葉を書名からとっていることは明示するべきである。
そうでなければ、ふつう読者は挙げられている本を著者が読んで、その思想を要約しているのだと思う。そのためこの段落の記述はすでに引用を用いた論述形式の悪用と断じられても仕方のない領域に踏みこんでいる。しかし最後まで確認しよう。
「ずるい問題解決の技術」。こちらも同名の著書が2022年にプレジデント社から出版されている。同じ言葉は本文のなかに登場しない。そのため書名からの引用である。
この流れでいえば「人生の抜け道」も書名かと考えたが違う。そのような著書は存在しない。そのためここで挙げられている4冊の文献をみたところ、「人生の抜け道」という言葉はどこにも登場しない。ただし『ずるい問題解決の技術』のなかでは「抜け道」という言葉がひとつのキーワードとして登場している。
ただし大事なことなので2回言うが「人生の抜け道」という言葉は登場しない。ちなみに同書のなかで「人生の」からはじまる箇所もひとつしかない。第6章の「自己肯定感が低い」のなかにある「勝てない場所で戦うな」という節の終わりの部分だ。
さすがにそんなことはないだろうと思ってネットを検索してみたところ『ずるい問題解決の技術』の広告記事のなかで「人生の抜け道」という言葉が使われているのを発見した。しかし「ひろゆき論」の著者がそこからこの言葉をとったのかどうかはわからない。わからないが、いい加減にしてほしい。
AERA.dot、「パクる、丸投げする、撤退する――ひろゆきが教える『ラクして成果を上げる抜け道』の見つけ方」、鷺ノ宮やよい、2022/5/25、https://dot.asahi.com/webdoku/2022052500098.html
(追記。その後、再度確認してみたら「人生の抜け道」という言葉は『ずるい問題解決の技術』の表紙に書かれている言葉であることに気づいた。だからどうしたというわけではないが、いい加減にしてほしいものである)
「全部うまくいくサボり方の極意」。こちらは探すのに苦労した。というのもあまりおおっぴらには言えないが、私はこの本を新古書で買ったからだ。
どういうことかというと、この言葉は、2022年にPHP研究所から出版された『無理しない生き方 自由と快適さが手に入る37のアドバイス』の帯文に記された言葉だ。書店におもむき、新品の図書を購入することは大事だと思った。
「パクる・逃げる・丸投げする」。もう私も真面目に探すのは飽きていた。この絶望的に不毛な作業のなかで、ひろゆき氏の語る人生論の言葉が心の奥底にすっと清涼剤のように入ってくる。しかし続けなければならない。この3つの言葉がならんだ状態では、挙げられている4冊の本には登場しない。一度もだ。
『ずるい問題解決の技術』のなかには、それぞれの言葉が個別に登場する。見出しで並んでいる箇所もある。しかしその順番は「丸投げする」「パクる」であって、逃げるに相当する言葉は「撤退する」になっている。
それでふと表紙をみてみたら「パクる 逃げる 丸投げする」と書いてあった。しかし引用部分に付されているような中黒は存在しない。中黒2個はどこからやってきたのだろうか。こちらはネットを検索しても見当たらなかったので、中黒2個は引用者による創作だと思う。
疲れた。
引用の形式を守るのは、その論が本当に妥当であるかを読者が確認できるようにするためだ。内容の妥当性を検証可能にし、いつでも反論が可能なように文章を構成すること。これは学術、そして準学術ともいえる総合誌の領域でも完徹されるべき原則だ。
そうでなければ、ある人が言っていないことを言っていることとして書くことができる。デマが書ける。流通数がある程度確保されていて、そして権威のある雑誌にそのような文章が載っていれば、読者は文章による検証ができないため、著者の肩書でもってその信頼性を判断するしかなくなる。
あたりまえの話を何度も書かなければいけなので、頭が痛くなってくるが、この批判文はそういうものなのでなんどでも前提は確認しておこう。当然のことながら文章の正しさはその内容で判断されなければいけない。決してその文章を誰が書いたかで判断されてはならない。
そしてその文章が他人の言葉や思想を批判している場合には、まず第一にそこで批判されている人がほんとうにそのようなことを考えているか、そして言ったかが確認できるようになってなければならない。だから引用元を明示することが重要なのだ。
そしてこの文章の参照指示は、なにも書かれていないよりはマシというレベルである。だから良いわけではない。だからダメなのである。およそ『世界』に載るべき文章ではない。いや本来であればどのような雑誌媒体にも載るべきではない。
出版物はインターネット上の情報に比べて一定の信頼が置かれる。それは図書館などの制度に保護されて、後世への残存がある程度保証されているし、なにより発表までにかけられた人的・経済的コストが高いから、そこには正確で質のいい情報が載ることが期待されているし、作り手もそのような期待に応えようとしていることが想定されるからだ。
だから不正確な情報が書かれた書籍はそれだけで批判されるのだし、そしてそれでいいと思う。勝手気ままにインターネット上に掲載している文章とは違うのだ。単純なミスではない部分、たとえば参照指示が杜撰であった場合には批判されるべきである。そう思うから私は批判している。
このように参照指示があいまいであるという点を指摘するだけでも、この文章に対する最低限の指摘は果たされたと思うが、それは引用の慣習を知っている人間であれば誰でも指摘できることではあるので、私は先に進みたいと思う。
10段落。「努力しても報われない」という言葉がカッコ付きで書かれているが、引用なのか、強調なのか判然としない。そして前段の批判作業でこの著者の引用の態度が法外であることは確認したので、この部分についてもはや私が追って確認することはしない。
この段落ではひろゆき氏の思考のベースが「逆張り」であるとされ、しかし、ひろゆき氏の人気の理由は、その「逆張り」の点だけには求められないということが書かれている。
この「逆張り」がなにに対する逆張りかは明示されていない。そのため想像するしかないのだが、こういうときの王道としてすこし前の文章を読んでみよう。
するとひろゆき氏の思考に対置されているのが「努力の大切さ」であることがわかるので、ひろゆき氏の思考のベースは「努力の大切さ(あるいはそのような素朴な道徳的メッセージ?)」に対する逆張りだと筆者が捉えていることがわかる。
もしこの対置を筆者が意図して書いている場合、さきほど『1%の努力』の読解の誤りを指摘した私としては、その誤解に基づいて話が進展していくところをみて、もはやこれ以上この文章を読む必要はないのではないかという思いが湧いてくることを止められないのだが、私は全的な批判を目的としているので続ける。
『1%の努力』の誤読に基づいて議論を進めて、ひろゆき氏の思考と「努力の大切さ」を対置する筆者の思考は、単に誤っている。以上。あくまでもしそうならばの話だが。
そしてこれは批判の範疇を超えるが、私はひろゆき氏の言葉は「努力の大切さ」などの素朴な道徳的メッセージに対する逆張りというよりも、また別の原理に基づいた道徳的メッセージだと考えている。
道徳は法ではない。法は強制力をもつ。しかし道徳は強制力をもたない。法は禁止するのに対して、道徳はこうしたほうがより良いのだと説く。ひろゆき氏も自分の言葉、あるいは考え方にのっとると、より楽に生きれるのだという道徳を語っている(ひろゆき氏は自身の言説を「道徳」だとは言わないだろうが)。
そしてそれぞれの道徳はたがいに批判しあう。ある道徳のなかにいれば「良い」という価値観はひとつなはずで、別の「良い」を語る道徳は偽のものだからだ。
そのような道徳の乱立を明かしたのは『道徳の系譜学』におけるニーチェの功績だが、いずれにしても人類史を見てみると、ある道徳を道徳でもって批判するのは悪手であって、道徳には法か哲学で相対さなければならない。
法は勝手気ままに人が立てられるものではないから、この文章がひろゆき氏を批判するときには哲学でもって批判するしかなかった。
しかしこの文章は道徳で道徳を批判するという泥沼にはまっていて、それゆえに各所に歪みが生じている。論述の歪み以前に形式や作法のレベルでの歪みのほうが目立つのだが、ここでは目をつむろう。
道徳で道徳を批判すれば議論には歪みが生じる。そのことは歴史や人文知にあるていど通じていればわかるはずだ。なので、はじめから論述の姿勢が間違えていたのだと言わざるを得ない。話がそれた先に進もう。
第11段落。ひろゆき氏が自らを「プログラミングというスキルを持つ実業家」としていて、その観点からすれば、そのまえに書かれた「逆張り」の態度は当然のものだとされる。相変わらずカッコ書きの言葉が多いが、出典は明示されていない。そしてただただ紙幅を食うだけなので、ここでも私の手で出典を探すことはしない。
もっとも違和感を覚えるのは、以下のような文章だ。ひろゆき氏はプログラマーであり実業家であるから「他者の優れたソースコードやビジネスモデルを真似ること、効率の悪いプロジェクトから撤退すること、開発や運営をアウトソーシングすることなどは当然のこと」だそうだ。
なにかそれがいけないことかのように書かれているのだが(そして誰かは「それが悪いとは書いていない」と言うだろうが、文章には位置が表示する意味というのがあって、ここでは明らかに悪い意味の位置が与えられている)、たとえばそれを換言すれば、その配置のおかしさがわかる。
「他者の優れた仕事や成功事例を真似て、効率の悪い仕事からは離れ、制作や運営は外注する」それは悪いことなのだろうか。むしろ多くの社会人が日常的にやっていることではないだろうか。会社というのはそもそもそういうものだ。
この点についてこの文章はつづく見解を明らかにしていない。あくまで議論の途中にあらわれる文章だ。なのであまり突っ込んでも仕方がないのだが、ひろゆき氏が批判的文脈で取りあげられている以上、そこに付される性質記述についても批判的に言及されているのだと読むのは普通である。
そのためその性質のなかに社会通念上、普通のことと思われるものがあれば、個別に「この点については~という風に考えれば、むしろ普通のことである」というようにサポートする記述を加えたほうがいい。
でなければここで書かれていることが、さも悪いことであるかのように読者としては感じてしまうし、もしかすると筆者がそのことを悪いことだと思っているのではないかと考えてしまうからだ。これは純粋に文章技術の問題である。
第12段落。「彼によれば」と始まる段落だが、文献の指示が抜けている。しかし再三再四書くがもはや私の手で確認はしない。
第13段落。カッコ書きで「プログラミングを身につけることで副産物的に得られ」とあるが、出典が明示されていない。出典を明示するべきである。なによりも不自然な箇所で区切っているのだから、ますます必要である。だからといって私が探すわけではない。
第15段落。これまでの記述をまとめ、ひろゆき氏の提言している考え方がまとめられる。著者によればひろゆき氏は「プログラマーとして世界を見る」という態度を指南しているとのことだ。なおこの言葉にも文中ではカッコが付されているが出典は明示されていない。だからといって私が探すわけではない。
またこれまで批判してきたとおり、そのまとめにいたるまでの記述で参照の不備がある。通常の読者にはこのまとめが妥当であるかを判断することができない。出典を明示するべきである。だからといって私が探すわけではない。
なお「これらの能力を駆使し」のあとに「いわばプログラミング思考に基づいて」と文章がつづき、ひろゆき氏の考え方がまとめられているが、この「プログラミング思考」という言葉は節名になっているが、出典元が明示されていない。だからといって私が探すわけではない。
この言葉がひろゆき氏によるものなのか、ひろゆき氏の著作や発言を読んで著者がキーワード化したものなのかは重要である。なぜならば後段でこの言葉を軸にひろゆき氏の思考が批判されるからである。
本人が言っていない言葉で、その思想をまとめ、その言葉を軸に思想を批判することは特に問題はない。たとえば「ポスト構造主義」という言葉などがそれにあたる。
ただしあくまでそれが本人の言葉によるものなのか、著者によるものなのかは峻別するべきだ。たとえば「ひろゆき氏の思考をひとつの言葉に要約するならば」などと書けばいい。それだけだ。批判の手続きを順当に踏むことは大事である。つまり出典を明示すればいいのだ。だからといって私が探すわけではない。
第16段落。前段における「プログラマーとして世界を見ること」に続き、その視点からするとどのように世界が見えるかが解説されている。ここにはカッコ書きがないため著者による見解だと思われる。
著者によれば、それは「世界を、いわばデータとアルゴリズムから成り立つものとして見ることが目指される」。なるほど。そのような視点を批判的にとりあげることについては、たとえばハイデガーの『技術への問い』などに見られる、近代社会批判の一種のクリシェである。
しかし、そこにつづく記述に疑問がある。「そのためとりわけ、データとして数値化された事実性と、アルゴリズムとして図式化された論理性が重視される」。ここにはもう少しエクスキューズが必要だ。
著者は当然のことながら、「データとして数値化されない事実性」と「アルゴリズムとしては図式化されない論理性」も重要だということを、裏でほのめかしているのだと思う。であるならば、そのような一文を足すべきである。
そうでなければいじわるな読者は、この著者は事実性と論理性を重視しないのだ、という曲解を行う。実際、私はそう読んだし、半分そう思っている。とにかく現今の文章ではどちらが正しい読みなのかを確定できない。ガダマーのいう読者の「善き意志」に頼らずに、明確にありうる誤解を排しておくべきだ。
「それらに準拠せずに行われる議論は、『それってあなたの感想ですよね』と『論破』されてしまう」と続くが、もし事実性と論理性に基づく議論が行われない場合、それはただの感想であるし、論破されてしかるべきだろう。感想にもとづく議論では、内容の正しさにかかわらず、つねに多数派の意見が優先されてしまうからだ。であるので、さきほどのべたような但し書きは必要である。
なおここでもカッコ書きが使われている。前者がひろゆき氏による言葉であることは有名である。ある程度文脈が共有されていることが期待できる場合、出典の明示は不要であろう。
しかし後者は一般にひろゆき氏を評するときに言われる言葉であって、ひろゆき氏の言葉と注意なしでならべるべきではない。
あたかもひろゆき氏自身がこの言葉を発したかのように見えるからだ。それは印象操作というものである。もしひろゆき氏が自分の言葉として、これを言っているのであれば、出典を明示すべきである。だからといって私が探すわけではない。
第17段落。これまでまとめられてきたひろゆき氏のような思考法は、著者のいう「若い世代のオピニオンリーダー」に共通するものであることが語られる。「堀江貴文、落合陽一、成田悠輔」がひろゆき氏に類似するオピニオンリーダーとして挙げられている。
彼らは「いずれもプログラマーや実業家としての素養を持ち、ある種のプログラミング思考を通じて社会を論評することで人気を博している」らしい。ここで「プログラマーや実業家としての素養」となっているのだが、それまでの文章では、プログラマーや実業家「である」こと、がひろゆき氏の思考を形成する重要な要素として語られていた。
しかしここではプログラマーや実業家としての「素養を持つ」ことが重要視されている。もはや「である」ことは意味をもたない。
なぜこのようなブレが生じているのか。それは明らかに「堀江貴文、落合陽一、成田悠輔」と複数の人物を十把一絡げに、著者の考える批判的枠組みのなかへ押し込んだことにより、当初あった性質記述が不適切になったためだ。
堀江貴文氏や落合陽一氏にはプログラマーおよび実業家としての側面がある。しかし成田悠介氏は経済学者であって、実業家の側面はあるが(半熟仮想代表取締役)、プログラマーとしての側面が表にでたことはない。
では、プログラマーや実業家「である」ことと、その「素養を持つ」ことのどちらが重要なのか。それは文面からは明らかにならないので、つまり補足記述がいることになる。
著者はひろゆき氏の批判を完徹するのか、それともひろゆき氏に代表される昨今の(著者のいうところの)オピニオンリーダーたちを批判したいのかどちらかを選ぶべきだ。
そのどちらでもより透徹した分析が必要なのであって、現状のような曖昧な文章では読者もどちらにより重点が置かれているのか判断しづらい。
助言を記しておくと、ひろゆき氏の批判に集中したいのであれば、ここでひろゆき氏のほかの3人の名前を挙げる必要がない。
論旨がぶれるからだ。実際にぶれている。そしてここであげられている4人を一挙に批判したいのであれば、「ひろゆき論」という題名は不適切だ。題名を変えた方がよいし、文章も導入からすべて書き換えたほうがよい。
しかし文面にあらわれていない、著者の意図をこれ以上考えても仕方がないのであって、とにもかくにもこの箇所で本文の批判の的がブレていることだけを確認しておく。
このブレはのちの論述にも影響を与えているのであるが、文章というのは建築物に似ていて、このような小さなブレものちには大きなブレに結びつくのである。しかし、いい加減前にすすもう。
第18段落。ここはとても奇妙なので、段落ごと引用しよう。
「だとすれば彼の逆張りは、単なる良識へのそれではない。文系的な、とりわけ人文的な、これまでの日本の知のあり方へのオルタナティブであり、さらに言えばそのヘゲモニーへの異議申し立てだと見ることができるだろう」
もはやひろゆき氏が「良識」と対立しているのは自明の事として、その認識の深掘りがこころみられている。なんどもいうとおり、実在のある人物を指して良識と対立しているというのには、膨大な労力が必要である。この文章がそれを果たしているとは思えない。やめるべきである。
そしてひろゆき氏は「文系的な、とりわけ人文的な、これまでの日本の知のあり方」に本質的には対立しているとされている。「日本の知のあり方」にその前のことばがかかっていることはわかるが、「文系的な、とりわけ人文的な」という限定は意味不明である。
誰かがなにかに対立しているというのなら、そのなにかはよりはっきりと規定されるべきだ。
例えば「第二次世界大戦以後に日本で積み上げられてきた人文系の学知」や「1980年代来の学際知の流れをくむ現今の人文知」など限定の仕方は多様だ。
「これまでの」というようなあいまいな限定の仕方では、ひろゆき氏がなにに対立しているのかがわからない。「これまでの日本の知のあり方」でイメージされる内容は読者によって様々だからだ。
ここでもまた著者の、目配せが機能する範囲の読者共同体への、甘えが露出している。そしてそのような甘えが通用しないことは、すくなくとも私という批判者の存在で証明されているだろう。
しかしこの甘えは著者にかぎらず、現今の人文的な知において蔓延しているものだ。ここで「人文的」と私がいうのは、2010年代以降に急速に左傾化し、ゆえに排他的になった日本の人文知のあり方を指している。
その知は伝統のある版元を牙城として、その伝統を背後に、目配せの効く読者共同体に対するリップサービスモラリティ(口だけの道徳的言説)に専念し、その共同体のなかでしか通用しない符牒を、印籠のように振りかざしてきた。
その共同体では事実問題としてどうであるかは別として、とにもかくにもある符牒を共有することだけが重視され、その符牒を共有しない他者とのコミュニケーション回路を閉ざし、それらの他者を排斥するという運動によって内部の結束を強めてきた。
むろん排他的な言説というのは世界にありふれていて、必ずしも私が人文知という言葉で指そうとしている領域だけが、それをしてきたわけではない。むしろ人文知の排他化は、他の排他的言説に対抗する過程で陥ってしまった隘路であって、そうならない可能性もあったし、いまでもそうでない可能性はあるのである。
ただし、問題なのはそのような閉鎖的・排他的言説を「知」という衣装/意匠で覆っていることだ。政治的言説に「知」というパッケージを被せることで、その政治性を隠蔽している。とはいえその隠蔽は不完全なものなので、私のように凡百な読者にも暴かれるのだが、もはや外部からそれが暴かれようと問題ないのである。
問題はその共同体の内部でそのような政治的言説が「知」として認識されることであって、もはや知に関心があるわけでも、外部に関心があるわけでもない。であるならば文章など書かなければいいのではと思わないこともないのだが、人の心はとかく複雑であるので、ときおりそのような倒錯的発展形態をとるのである。
しかし現実問題として、のちに確認するように「ひろゆき論」には排他的な言説を超えて、一種の差別的ともいえる言説が織り込まれ、そしてそれはかつて総合的な人文知を代表していた岩波書店の『世界』に掲載されてしまうし、そしてネット上で文章が公開されてからは、いわゆる人文知の担い手たちによって、好意的に言及されるという現状があるのである。
つまり、外部にいやおうなく影響を与えてしまうのであるし、それが「知」だと標榜されてしまえば、真に知に対して関心をもつ読者は腹立つのである。
第1回で、私は「ひろゆき論」にはある症候があらわれているといった。そして悪魔化というキーワードを挙げた。その症候というのはいま書いたような、言説領域の閉鎖と排他化によって特徴づけられ、その領域の境界確定のためにその外部の存在を悪魔化するという身振りにもっともよくあらわれる。
ここまでで「ひろゆき論」のなかにあらわれた、言説領域の閉鎖性という特徴は示せた。悪魔化の操作もすでにひろゆき氏に対する印象操作のなかにあらわれているが(付言しておくが私は著者の描写するひろゆき氏の特徴がことごとく間違っているといいたいわけではない。ただ手続きが杜撰で論述の域に達していないということをいっているのだ)、より苛烈な悪魔化は後段でひろゆき氏の支持者に対して行われる。
その箇所に至るまでには、まだしばらく文章を連ねなければならないだろう。つぎの段落に進もう。
第19段落。ひろゆき氏は(著者のいう)人文的な知のあり方に対して異議申したてを行ってる(らしい。違うと思うが。むしろ相手にされていないというのが実際だと思う)。
そして「そこでは従来のメディアや知識人などの言説が、どこか権威主義的な、それでいてさしたる根拠もないものとして提示され、それとの対比で新種のプログラミング思考が、より実証的で実効的なものとして持ち出される」。
もしこの「ひろゆき論」の著者と掲載元が「従来のメディアや知識人などの言説」にあたるのであれば、これまで確認してきたとおり、そこには「さしたる根拠もない」し(なぜならば出典元も明示されないし、論旨もブレているので)、「どこか権威主義的」である(にもかかわらず他人に対して「倫理観の欠如」「政治思想の浅はかさ」を指摘しているので)というのは真だと思う。
そのような言説に対して、ひろゆき氏が「新種のプログラミング思考が、より実証的で実効的なもの」だと言っているのであれば、まあその内実はどうあれ、実行的で実証的であるのならば、すくなくともその対立物よりはマシなのではないかと思う。
とはいえここでいわれている「プログラミング思考」も筆者の独自の定義によるもののようだし、もはや何も言えない。
しかもこれまでとは違い「新種の」という形容詞が付されているので、どうやらプログラミング思考にも世代の別があるらしいのだが、単に筆が滑って書かれた言葉のようにも見えるし、その前に「オルタナティブ」が云々と書かれているので、既存の人文知の領野をひろゆき氏が自身の思考で塗り替えようとしているのだ、というある種、陰謀論的な史観も垣間見える。
しかし、ひとの考えというのはさまざまであるし、思想というのは時代で並立する。グラムシのいうような「ヘゲモニー闘争」を、ひろゆき氏が、すくなくとも人文知に対して仕掛けているようには思えないし、ひろゆき氏はひろゆき氏でたんに別のことをやっているだけだ。
それでもひろゆき氏が行っていることがヘゲモニー闘争にみえるのであれば、それは自身の欲望を、ひろゆき氏という人物に投影しているだけであって、ヘゲモニー闘争を行っていると思っているのは、結局のところ著者なのである。
この根拠のない被害者意識が、さきにのべたような陰謀論的史観に結びついているのだと思うが、学知の担い手であるならばもう少し冷静な自己観察につとめていただきたい。世界の観察はそれからである。
第20段落。著者によれば、ひろゆき氏の「いわば斜め下から権威に切り込むようなその姿勢に反権威主義的なカッコよさを見ることが」、ひろゆき氏の支持者が彼を指示する理由のひとつになっているらしい。しかしそのほかの理由は文中で言及されていないので、筆者としてはそれがひろゆき氏の人気の理由ということらしい。
忘れていたのだが、この文章はひろゆき氏の人気の背後にある何かを探ることを目的としていた。その理由が、ひろゆき氏のカウンター性に求められているので、この段落は文章の最初の結論としてみることができる。
しかしこのカウンター性を指摘するまでに、いやにふらふらとした足取りでここまで来たのであって、むしろ、ひろゆき氏のカウンター性こそがその人気の秘密であると言い切って、さっさと次の論点に移っていた方が、文章としてはシャープになったと思うし、無駄なつっこみどころもつくらずに済んだと思うのだが、文面としてはそうなっていないのである。
このように著者の思考過程がまるっと露出しているような文章は、すくなくとも論述文としては悪文だと私は思う。まず結論を示して、その結論を証明するための最小限の、そして事実に基づいた叙述を試みるべきである。
この文章はありきたりな結論に至るまでの過程をただだらだらと読者に眺めさせ、そしてその過程には面白みもなければ、事実性の保証もないのである(出典の欠如)。
文章として芸がない。読者に考えさせようとする仕掛けがない。つまり悪文なのだ。公に流通する出版物にのる文章においては、そのような読者への配慮を忘れてはいけない。そうでなければ文章はただの独白に陥る。
そしてその独白はもはや内容では評価されず、掲載されている雑誌の権威や、著者の肩書でのみ評価されるようになる。それが権威主義というものだ。
はからずもこの文章はそのような権威主義の門をくぐってしまっているのであって、そのなかで権威主義に対立する人物として批判対象が挙げられているのだから、失笑をこらえることはできない。
この欠陥の責任は著者だけに求められるものではない。雑誌に掲載される文章はよほどの理由がないかぎり編集者のチェックを通る。そのため編集者にも責任があるし、むしろ編集者の責任は著者よりも重いのである。編集者は書き手の意志を読者に伝えるべく、ときには著者の意向とも対立しながら、文章に手をいれる。とにもかくにも読者のためだ。
この文章にはそのような配慮のあとが感じられない。ということはどういうことか。著者と編集者がそれぞれ、自身の考えを読者の考えと同一化してしまっているのではないか。
つまり、ひろゆき氏を批判すること、それが雑誌にのること、そして学者の肩書をもつ人間がそれを書いていること、その三要素の組み合わせのみで、読者は満足するのだと思っているのではないか。
そんなことはないのだ。そんなアングルだけで読者が満足してくれるのであれば、過去の多くの文人たちは苦労はしなかった。とにもかくにも内容。それを完徹した文章が名文として歴史に残ってきたのだ。そしてそれを歴史に残そうと試みることが知の営みだったのだ。
アングルだけで読ませる文章はたしかに一時は読まれる。とくに読者共同体が強固な場合はそうである。しかしそれは内輪向けの芸にすぎず、その外部の人間はまったく関心を持たない。そうすることで新しい読者が参入してくる運動を阻害して、最終的には読者共同体全体の縮小につながるのだ。
私は第1回でこの批判は著者と版元を批判することを目的としないと記した。しかし、私も書き手になろうとしている人物だ。自分の利益にかかわることに関しては、その禁止をとくことをいとわない。
この文書とその著者、そして掲載元、そしてこの文章の内容を精査せず、両手をあげて評価している業界関係者、そのひとたちは既存の読者を喜ばせるパフォーマンスにのみ専心していて、将来の読者の数を減じているのだ。
もはや後生にはいった人や、ある程度、書き手としてのもしくは業界関係者としての地位を築いた人間が、純粋に経済的関心だけでその行動をとるのはわかる。なによりも必要なのは目先の利益だ。
しかしそのような動物的行動原理に基づいた商売を行うのであれば、もはや倫理や政治思想など語れないであろうし、あまつさえ他人に「倫理観の欠如」や「政治思想の浅はかさ」などとは言えないはずだ。にもかかわず言ってしまっているところに、私は純粋に不愉快さを感じているのである。
私は第1回で「ひろゆき論」が「書き手の倫理」を逸脱していると書いた。そして今回の冒頭では、いらだちが隠しきれなくなっているとも書いた。その両者が結びつくのはこの点なのだ。
私は「ひろゆき論」の内容の不備は本質的には問題ではないと思っている。そのように不備のある文章は世にあふれているからだ。それでもそれが実在の他者を批判しており、公に流通している雑誌に掲載されているから、落ち穂拾いとして、その各段落を批判するという作業は行っている。
しかしなによりも我慢ならないのは、そのような作業を業界のほぼアウトサイダーの人間が粛々とやっていて、インサイダーの人間はのほほんとしているというその現状に対してである。
彼らは間違いなく将来の、いわゆる人文知の読者を減らしている。その影響はいまはみえない。しかしこのような状況が続けば、これから来る私のもっとも知的な生産性の高い時期に、かつて、そしていまのような読者層に向けてものを書くということができなくなるだろう。
知は読者によって伝承される。読者がいなければ知的な営みはない。にもかかわらず自身を知の担い手だと標榜してやまない人物たちが、その読者を減らそうとしている。その現状に対して、後続の書き手としての私は苛立っているのである。
今回はいささか長くなった。とはいえ予想されていたことではある。次回は第3節「ライフハックによる自己改造と社会批判」の批判を行う。
ここまで読んでいただいた方に感謝する。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?