「ひろゆき論」批判(8)
前回→https://note.com/illbouze_/n/nb16603b7da76
前回の更新からすこし時間があいた。そしてひとつ前の記事は批判とは関係のないものだったため、批判の内実に関心がある読者にはもうしわけないことをした。
すこし時間をおいたことでみえてきたこともある。
まず私がこの批判文を書きはじめたころほど「ひろゆき論」は話題にならなくなった。WEB版の公開当初はおおくの業界関係者が本稿に対する好意的な評価を送っていた。そのような風景はなくなった。
なくなった、ということはどういうことかというと、つまりはファッションだったということだ。
どの記事に対して、好意的か、批判的か、それを表明するだけで業界のなかでの自身の位置は示せる。業界のなかではどんな仕事をしたかよりも、なによりもそれが大事なのだ。
私たちは万物の霊長と分類されている。しかし所詮は猿だ。本質は変わらない。
だから高崎山でぼーっと猿を眺めているときに、私の心は安らぐ。それをみていると、どれだけ社会がロバストに構築されていようとも、本気をだせばその社会を破壊することは可能だ、ということが分かるからだ。
どれだけ強固な業界にみえても、本気を出せば壊せる。それを本当にやりたいかは別として、そう思っているとすこし安らかに日々を送ることができる。話がそれた。
そのように「ひろゆき論」がある種ファッションとして消費される流れが去ったことを好ましいかと思うと、私はそう思わない。なぜならそこで論じられたことはいまや業界人のなかで既知の知識のように扱われているからだ。
著者は「ひろゆき論」の枠組みをつかって、さまざまな話題にいっちょかみしている。別に著者だけではない。
それが堅牢な枠組みであれば、何の問題もないのだが、そうではないから私は批判文を書いている。
しかしその枠組みはもはや既知のものとして著者のあらゆる言説の前提とされている。そしてひろゆき氏を論じるさいの前提とされている。ごく狭い業界のなかだけでだが。
であるから枠組みの見直しは行われない。そんな欲望は喚起されない。だれも自分の足場を掘り崩そうとはしない。
なんどもいうがそれが無難な枠組みであったり、本当にどうでもいいものであれば、なにもいわないが、そこに差別的な志向が保存されているので、私は批判している。
「ひろゆき論」に肯定的なひとは、あらゆる議論の前提として、批判的なひとは、言及することすらばからしいものとして、この文章を扱う。だから論の批判的読解は行われない。肯定的であろうと批判的であろうとすべてがファッションだからだ。
どっちでもいいのだが、ファッションとして差別的な文章を褒めそやしたり、どうでもいいものとして看過したりするくらいならば、もう物書きみたいな面倒なことをやめて、延々と業界のなかで陰口を叩いていればいいと思う。簡単だから。
あるタイミングで業界ごと滅びればいいと思う。ひとの心やその恨みの深さというものを舐めすぎである。そんなひとが文学や思想なんていっているんだから、私の書斎ではいつも乾いた笑いが絶えない。たったひとりの笑い声だが。
なんにしても、私は文学や思想、そして言葉の可能性を信じている反時代的な人間なので、あいもかわらず批判の手を止めないのである。
§ 「ひろゆき論」第7節の批判
「ひろゆき論」の第7節は「差別的な志向と陰謀論的な思考」と題されている。
前回の更新から時間があいたので、すこし補助線をひいておこう。
著者がここであげているふたつの要素は、そのまえの著者のひろゆき氏の思想の読解のなかで指摘された、ひろゆき氏のポピュリズム的な志向の副産物として導入されている。
ちなみにそれまでの分析が妥当であったかということについては、この批判文の適当な回を斜め読みしてもらえればわかるが、そんなことはないのであって、であるから著者のこの導入は、つまりは著者の言いたいこと、著者が考えていることをひろゆき氏の人気という現象に仮託して語っているだけであって、正直真面目に読む必要はないのだが、この批判文はあえてそれを真面目に批判するというものであるから、本当に損な道を選んでしまったと思う。はじめよう。
68段落。「そこでは分断に基づく憎悪が、ある種のデジタルデバイド、それも恣意的に設定されたそれに基づく『情弱』への軽蔑として提示されるため、高齢者や障害者など、より本来的な意味での弱者が差別のターゲットとされやすい」。
「本来的な意味での弱者が差別のターゲットとされやすい」。著者はたとえば「ターゲットとしている」とは書かない。あくまで傾向の話として書く。しかしその傾向をどのようにして著者が感得したかは書かない。
この文章の意図としてふたつの読み方がある。ひとつは著者の無能さをあらわすものとして読むという方法。論証の技術がたりないためにたんに印象を示してしまったポイントとして、この部分を読むという方法。
この場合、むしろありがたい。なぜならばそのような箇所がある時点で、もはやその文章を論証的に書かれたものとして読む必要がなくなるからだ。
そこまで厳しく指導されることはないと思うが、たとえば大学の論文指導であれば、そのような文が登場した時点でその文章をリジェクトすることができる。ところでこの著者は大学で教鞭をとっているひとであった。
この見方は以前の批判のなかでも援用した「ハンロンの剃刀」的な見方である。しかし権威のある人間が、ぐずぐずな文章を書いているときには、それがうまく機能しないこともまたその文章のなかで解説しておいた。別の見方も示しておこう。
もうひとつの見方は、そのような偏見を持つひとびとの感情と結託するために、この文は書かれているという見方だ。この場合はすこし複雑だ。そして最悪でもある。
なぜ最悪なのか。その仮説を受け入れるのならば、「ひろゆき論」はそもそもなにかを論証しようとして書かれたものではなく、扇動のために書かれたものであることになるからだ。
ひろゆき氏とその支持者であれば、高齢者や障がい者を差別「していそう」だ(もしかしたら本当にしているのかもしれないが、事実問題はどうでもよくなるのだ)。
そう思う読者へのサービスとして、この文章が書かれいてるのだとしたら、じつは文章の内在的批判はなんの役にもたたない。そこでは論理と観察ではなく、欲望だけが問題になる。
ひとがひとを見下す欲望を解除することはとてもむずかしい。言葉だけでそれを行う場合にはなおさらだ。だからこの批判ははじめから負け戦だったのかもしれない。
しかし言葉の力はそのアーカイブ性に宿る。つまり現在時においてはなにも転倒できない文章も、未来においてはなにかを転倒できるかもしれない。
言葉の力を信じている人間としては、いかに負け戦であろうとも、そこで頑張らなければ意味がないし、勝った負けたは別にして、読解の補助線としては現在時においてもそれなりに役に立つと思う。だから続けよう。
ところで、そのような他者の見下しのうえに立脚した文章を書き、それを褒めそやすひとびとは、差別的ではないのだろうか。むしろそれを差別的といわずして、なにを差別的というのか。つぎに進もう。
69段落。「そもそもそうした人々は、福祉の分配先として大きな位置を占めているため、憎悪を向けられやすいうえ、とくにデジタル化を無条件に是とするようなイデオロギーの中で、『情弱』への対処として差別が正当化されてしまいがちだ」。
私もたいがいイヤミな見方で文章を読むひとだ。だからさきほどの話をひけば、この文章が「がちだ」という末尾で終わっていることに注目しなければならない。論証ではなく、感想の二連打。
ふつうならダメな文章として切ってすてればいい。しかしそれが好意的に受けいれられている以上、そこで駆動される欲望について考えなければならない。ひとつの考え方、あるいはそのように考えるやり方の一例を次の段落の読解として示しておこう。
70段落。「その結果、弱者の味方をしているつもりが、より本来的な意味での弱者いじめを堂々としている、しかもそのことに気付いていない、ということにもなりかねない」。
「その結果」から「なりかねない」。ふつうこのような文章の運び方であれば、そのまえには論証が置かれてなければならない。実証からジャンプして、著者の意見を表明するためには、そうしなければならない。
しかし筆者はそもそも論証などしていない。まえの2段落では感想しか書かれていない。にもかかわらず、著者は上記のような図式を使う。たんに続けて感想を書けばいいだけなのに、そうしないのであれば、そこには意図がある。
ひとつの読み方として、論証の図式を使うことによって、それまでの感想をあたかも事実である「かのように」示そうとしているのだという見方ができる。そして私はその読み方を個人的に採用している。
文章は説得の技術の織物だ。だから本来的には事実以前の問題として、すべてを技術として読まなければならない(ただ、疲れるので、ふだんはそんな読み方をしない)。
ここで使われているのは俗情の結託のために、あえて論証の図式を用いるというひとつの技術のあり方だ。ちなみにふつうそれは論証図式の「悪用」と評されるべきである。
71段落。「そうした鈍感さが広がっていくと」。はたしてそれ以前の文章は事実と化し、そこからの発展的考察が行われる。だが、ここまでの批判をみてもらえばわかるが、それを真面目に読む必要はない。
なぜならば、そもそも著者がこの文章を真面目に読ませるものとして書いていないからだ。
扇動のための文章を、それでも真面目に読めといわれれば、自由主義者の私としては「どんな全体主義だよ」と思わざるをえないわけだ。
「高齢者や障害者に留まらず、ホームレスや生活保護受給者など、社会の『お荷物』になっていると目される人々」。なんどとなく臆見は織り込まれる。
ここでさいどカッコが用いられることで、著者は、あたかもひろゆき氏がそう思っている「かのよう」である、という偏見を強化しようとしている。ただのアジ文じゃねぇか。
「差別が容認され、差別的な風潮が際限なく広がってしまうことになる」。この文章を読む私としては同意しかない。ひろゆき氏の分析としてではなく、この著者と著者が想定している読者層の姿から、その未来を描いた分析としてだ。
72段落。「さらにその過程で、女性や在日外国人、ひいては沖縄の人々」。「さらに」、読点で要素をつないで、「ひいては」。このリズムは著者の吹く犬笛の主旋律である。論証の図式を悪用した感想の列挙。そこに要素を付加していき、批判対象を悪魔化する。
このようなリズムに自分を侵されないためにも、文章を徹底的に技術の織物として読むという態度が必要なのだ。疲れる。けど、そうしなければ私たちは人類史においてなんどなく繰り返されてきた悲劇・あるいは愚かさのなかに自分の名前を記入することになる。
「もろもろの経緯で差別的な地位に貶められてきた人々の思いが冷笑され、踏みにじられることにもなる」。「~にもなる」。著者は「なる」とは書かない。あくまで「も」を挟む。私もよく使う。
私は、文章とは技術の織物であって、そこに編み込まれたイデオロギーに注意しなければならない、ということを言っているくらいだから、「も」も意識的に使っている。どのようなタイミングで、どのような意図でもって使用しているかは、読者諸氏に判断していただきたい。
しかし著者はそのような種明かしは行わない。自身の肩書、掲載される媒体の性質、そのような環境をフル活用して、自身の文章を論証文として演出しながら、特定のイデオロギーを読者に注入しようとする。
であるから私たちはなお細部に注意しなければいけないし、私はそのような細部をとりあげた批判を行っているのである。
ちなみに広い目線でみたときの「ひろゆき論」の論旨がぐずぐずで、特に魅力を感じないから、あえて細かいところをとりあげているという側面もあることは素直に告白しておく。
73段落。「元来、差別とは歴史的な経緯の中で作り出されてきたものであり、社会的な文脈の中に埋め込まれているものだ」。
そう差別とは文化的な事柄だ。それはひとびとが自身の欲望によって構築する。そのことは「ひろゆき論」という文章で、著者が意識してはいないところで、明らかになっている。私はそれを指摘しているだけだ。
「歴史性や文脈性を重んじようとする人文知は、その克服のために一定の役割を果たしてきた」。そして人文知もまたひとつの技術であるので、逆のこともできるのだ、ということはこれまでの批判文で十分に示せたと思う。
74段落。「そうした知が軽んじられる一方で、情報武装のための知ばかりが追い求められていく」。
私もいかにも正しそうなことをのたまう知が振りかざす暴力や差別から自身を防衛するためにこそ、歴史や思想や文学を学んできたので、そのことを「のたまう知」の側の人間が認識しているということをこの一文から知って、一時安心するとともに、恐怖もするのだ。
「自らを高めるために他者を貶めるというゲームが蔓延し、差別的な風潮に歯止めがかからなくなってしまうだろう」。なんとも自己紹介的な文章であって、私はこの文に感謝しか覚えない。「感謝しか覚えない」というのはもちろん嘘だ。
75段落。これまでが節名でいうところ「差別的な志向」の部分にあたるとすると、これ以降で「陰謀論的な思考」という部分が扱われることになることが、示されている。
76段落。「かつて2ちゃんねるがスタートした当初、その利用者の資質についてひろゆきは、『噓は噓であると見抜ける人でないと難しい』と語っていた。そこには『情報強者』の条件が端的に示されていたと言えるだろうが、しかしこの条件を完全に満たすことのできる者など、実際には存在しないだろう」。
まさに引用の最低限の要件すら満たせていない著者の文章をたどったさきに、こう書かれていると、本当に「噓は噓であると見抜」くことはむずかしいと思う。
適当な引用のことを「嘘」とまでいうかは読者によって判断がわかれるところだと思うが、風説によって抑圧されてきたひとびとのことを歴史や文学から学んできた私のような人間としては、それを「嘘」よりも下劣な行為だと考えざるをえない。
77段落。「ところが彼の支持者はそうした存在になろうと努め、何事にも騙されないよう、何でもかんでも疑ってかかるようになる」。
大事なことだと思う。この志向はどのような条件づけをしても(たとえば著者のいうようにそれが現実的には難しいとしても)、否定してはならないことだと私は考える。
疑うことで知は進化したし、知が進化することでひとは救われてきた。だからどれだけ自明のことと思えても、可能なかぎりで自分でそれを反証するようにつとめなければならない。
たしかに疲れる。現実的ではない。しかしそれが蹉跌しても、ひとはそのことを笑うべきではない。「ほら、いわんこっちゃない」ともいうべきではない。
「その結果、ニヒリスティックな価値相対主義の考え方に基づき、何事も信じないという態度を共有する集団ができあがってしまった」。
「できあがってしまった」ことは論証されるべきことだ。著者の文章は論証にあたらない。これを論証するのは難しい。しかしその行為に価値はある。論証されているのであれば両手をあげて私もこの文章を称賛する。しかしその努力の一端もみえないから、私はこの文章を批判している。
78段落。「しかし実際には彼らは、何事も信じないという考え方を疑いもせず信じ込んでいる集団にすぎない」。著者は「彼ら」という。それは誰か。これまでの文章を読めば、著者がここで「ひろゆき氏の支持者」という茫漠たる対象について語っていることはわかる。
ではその集団の概念的な定立にあたって、著者はどのような論証を行ったか。見落としていたらすまないのだが、私には見つけられなかった。
卑下するのもいいかげんやめようか。そんな文章は書かれていなかったし、著者に論証の意図も感じられない。俗情との結託への意志を感じるだけだ。
想定読者と馴れ合うのはべつに否定しない。しかしその馴れ合いのなかで、おそらく具体的な対応物を思いうかべて著者は書いているであろう「彼ら」に対して、「何事も信じないという考え方を疑いもせず信じ込んでいる集団」などという侮蔑的形容を付加することについては、たんに悪だとしかいいようがない。ちなみこの字は「わる」じゃなくて「あく」と読む。
「つまり価値相対主義の立場を絶対化している集団であり、したがって本質的には『信じにくい』集団ではなく、むしろ『信じやすい』集団だということになる」。
「ひろゆき論」を肯定的にとりあげる業界関係者をみて、そのひとたちを「信じやすい集団だな~」と思っていたことをここに告白しておく。
79段落。「そうした集団にあっては、疑うことと信じることとの間に独特の偏りが生じる。他者から示された情報はことごとく疑いながら、一方で自らが見出した情報は盲目的に信じ込んでしまうという偏りだ」。
自身の文章とそれをとりまく環境をよく要約した文章だと思う。その観点からすれば名文だ。
80段落。「その結果、彼らは自らに都合よく情報を加工し、ときに捏造しながら、自らが見たいように世界を見るようになる。そこからもたらされたのが、恣意的にねじ曲げられた解釈に基づく陰謀論的な言説の数々だ」。
自身の文章とそれをとりまく環境をよく要約した文章だと思う。その観点からすれば名文だ。「ときに捏造しながら」などの部分はこれだけ批判を重ねてきた人間としては、涙なしで読むことはできない。ちなみに「涙なしで」という部分は完全な嘘である。
81段落。「2ちゃんねると同様にやはり彼が管理人を務めていたアメリカの匿名掲示板サイト『4chan』は、危険極まりない陰謀論的な思考の温床となり、数々の過激思想や暴力犯罪を生み出したことで知られている」。だからどうした。
いみじくも「ひろゆき論」などという題をかかげているのであれば、4chanの運営において、ひろゆき氏がある意味ではなにもしていなかった、むしろなにもしていなかったからこそ「Qアノン」という存在が台頭してしまった、ということを考えるべきであって、とりあえず「4chan→Qアノン→陰謀論→やばい→ひろゆき批判」などという雑な図式で文章を書くべきではない。
おっと。わかるひとにはわかると思うが、この文章ではない文章も、いま私は批判している。
「彼の支持者の態度はそうした場にまで広がっていったのだろう」。また「だろう」である。もうそろそろ言い切ったらいいのではないか。どうせ論証をするつもりもないのだし。
「だろう」という言葉は、透徹した論証の営みのなかで、それでもそこからはみでてしまう直観を記すためにこそ使われるべき言葉なのであって、カジュアルに使われると困るのだ。誰がといわれれば、俺が、としか応えようがない。
82段落。「そうした思考を完全に抑止することは難しいだろう」。なるほど。ふつうなら「そうした考えを変えさせる」と書くだろう。それが啓蒙だ。
しかし著者は無意識に「思考を抑止」と書く。この文のまえには「支持者の態度」とあるので、ひろゆき氏の支持者に対して、そう書いているのだ、としか読めない。もし違うなら、それは著者の文章が下手なだけなので、俺にいわず、著者に直接いってほしい。
つまりなにがいいたいかというと、著者はひろゆき氏の「支持者」を、啓蒙の対象としては見ていないということだ。つまり考える能力がないひとびとだと思っている。
そうでなければ「思考を抑止」とは書かない。「考えを変える」と書く。変更可能性を期待していないから、そう書くのであって、つまりその対象を思考不能な存在と認識しているということだ。ところでそのような見方を差別的といわずしてなんというのか。
啓蒙は他者に対する信頼からはじまる。私は他者を信頼するから文章を書く。
以前の連載でも書いたとおり、啓蒙は上意下達の営みではない。より水平的な。届かないかもしれないという可能性に怯えながらも、自身の思考の強度を誰かに届けようと、文章を練り、それを世界に送り出し、それが読まれるようにあらゆる営業活動を行うという営みだ。
であるから、ことここにいたって、私は「ひろゆき論」そしてその著者、そしてそれを好意的に取り上げる人間たちのことを、非啓蒙的、そして差別的だと断ずることに、いささかの躊躇もなくなったわけだ。そんな人間たちの語る「知」にどれほどの価値があるのか?
そいつらの食い扶持を十年とか二十年とかっていう範囲で賄うための営みが(ちなみに私もビジネスパーソンではあるので食い扶持を稼ぐのは大事だと思う。方法によるが)、彼らのいう「知」なんだとしたら、そんなものはすくなくとも私はいらない。
俺は俺で勝手に人類の知的活動の歴史を背負って、それを百年や千年先にも伝えるべく、毎日頑張るだけだ。
はたからみれば狂人のふるまいであろうが、それこそが人文知の営みである、ということを私は信じてやまない。
業界受けのいい文章を書いて、業界のひとたちが嫌いなものをくさし、そして雑誌に登場したり、新聞に登場したり、リツイートを稼ぐことは、あたりまえだが人文知とはなにも関係がない。
だからそんな連中にかかずりあう必要はたしかに私はないのだが、営業妨害という行為の枠組みがこの世界にはあり、まじめに人文知というものを考え、それを未来に生き残らせようと必死こいている私としては、彼らがやっていることは私の事業に対する営業妨害にみえるし、そのような行為をとりしまることのできる法律は存在しないので、いかに無駄にみえようとも、そのときどきに個別に批判していくしかないのだ。
「そのための一定の歯止めとなるのは、やはり人文知であり、物事の背景を歴史性や文脈性から慎重に考証しようとする態度だろう」。
だから私は批判をするし、こう書いていながら、それと反対のことを行う著者やそのまわりの人間こそが、私が物書きとして生きていくなかでの真の敵なのだ、という思いを捨てないままでこれから先も生きていこうと思うのである。
83段落。「だとすれば、そうした知が疎んじられ、ネットでの手軽な情報の扱いだけから物事の意味が量られるようになると、陰謀論的な風潮にやはり歯止めがかからなくなってしまうだろう」。
本文からの引用のようにみせかけながら本の表紙や帯文の言葉をひく著者の文章を逐一確認してきた私としては、この言葉からそれまでの文脈をすべて消し去った、たんに文字通りのメッセージとしては、激しく首肯せざるをえない。しかし文章というのにはいやおうなく文脈というものが絡みつく。
「手軽な情報の扱いだけから物事の意味が量られ」、陰謀論が生まれる過程は、「ひろゆき論」の一文一文の連なりからよく感じさせてもらった。
84段落。「このように彼のやり方は、ともすれば差別的な志向と陰謀論的な思考に拍車をかけることで、ポピュリズムの危険性を増幅させかねないものだ。差別的なヘイトスピーチと陰謀論的なフェイクニュースに溢れ返っている今日のネット環境を、それはさらに悪いものにしてしまいかねないだろう」。
本当に、ただでさえ悪い世界を、より悪くしてしまうひとというのはいるのだな、と思う。誰に対して思っているのかということについては、もはや書く必要はないだろう。
第7節の批判は以上だ。「ひろゆき論」は残すところ「おわりに」と題された最後の節だけとなる。
そしてお気づきの方もいるだろうが、最後の節は短い。600字強しかない。だからこの回で最後までやってもいいのでは、と思うひともいるだろう。
しかし最後の節の批判は次回に送ろう。
むろんすぐに終わるだろう。しかし「ひろゆき論」の批判が、最後の段落までの逐語批判で完結するなどと、私はいちども書いたことがない(もしかしたら書いたかもしれない。もしそうなら申し訳ない)。
これは全的批判だと私は書いていた。全的批判というのは対象文章の批判だけでは終わらない。カール・マルクスの著作のなかで「批判」という言葉が題名に含まれた書物を一冊でも読んでみてもらえれば、それは分かると思う。
では、私は「ひろゆき論」を読み終わったあと、なにを批判するのか。次回の更新をお待ちいただきたい。
ここまで読んでいただいた方に感謝する。
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