「ひろゆき論」批判(5)

前回→https://note.com/illbouze_/n/n5a71770cf93d

 先週土曜日、2023年3月18日に株式会社ゲンロンが主催するゲンロン総会2023に参加し、五反田のTOCビルで開催されたコミュニティマーケットに出展した。

 そこで私が編集人をつとめた雑誌『BRIDGES vol.0』を頒布した。A5版で304頁、そして3000円という、なかなかに強気な商品ではあったのだが、結果、手売りだけで101冊を売り上げることができ、購入していただいた皆様には感謝しかない。

 コミュニティマーケットに出展が決まってから、さまざまなところで購入の意志を伝えてくれるひとはいたのだが、実際の現場ではふらっとやってきて、雑誌を手にとって購入してくれるひとが多く、そのひとたちにあらためて雑誌のコンセプトを紹介して、サインをするときに読者の方の名前を遊び紙に書きつけているときには、これからさきこの人たちに私の雑誌、そして文章は読まれることになるのだ、と気の引き締まる思いであった。

 なによりも意外だったのは、雑誌を購入してくれる方に、私のこの文章を読んでくれているひとが存外多かったことだ。10人ほどはいただろうか。

 無駄に長いこの文章を読んで、そして私の雑誌を購入してくれる人がいるというのには、物書きとしてはよくない態度なのだろうが、純粋な驚きがあった。さらに感想まで伝えてくれるひとがいた。感動しかない。

 なのでこの文章を書く私もあらためて気を引き締めなければならない。

 とはいえ、この文章を読んでくれたひとは分かるだろうが、この文章で行っている作業、そして私が読んでいる「ひろゆき論」というのは、読めば読むほど、そして書けば書くほど、脱力というか、目の前が真っ暗になるというか、ただただ気分が落ち込んでいくことだけは確かなのであって、気を引き締めたところで、文章のトーンは依然変わらないのかもしれない。

 ところで、前回の冒頭に「ひろゆき論」の著者による記事が毎日新聞に載ったという話を引いたのだが、それこそ私がコミュニティマーケットに出展していた3月18日に、朝日新聞でも「ひろゆき論」が好意的にとりあげられていたようで、しかもその著者が、なんというか、そのひとが書き手になっていく過程をつぶさにみてきた人でもあったので、あいもかわらず、なんだかなあと感じる日々は続いていくのである。

 前回は毎日新聞デジタルに登録して、記事を読んだりしたのだが、そもそも私はこの文章を書くにさいして、お金をもらっているわけではない。

 そのわりには、ほとんどのひろゆき氏の著作を購入したり(しかしこのような文章を書くのであれば、あたりまえのことだとは思う)、もしかして書籍版とKindle版とで内容に異同があるのかもしれない(あるわけがないのだが)と不安になり、再度Kindle版を購入したりしていて、まあつまるところ今月使えるお金もそろそろ限界といったところではあるので、この記事を読むことはしない。

 ただ批判文の端々で、「ひろゆき論」が方々で好意的にとりあげられているということを書いていたのだが、それはおおむねTwitterなどのネット上での話であった。

 しかし、それが新聞の領域でも好意的に取りあげられているということをみて、コミュニティマーケットでクリアになった私の視界には、ふたたびモヤがかかってきているのである。本文に移ろう。

§ 続・「ひろゆき論」第4節の批判

 前回は「ひろゆき論」の第4節「『ダメな人』のための『優しいネオリベ』」の途中までを読んだ。40段落までだ。

 あまりにも批判することが多すぎて、予定していた紙幅を大きく超過したために、途中で作業を打ち切ったのだ。ちなみにいつも私が予定している分量というのは、前置きを除いて1万2千字だ。だからどうというわけではない。批判に移ろう。

 41段落。前回の批判文では、あらためてこの論の著者の自由自在な引用のスタイルに苦しめられたのだが、ここでもまたその自由自在さはいかんなく発揮されている。

 そして前回の文章で批判したとおり、その自由自在な引用でなされたひろゆき氏の主張の要約に続く文章ではあるので、そもそもまともに読む必要はないのだが、この批判文はそういうものなのだ。

 まず「昨今の若者は『いい大学を出たり、いい企業に入ったりして、働くのが当たり前』だという『成功パターン』から外れると、『もう社会の落伍者になってしまうから死ぬしかない』などと思い込みがちだが」という前段。

 これは、ひろゆき氏が2022年にプレジデント社からだした『ひろゆき流 ずるい問題解決の技術』の第7章にある「レールから外れた生き方」という節の冒頭から、ほとんどの言葉が引かれている。

 そして著者の引用にしては珍しく、ひろゆき氏が書いていることとほとんど意味が変わらず引かれているのだが、それもそのはずで、言葉の出てくる順番もほとんど同じだし、文章の幅もあまり変わらないので、むしろひろゆき氏の言葉を一文まるまる引いたほうが良かったのでは、と思うだけなのである。いちおう引いておこう。

 いまの日本にあるロールモデルって、「いい大学を出たり、いい起業に入ったりして、働くのが当たり前でしょ」といった成功パターンばかりなんですよね。だから、いまいる会社についていけないとなると、「もう社会の落語者になってしまうから死ぬしかない」という考えに至ったりします。――『ひろゆき流 ずるい問題解決の技術』第7章「令和ニッポンの社会問題 僕ならこうして解決する」「レールから外れた生き方」

 著者が付け足しているのは「昨今の若者は」という限定のみなのだが、それはひろゆき氏が言っていることではない。そしてひろゆき氏は、若者について語っているのではなく、いまだに日本社会に根付いているロールモデルの意識について語っているので、その付け足しは不正確だと思う。

 たとえば、ここでひろゆき氏が書いている話は、2000年代の終わり頃の就職氷河期にあたった世代に対しても言えるわけであって、そのひとたちはもう30代後半から40代になっているので、「最近の若者」とは言わないだろう。むろん「若者」の定義もさまざまなのだろうが。

 つづく文書をみてみよう。「しかしこうした『ダメな人』は『太古からずっといた』のだから、気に病む必要はない。むしろ『ダメをダメとして直視した』うえで、『チャンスを摑む人』になるべきだと彼は言う」。最初のふたつの言葉は前回の引用箇所と重なる。しかし後ろのふたつの言葉はまた別のところから引かれている。確認しよう。

 まず「ダメをダメとして直視した」。

 僕の小学校の頃を思い出すと、学校の先生から怒られずに帰ってきた記憶がない。
 友達にいたずらしたり、授業とはまったく別のことをしていた。
 たぶん、ADHD(注意欠陥・多動性障害)だったのだろう。
 注意されても自分が納得できないと反抗して、なにかと先生と揉めていた。
 つまらない授業のときはマンガを読んでいたし、それを注意されても「役に立たないからマンガを読んでるほうがマシです」と答えていた。
 ダメにもわけがある。
 ダメなものから目をそらすより、ダメをダメとして直視したほうがいい。
――『1%の努力』第1章「団地の働かない大人たち――「前提条件」の話」「弱者の論理」

 前回、とにもかくにもそこを批判したのだが、筆者はとにかく引用にさいして、もとの文脈を無視し、あるいは意識的に洗い流して、ひろゆき氏の言葉を著作から引いている。

 それはギラギラに目を輝かせて「聴取」という字面のかっこよさだけに引かれて、ひたすら武満徹の文章をレポートに引用していた、大学一年生の頃の私の身振りによく似ている。ここであらためてハンロンのカミソリを持ち出すべきなのだろうか。

 ちゃんとよんでみよう。ひろゆき氏の「ダメをダメとして直視したほうがいい」という言葉は、その前の文章である「ダメにもわけがある」と関係している。

 著者はこの言葉を引く前に「気に病む必要はない」と自分の言葉で記して、ひろゆき氏の「ダメをダメとして直視」するという言葉を、ある種の居直りのような意味として引いているのだが、実際ひろゆき氏がいっている「直視」というのは、その「わけ」を考えることを指しているのであって、居直りではない。

 そもそもの話がこの文章が収められた章は「前提条件」をあらためて考えようというものであって、そのことは章名でも暗示されている。

 そのため私はこれまで「ひろゆき論」の著者の章名・節名からの自由自在な引用の素振りをみていて、もしかするとこの人は章名・節名読みの名手かもしれない、と回らない頭でたまに思ったりもしていたのだが、いいかげんその仮評価も遠くの方へ投げ捨てようと思う。

 つぎに「チャンスを掴む人」だが、この言葉はさきほど引いたひろゆき氏の言葉が置かれた節の、すぐ次の節の冒頭にあるので、あえて引用することはしない。

 しかしこのあとの文章で著者が「アフィリエイトビジネスから株式投資に至るまで」云々といいはじめるが、ひろゆき氏が「チャンスを掴む人」ということで言っているのは、そのような具体的な話ではないというのは、もはやこの批判文を読んでくれているひとにはなんとなく察しがついているかもしれないが、やはりその通りで、ひろゆき氏はこの節でチャンスを掴むために、頑張って暇な時間を確保しよう、ということしか言っていない。

 ところで、こちらもまた恒例になってきたが、41段落の末尾には「文献6、2」とそっと書かれていて、なんどもなんども言わせてもらうが、出典はきちんと明示するべきだ。

 だいたいのはなし、「あーこの言葉はひろゆきさんのあの本に載ってるな」と思って、はたして載っている、などというのは、はたからみると訳の分からない衝動に駆られて、ひろゆき氏の著作を紙版と電子版で都合3度ほど読んでいる人間だからできるのであって、いくら関心があるとはいえ、雑誌の読者もおんなじだろうといわんばかりの、引用ショートカットを行っている著者の姿勢はあいもかわらず怠惰なのだ。

 編集者だってこんな指示では確認がとれないだろう。そしてぶっちゃけていうと確認していないだろう。どこかで指摘したが引用ミスがあるのだから。

 確認をしていない。それはそれで問題があるということは、言っておく。ただ私は職業編集者でもなければ、業界の人間でもないので、これを読んだ業界関係者の方が編集の方にそっと教えてあげればいいと思う。

 42段落。引用の確認というのは、とにもかくにもつまらない(しかしそれがクリティカルになるのだから、この文章は恐ろしいのだが)作業であるため、できれば一記事で一段落に対して、というので収めておきたい。そのためここでは細かく確認はしない。

 前半の文章。「というのもこれまでの日本では、『ダメな人』は『横並び』の体制についていくことができなかったが、しかし昨今では、『会社で働けないタイプの人』でも『一人で稼ぎ』『一人で利益を受け取る』ことが可能になったため、プログラマーやクリエイターとして成功することができる」。

「横並び」という言葉は、前回の連載でも元の文章を引いたが、「ダメな人」という言葉とはまったく関係のないところで引かれていた。日本の社会構造を指すために使われていた言葉であって、ひろゆき氏はダメな人が横並びの体制についていけなかった、ということは言っておらず、この部分は著者の創作というか、著者の主張だと思う。

「一人で稼ぎ」「一人で利益を受け取る」というのは、たしか3回目の連載でとりあげた部分だが、引用ミスであって、「一人」の部分は両方とも原文では「ひとり」が正しい。であるから、一度引用したところをコピペで持ってきたことが予測されるが、引用するさいは何度目でもそしてどれだけ短い文章でも、一度原文を確認するべきである。それがダブル、そしてトリプルチェックとなる。

 これもまた物書き、とくにひとの文章を引用するタイプの物書きにおいては、あたりまえのことなのだが、どうやらこの著者に対して「あたりまえ」は通用しない(そのわりに著者は「ふつう~」や「通常の考え方では~」という言葉を多用する)ようなので、若輩者ではあるが、何度となく言わせてもらう。

 そして「一人で稼ぎ」「一人で利益を受け取る」ことが可能になると「プログラマーやクリエイターとして成功することができる」というのもわりと意味不明であり、そうでないときもその職業で成功するひとたちはいたし、むしろ「一人で利益を受け取る」ことが可能になることで、成功できるのがプログラマーやクリエイターだけとも限らず、むしろあらゆる人が潜在的にはあらゆる時代に成功する可能性はあったわけだから、もう少し文章を練らないと、ここで躓く読者も多いだろう。これは文章作成と論理の問題だ。

 つづく文章。「実際に彼自身も『コミュ障』だったが、『プログラミングという武器がある』ことでうまくいったという」。

 さきほど論理の問題を指摘した文章をみると、むしろここが最初にあって、前の文章を書いたのではないかと思う。つまり、ひろゆき氏がプログラミングという武器をもったことでうまくいった、という事例が著者にとっては重要なのだ。重要なのはいいが、それが文章全体に波及してはいけない。

 人間のアイデアは時間的に整列されていない。そして文章を書くというのは、その無時間的なアイデアを、時間の秩序に置き換えることだ。だから説得の技術や論理が重要になる。

 かっこいい文章を書くことは(普通に考えるとこの著者のこの文はかっこよくはないが、しかしそこにあわせて文章が変になっているところをみると著者はそう思っているかもしれないし、何も考えていないのかもしれない)、じつは誰にでもできる。そこまで読者を辿り着かせるのが難しいのだ。

 どうもこの著者はアイデア先行で書きすぎる。ふつうに読むとその独断的な論の運びにはついていけない。自身の意見を世に問いたいのであれば、最初に思いついたかっこいい文章を消してしまうくらいに、文章と、そのひとつひとつの流れを調整するべきであって、まして岩波の『世界』の編集者にみてもらえるのだから、最高の環境が整っているはずだ。

 ふつう物書きになろうとしている人間にはなかなか手にはいらない環境なのであるから、それを最大限有効活用してほしい。

 ところで、前回の文章でとりあげた問題がここでもまたあらわれている。ひろゆき氏が自分のことをそう言っているかのように「コミュ障」という言葉を、著者は引いているのだが、事実問題はどうでもよく、読者への配慮をもった記述を行うべきである。

 その言葉もまた蔑称であり、そのままの形で使っていい言葉ではない。では引用符を用いればいいかというと、そうではない。

 他の人の著作の言葉は、その他の人がそれを使うために文脈を調整したりという努力のうえであらわれているものなので、それを自分の文章に引くときには、その文章を読む人に向けた配慮はあらためて施さなければならない。

 そして前回確認したとおり、「ひろゆき論」の著者は、そのような文脈の抹消をあえて行うことで、ひろゆき氏に対する批判を行っているので、このことに関しては言っても仕方がないかな、とも思う。

 著者はやりたいからそれをやっているのだろう。まあ、お金をもらって岩波『世界』でやるべきことではないと思うが。口喧嘩や言いがかりの類を文章で行いたいのであれば、あえて雑誌に書くことはないだろう。

 そしてこの段落の最後にも、そっと「文献1、6、8、3」という言葉が添えられている。ところで出典情報というのはそっと添えればいいものではなく、はっきりと明示されるべきものである。

 43段落。「だからこそ彼はそうした人々に、プログラミング思考によるライフハックを勧めるのだろう」。

 これまでみてきたとおり、「そうした人々」という限定を行っているのは、著者だけなのであるから、「だろう」と記したからといって、なにかひろゆき氏がそう言っているように書くのはいただけない。

 いや、書いてもいいのだが、もっと緻密に議論を構成したうえで書くべきである。ここまでの「ひろゆき論」の記述がその基準に達しているかというと、私ははっきりと達していないと断言することができるのであって、つまり書くのはいただけないなどとぼかすのではなく、書くべきでないといっておく。

 ちなみに私もこの批判文で「~だろう」という末尾を多用しているが、それは直截に書きすぎると感情を逆撫ですることになるだろうし、そして皮肉の意味も込めてあえてぼかしておくほうがいいだろうと思って、そうしているのであって、そのほとんどは「だ」や「である」に置き換えられるのだ。

 とはいえ、私は逆撫でのうちでもかなり苛烈な逆撫でにはあっているので、そろそろ「だろう」の使用をやめてもいいの「かもしれない」。

 ところでひさしぶりに(いや「ひろゆき論」のなかではそれほど離れてはいないのだが、この文章を読んでいる人にとっては割に久しぶりだろうと思うのでこう書いた)「ライフハック」という言葉が出てくる。

 しかしその言葉もひろゆき氏が使っているわけではなく、たんに著者が書きたいから書いた言葉であることは何回か前の連載で書いたし、いつのまにかひろゆき氏がそのライフハックを勧めていることになっている、この文章に出会った私は乾いた笑いを漏らすことになるのである。

 文章の後半部をみよう。「マスクやベゾズの名を挙げてはいるものの、彼にとってのその本質は、むしろ『自分の人生は自分で守る時代』の『弱者の生存方法』なのだろう」。

 さきほども、べつにプログラマーやクリエイターに限った話じゃないだろう、ということを書いたが、「その本質」というのは、その前の「プログラミング思考によるライフハック」にかかっているので、やはりこの著者にはプログラミングやプログラマーに対するなにか特別な思いがあるらしい。

 特別な思いがあるらしい、としか読めないのであって、その文章の文字通りの意味に首肯することなど、いまの私にできようはずもないのだ。そしてたぶんこれから先も「ひろゆき論」を真面目に読む人間には、誰にもできないことだと思う。

 44段落。誰かの文章を真面目に読むと、そのひとの思考の癖というのがあるときわかるようになる。前回の記事で私はこの著者が「ひろゆき論」で多用している「ふつう」や「通常」という言葉に対して警告を行ったが、この段落のはじめにくる「そうした見方からすると」に含まれる「そうした」というのも、この著者の癖のひとつのようだ。

「そうした」という言葉を使い、この著者は論理と思考をジャンプさせて、それまでの文章の繋がりからは言えないことを、なんとなく言ってしまっている。

 文章を書くことは、そのような曖昧な連想の繋がり、あるいは自身の色眼鏡というものを解除していく営みでもあるのだが、どうやら「ひろゆき論」を書いたときの著者は、そのような自制が求められる状態にはなかったらしい。

 コンディションが悪いときというのは、誰にでもある。それを修正してくれるのが、たとえば編集者だったりするのだが、いやもはやなにもいうまい。

 全体をみよう。「そうした見方からすると、デジタル化によって駆動される今日のネオリベラリズムは、決して過酷なだけのものではなく、とくに『ダメな人』にとってはむしろ優しいもの、その『生きづらさ』を減じてくれるものということになる」。

 ことここにいたって「ダメな人」という言葉は、もはや著者の言葉、それも著者がたんに「ダメな人」と言っているという状況になってくるのだが、強い言葉なのでみだりに使うべきではない。

 そしてネオリベラリズムがダメな人に優しいものになったりしているが、何度も書いたとおり、このネオリベラリズムも、著者のいうネオリベラリズムなのであって、いよいよ著者の考えていることが、そのまま書かれているという次元に私たちは足を踏み入れようとしているのだが、もう著者が率直にひろゆき氏の読者層のようなものを「ダメな人」だと言い始めているのだから、その次元というのは恐怖の次元である。

 だからそこに続く「たとえ『子ども部屋おじさん』や『ニート』だろうと、ちょっとした副業のノウハウさえつかめば、それなりに稼ぐことができ、社会参加が可能になるからだ」という文章の「たとえ『子ども部屋おじさん』や『ニート』だろうと」のなかの「たとえ~だろうと」という部分も、もう著者が言っているのであって、ただの差別じゃん、とか、人の心がないんか、とか私は思うのだ。

 そこに「社会参加が可能になるからだ」と続くので、著者のいうダメな人(まあ私もその範囲に入るだろうが)は、社会参加してはいけないのかな、とか思ったりもするのである。

 そして「社会参加してはいけない」とは書いてないと、誰かがいうだろうが、それは思っててもふつう書かないだろう。とはいえ、文章の位置が表示する意味というものがあって、ということはたしか最初の記事に書いたはずだが、その観点からするとどうもこの著者は著者のいう「ダメな人」の社会参加をこころよくは思っていないということは分かるのであって、読者としての私はそう思うのである。

 44段落。「たとえばさまざまなクラウドソーシング業務のほか、アフィリエイトビジネスから株式投資に至るまで、やり方はいくらでもある。うまくいけばそこから起業したり、デイトレーダーとして一攫千金をねらったりすることも可能だろう」と急に居酒屋での雑談なみにぼんやりとした列挙が始まるのだが、ここで挙げられているそれぞれを生業として生活している人が知り合いにいる私から言わせてもらうと、そのひとたちはそのひとたちで、これまた想像を絶する日々を送っており、日々業務努力を行っているので、こんなにぼんやりと列挙されるのには忸怩たる思いがある。

 つづく文章。「そうした可能性に目を向けることで「チャンスを摑む人」になるよう勧めることが、ある種の逆転の発想として、彼の提言の眼目となっていると言えるだろう」。何に対する「逆転の発想」かもはたしてわからないし、これまでのちゃんぽんな引用とそれに基づく記述をみてきた人間からすると、それがひろゆき氏の提言だとはもはや思えないのである。

 45段落。「こうした彼の見方は、今日のネオリベラリズムを捉え直し、『ダメな人』のために再定義しようとするものだと見ることもできるだろう。それは『弱肉強食の論理』を推し進めるものでありながら、一方で「弱者の論理」を活かすものでもあるという見方だ」。

 というわけで、著者のいう「ダメな人」が、ひろゆき氏によって再定義されようとしており、そしてひろゆき氏はネオリベラリズムを捉えなおそうともしているようなのだ。

「捉えなおす」?「再定義」ではないのか?「こうした彼の見方」と書かれているが、こちらもまた「そうした」問題と同じで、たんに著者がそう考えそう書いていることで、考えるための材料も十分に提供されていないので、まあ、そうですか、としかいいようがない。

 そして「弱者の論理」というのは、冒頭で引いたひろゆき氏の著作の節名からの引用であって、あいかわらず引用のスタイルが自由自在だと感じるのである。

 46段落。もはや著者の文章を引きたくない。これからもということではないが、すくなくとも今回はもういいかなと思っている。

 その文章の最後に「いわば『優しいネオリベ』という考え方に、慰めや励ましを感じ取っているのではないだろうか」とあり、この「優しいネオリベ」というのは、著者も新聞の記事で再度使っているので、お気に入りの言葉らしい。

 しかし要はこのお気に入りの言葉を登場させるための、これまでの議論だったのではとも思えなくはないわけで、それにしては、いやに千鳥足の議論だったなとも思うのである。

 ようやく「ひろゆき論」の第4節が読み終わった。続いて第5節を読まなければならない。しかし今回はキリがいいので、ここまでにしよう。

 ここまで読んでいただいた方に感謝する。

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