「ひろゆき論」批判(3)

前回→https://note.com/illbouze_/n/ncc9e9caa03f1

§ 中休み

 私はいったいなにをしているのか。この批判文を書いていて、そう思わないときがないといえば嘘になる。私は無名だ。みんなが知る大学を出ているわけではない。

 誇れる学位ももっていない。東京の片隅で、ときには燃えるゴミへと変貌しそうな瀬戸際で、日々の生活を送っているただのしがないサラリーマンだ。

 そんな人間でも読書をするし、考えるし、物を書く。そして自分で雑誌を出版してそれを世に問おうとすることがある。

 なによりも文章にもとづく知的な営みの成果でもって、自身も知の世界に参入したのだから、恩返しをしたいという気持ちがあるのだ。

 そんなことを本気で思いはじめたのは今年の1月であって、なんだかんだいって短い制作期間ではあるが、これまでの自身の知的な蓄積をフルに活用して、それなりの厚さの雑誌を作ることができた。所詮同人誌だが、それでも大きな一歩だと思っている。

 そこで文章を書いているときにはじめて読者のことを考えた。文章を書いているときだけはない。他のひとが書いた原稿に編集の手をいれているときも、知り合いの顔を思い浮かべながら、そのひとがこの文章で納得してくれるか、ここで躓かないか、そんなことを考えながら編集と推敲を行った。

 むろんすべての人間が水を飲むように理解できるという文章は存在しない。問題は最大公約数を探すことだ。そして文章を書くこと、編集をすることには、締切といういやおうもない時間的な限界がつきまとう。

 だから「人事を尽くして天命を待つ」という状態にまで至れたかというと、そうは思えないのであって、そのような葛藤のなかで、ぎりぎりと奥歯を噛み締めながらも文章を公に問うことが、つまりは書き手になることなのだと実感した。

「書き手の倫理」という言葉は大鉈だ。みだりに振り回すものじゃない。それにまだ私は「書き手」だと世間に認識されているわけではない。むしろ誰にもそうとは思われてはいないというのが実状だと思う。

 しかし私は自分のことを「書き手」だと思う。人前でそのように見栄をはり、そして裏ではその言葉を現実のものにするべくして、夜なべをすることでしか、人が書き手になることはありえないと思うからだ。

 そんな「書き手」として、私が批判している「ひろゆき論」は到底看過しえないものだった。もし数年後に幸運にも私が書き手として世間で認められることがあるとして、そのときに私の最初の仕事が2023年の1月にはじまったということが認識され、そして私がこの文章に対してなにも言わなかったのだと思われることは我慢がならない。

 だから私は批判を続けるし、それをしているときに途方にくれようとも、なんだかんだ前には進むのである。

 前置きが長くなったが、今回は「ひろゆき論」の第3節を批判する。

§ 「ひろゆき論」第3節の批判

「ひろゆき論」の第3節は「ライフハックによる自己改造と社会批判」と題されている。直前の段落では、ひろゆき氏の既存の権威に対するカウンター的な側面が、その人気の理由ではないかという著者の見解が明かされていた。

 その見解に至るまでの論述の緩さについては前回書いたので繰り返さない。そういうものだと思って、読み進めよう。

 21節。ひろゆき氏の思考が「ライフハック」に特有のものだといわれる。プラグマティックな言説はなべて「ライフハック」的だということができると、私は思うがとにかく読み進めよう。

 はじめに「ライフハック」とはなにかが解説される。いわく「ITを使いこなすためのちょっとしたコツやテクニックを日常生活に応用し、仕事や日々の暮らしを効率よく営もうとする考え方で、2000年代半ば以降、IT業界を中心に広まってきたものだ」そうである。

 この部分には初読のときに素直な感心を覚えた。つまり「ライフハック」というものについての研究があるとは思いもしなかったからだ。気になったのでしらべてみた。

 国立情報学研究所が運営する論文データベースである「Cinii」で「ライフハック」という単語を調べてみると、いわゆるハウツー本を除けば、山田陽子氏が2019年に青土社から出版している『働く人のための感情資本論――パワハラ・メンタルヘルス・ライフハックの社会学』という本があることがわかった。しかも電子書籍が出版されている。つまりはすぐに読めるということだ。

 その本の第6章が「時は金なり、感情も金なり――ライフハックの現場から」とあるので、その章を読む。その第1節に「ライフハックは、元来、シリコンバーレのIT業界から生み出され、インターネットを通じて世界のいたるところに伝搬している」とあるので、ライフハックがITの世界から生まれたものだという認識はある学知の世界では共通認識らしい。

 とはいえ、そこで先行研究が引かれているわけではないので、どこかでまとめられてはいないかと思って、その先の文章を読む。すると著者が2006年に出版された原尻淳一と小山龍介による『LifeHacks 楽しく効率よく仕事する技術』という『別冊 宝島』から記述を引いていることが分かるため、そちらに詳しく書かれているのかもしれないが、こちらは電子書籍版がなく、古本の注文となったので今回は確認することができなかった。

 それでぼやんと調べていたら、2004年に技術出版で知られるオライリーが開催した会議におけるダニー・オブライエン氏の発表にこの言葉の起源があることがわかった。講演そのものの記録は見つけられなかったが、Wayback Machineを使うと講演の紹介文を読むことができた。興味のある方は下のリンクから飛んでいただきたい。

https://web.archive.org/web/20050104033946/http://conferences.oreillynet.com/cs/et2004/view/e_sess/4802

 オブライエンが、エンジニアたちが効率的に仕事をこなすためのテクニックを「ライフハック」と読んでいて、さまざまなエンジニアにインタビューを行い、そのような技術を紹介する、というのが発表の趣旨だったようだ。

 だからふつうに考えると「ライフハック」というより「ワークハック」という方が適しているのだろうが、私も含めて、ある種のエンジニアはライフとワークを混同しているので、いたしかたない。

 とはいえこの発表のタイトルがネット上で人気になったことで、現在はさまざまな生活知を名指すためにも使わるようになったようだ。

 さてなぜここまでくだくだと「ライフハック」のことを調べていたかというと、まずいま批判している節にその言葉が含まれているからだし、くわえて著者がひろゆき氏がライフハック的な発想を持っていることに対して批判的に言及していたからだし、正直な話いまではライフハックという言葉の起源がIT業界にあることなどとは関係なしに、便利ワザのような意味でこの言葉は使われているわけで、そこに起源は「IT業界」云々という記述がなされると疑問符を浮かべざるをえないからだ。

 そもそも著者は第2節で、ひろゆき氏の「プログラミングというスキルを持つ実業家」であるという性質から生まれた思考の癖を批判していた。しかしそこにつづく「プログラミング的思考」という言葉も、とくに定義もなく使われていて、ぼやんとしていたわけで、ここでまたライフハック的な発想が、それはIT業界に起源があって云々といわれると、プログラムやIT業界になにかの恨みがあるのかとでも邪推したくなる。

 というような疑問を呈した読者に対して、著者の伊藤昌亮氏はTwitter上で、自身の経歴としてIT業界に関わったことがあり、人文知と情報知をつなぐことが学究のテーマだったと、反論しているのだが(2023年3月13日 00:20の投稿)、その疑問を呈した人が書いているとおり、経歴の話をしているのではなく、著者の雑な認識に対する批判をしているのだ。IT業界にいてもIT技術に対して雑な認識をしている人間というのはごまんといる。

 つづく文章というか、この節は全体的にそうなのだが、そのような雑なIT業界、あるいはそこで働く人の性質に対する認識のもとに論述が進んでいく。

 であるので、純粋にこの文章を読みたい人間は、ここらで読むのを中断したほうがよい。とはいえ、私は全的な批判を行うために、この先も読まなければならない。

 22段落。ライフハック的発想からは「さまざまな『仕事術』や『生活術』が考案されるが、そのためのコツやテクニックは『裏ワザ』『ショートカット』などと呼ばれることが多い」。

 仕事術も生活術もライフハック的発想以外からも生まれるし、裏ワザというのもそこからしか生まれないわけではない。

 ショートカットというのは、たしかにエンジニアしかいわないかもしれない。ここでIT業界に起源をもつライフハック的発想から生まれるものとして、著者があげているもののなかでは、ショートカットという言葉ぐらいにしかIT業界的な色を感じない。

 それを抜いてしまえば、それぞれ別の発想から生まれたともいえるわけであって、むしろ「ショートカット的思考」とそれが呼ばれているのであれば、辻褄もあうのだが、そうでなくライフハックという言葉をだして、そこからさまざまな要素を演繹的に叙述するのであれば、なぜその言葉を選んだのかという選択の政治性が問題となる。

 複数の方法で説明可能な事象を、あえてひとつの筋をもって解説するというのは恣意的な言説運用だ。その選択が妥当であることを文章で証明しなければ、著者がそう考えたいからそう考えたのだと理解するしかなくなり、論述文としては破綻する。

「ひろゆき論」の著者はそのような説明のさいに利用する、ひとつひとつの言葉の選択の政治性ついての認識がゆるい。だから論旨がブレる。これは文章技術の問題であり、読者を説得する技術の問題だ。だからTwitter上で寄せられたような反論を受ける。そしてその反論は「ひろゆき論」の文章を読む限りでは妥当な反論である。

 その反論に対して著者は自身の経歴をもちだすのであるが、ふつうは文章でこのように書いてあると、書かれたものをベースにして話をするべきだ。いきなり自身の出自を開陳しても仕方がない。そのように軽挙な反応を示してしまうことが、つまりは著者がこの問題を真剣に考えていないことの証左だと、読者に思われても仕方がないのではないか。

 文章からそれた。この批判はあくまで文章のレベルで「ひろゆき論」を批判することを目的としている。そのためまた文章の読解にもどらなくてはならない。

 23段落。ひろゆき氏の著書から「ずるい」「抜け道」「ラクしてうまくいく」という言葉が引かれている。しかしどの本かはわからない。「文献6、3」としか書かれていないからだ。

 前回「抜け道」という言葉が、ひろゆき氏の著作『ずるい問題解決の技術(文献6)』のなかのキーワードであることは論じた。そして「ひろゆき論」の著者が本のなかには登場しない「人生の抜け道」という言葉を、引用していることも確認した。

 ところでここでは『ずるい問題解決の技術』のなかに実際登場している「抜け道」という言葉が引かれている。多数の箇所に登場するため具体的にどこから引いたかはわからないが。しかし著者はその本には登場しないはずの「人生の抜け道」という言葉もこの本から引いている。

 私は著者と私が参照している『ずるい問題解決の技術』の技術は、書名を共有しながらも中身が異なるものなのだと思っていたが、どうやら同じものではあるらしい。

 であるならば「人生の抜け道」という言葉はどこから来たのかということが、あらためて気になったので確認してみたらなんと表紙に書いてあった。灯台下暗し。いい加減にしてほしい。

 そして「ずるい」については、『ラクしてうまくいく生き方 自分を最優先にしながらちゃんと結果を出す100のコツ(文献3)』には一度も書かれていないので、『ずるい問題解決の技術』からの言葉であることになる。

 書名にも含まれているからあたりまえではあるが、本文にも多数の箇所でこの言葉は登場する。であるから、この言葉を著者がどこから引いたのかははたして明らかではない。

 最後に「ラクしてうまくいく」については、「ラクしてうまくいく生き方」という言葉が同名書の中には登場しないことを指摘したが、「ラクしてうまくいく」まででも本文のなかには登場していない。書名からとられたのだろう。カッコは万能の記号ではない。いい加減にしてほしい。この話はここまでにしよう。

 つづく文章で衝撃の展開が訪れるのだが、上に引いたようなひろゆき氏の言葉は(引用の仕方が雑なので、もはやひろゆき氏の言葉とも言えないと思うが)「その不真面目な印象のゆえに物議をかもすことも多いが、しかしこの点もやはり単なる逆張りではなく、ましてや彼の倫理観の欠如を示すものでもな」いようで、「ライフハックの流儀に沿ったものと見ることができる」そうである。

 いやしかし「倫理観の欠如」についてはどこからともなくやってきた言葉として使っていたにしても、「逆張り」に関しては著者が積極的に使っていたではないか。

 こういう展開になるならば、逆張りが云々と書かれたときに即座に、この結論を書くべきであって、読者をそこまで振り回す必要は全くない。

 文章でなにがキーワードとなり、そのキーワードをどこに配置して、そして自分の結論へと読者を導くのかという地図を書いてから、文章は書きはじめたほうがいい。

 実際に地図を書かなくとも、文章を推敲すれば無駄な部分は削げる。自身の思考過程をたんにひとに読ませたいのか、それとも思考の結果を読者に提示して考えてほしいのかは考えるべきだ。

 そして前者の場合は論述文にする必要はない。それは論述文ではないからだ。それこそTwitterに書けばいい。誰も止めないし、文句は言わない。

 まあいずれにしてもそういう見方ができるらしい。次に進もう。

 24段落。「ただし彼のライフハックは、一般のそれとはずいぶん異なるものだ」なるほど。「一般のそれが日常生活の細々とした営みを改良しようとするものであるのに対して、彼のそれは、生き方や考え方の根幹を改造しようとするものであり、社会全体の成り立ちを批判しようとするものでもある」。

 であるならば、ひろゆき氏がやっていることは、そもそもライフハックではないのではないか。前者がライフハックで、後者は違うものなのではないか。という純粋な疑問はわくし、その疑問を制する記述もここにはない。むしろ後者は一般に「社会運動」と呼ばれるものではないか。

 とはいえ「つまり自己改造と社会批判という二つのラディカルな論点を、ライフハックという軽妙な手法で同時に扱おうとするものだ」ということなので、この文章ありきで書かれた前段としか思えない。

 よい文章を思いつくのはよいし、それを書くのもよい。誰もとめない。しかしそこにいたる論述に不備があれば、批判はされる。それだけのことである。

 25段落。しかし著者はこのよくわからない土台に乗っかり、次のようにいうのである。「これら二つの論点をうまく噛み合わせることで、彼のライフハックはその支持者に独特の効果をもたらすことになる」。

 このあたりから「ひろゆき論」の論旨はぼやけてくる。そしてただぼやけてくればよかったのが、謎の攻撃性が発揮されはじめる。文書の冒頭には、その目的はひろゆき氏の人気の背後にある何かを明らかにすることだとされていた。

 第1回で人気の背後にあるのは、ふつう支持者なのではという疑問を呈したが、著者もそのとおり考えたようで、ここからひろゆき氏の支持者の特性分析がはじまる。あまりに手前勝手な分析なのだが。

 26段落。段落全体を引用する。

「まず自己改造という点では、あたかもアプリケーションを効率化するかのごとく、ちょっとしたコツやテクニックで生き方や考え方を改善することが可能だという印象、いわば人生のショートカットキーがどこかに存在するという錯覚が与えられる」

 言葉の使い方の問題だが、エンジニアとしては「アプリケーション」のなにを「効率化」するのかは気になる。「アプリケーションの動作を効率化」するといえば、性能改善のことであるし、「アプリケーションの使用を効率化する」といえば、もはやアプリケーションの問題ではなく、その使い方の問題になる。

 そのあとにショートカットキーが云々という話が出てくるので、後者だとは思うのだが、アプリケーション「を」効率化する、ではわからない。文章技術の問題。

「ちょっとしたコツやテクニックで生き方や考え方を改善することが可能」。それはそうだろう。ほんのちょっとしたことで生き方や考え方が変わることはある。日常的な話だ。

 そしてそれは「人生のショートカットキーがどこかに存在するという錯覚」とは異なる。実際にちょっとしたことで生き方や考え方が変わることはあるからだ。

 あまりにおかしな文章であるため、そのおかしさを指摘する文章もおかしくなる。勘弁してほしい。

 そして「錯覚が与えられる」と書かれているが、それは誰にだろうか。文章の流れから考えれば、ひろゆき氏の支持者に対してであろう。しかしなぜ著者はそういえるのか。実際に支持者からそのような話を聞いたのか。とくにそのようなことは書かれていない。

 であるならば、印象だけでそれをいっているのであろうか。間違いなくいえるのは理論的にそれを言っているわけではないということだ。そのような文章は存在しない。文面だけをみるとたんに著者がそう思っているだけにしかみえない。

 しかし著者が、ひろゆき氏の支持者というときにどのような人間を思い浮かべているかは知らないが、ひろゆき氏を指示しているという人は実際に存在するのだ。それも筆者が考えているように十把一絡げにまとめられる群衆のような存在としてではなく、具体的な個人としてこの世界に存在している(第1回に反応を頂いた読者はまさにそのような一個人であった)。

 著者は「人生のショートカットキーがどこかに存在するという錯覚が与えられる」と書く。しかし誰も「人生のショートカットキーがどこかに存在する」などとは思わない。そう願っても、それが存在しないことは知っている。

 それでも、著者が、いやそういう人はいるんだ、それがひろゆき氏の支持者なんだと言うのであれば(この文章はほとんどそういうことを書いていると思うが)、それはひとを馬鹿にしすぎている。

 自分が批判したい対象の支持者であるからという理由で、顔も知らない他人をそこまで馬鹿にしていいものではない。公に流通する文章であるならばなおさらだ。

 敬意がないとか、礼儀を知らないというレベルではない。もはや他者への攻撃である。だからどうしてほしいと私がいうことはない。大人であれば自分で考えてほしい。この段落にとどまるのは精神衛生上よくないので、先にすすもう。

 27段落。自己改造に続いて社会批判の問題がとりあげられる。

「一方で社会批判という点では、高度にデジタル化されたIT業界から捉えられた社会像が、いつまでもアナログ体質なままの日本社会の現実と対比されるため、その古さや非効率性が強調され、いわば日本は「オワコン」だという断定が与えられる」

 よしんばそうだとして、筆者がどの部分を批判したいのかがわからない。「オワコン」ということがまずいのだろうか(そういえばここにも出典が記されていない。強調のためのカッコだろうか)。それとも断定することがまずいのだろうか。

 個人が個人の判断でそう断定することを、なぜ著者は批判できるのか。批判はしていないというのだろうか。ならばなぜ書くのだろうか。それこそ、このような不確実な断定を。なんどもいうが補足文が必要なのだ。文章技術の問題。

 28段落。「(日本の未来は暗いけど)あなたの未来は明るい」という言葉に「文献5」という参照指示が示されている。文献5は2021年にきずな出版から出されたひろゆき氏の著書『誰も教えてくれない 日本の不都合な現実』を指している。もはや当然といった感があるが、この言葉もまた本文のなかには登場しない。帯文である。

 帯文の言葉をひいて「という診断がもたらされることになる」と著者は書くのだが、一体誰がその診断を下していると考えているのだろうか。帯文はふつう著者が書くものではない。編集者や他の人が文を寄せる場所だ。ひろゆき氏がこの帯文を書いたという確証でもあるのだろうか。

 そして「そのため彼の支持者は、『日本はいつまでも変われないが、自分はいつでも変われる』という思い込みを抱くようになる」と書くのだが、ふたついいたいことがある。

 ひとつ。さきにも述べたとおり、ひとを馬鹿にしすぎである。現実に存在するひろゆき氏の著書を買ったひと、もしくは支持者だと自認している人を馬鹿にしている。なぜ顔も知らない他人のことについて、ここまで断定できるのだろうか。わからない。

 ふたつ。「日本はいつまでも変われないが、自分はいつでも変われる」と思うことはいけないことなのだろうか。私もそう考えているし、ひろゆき氏の支持者にかかわらず多くのひとがそう考えていると思うのだが。

 では著者はどう考えているのか。「日本は変われるが、自分は変われない」と思っているのか。

 そのふたつは等価ではない。後者は身勝手だ。前者はすくなくとも自分を変えようとしている。後者は自分は変わることなく、日本が変わることを期待している。それを身勝手と呼ばずして、なんというのか。

 あるいは批判しているわけではない、といわれるかもしれない。ただ分析しているだけだと。それにしても、ひとつめの問題は回避できず、あいかわらず見ず知らずの他人を馬鹿にしていることは変わりないのである。つまりどちらにしても文章としてはダメなのだ。

 29段落。「そうした思い込みは、もろもろの不満や不安を抱える者にとってはどこか心地よいものだろう」。もうこう書かれている以上、上に引いた言葉が批判でないと抗弁するのは難しいだろうが、ひろゆき氏の支持者はおおむね不満や不安を抱える者だと思っているという、これまた筆者の断定があらわれていて、それはそれで面白い。そうでない人の方が珍しいのではないかと思うが。

「一方では「オワコン」の日本を「ディスる」ことで、社会への憤懣を安直に晴らすことができ、他方では自己改造の可能性を信じることで、自己への承認を安直に満たすことができるからだ」

 ことここにいたって、そうではないだろうか、という推測ではなく、ひろゆき氏の支持者はそうなのだ、という断定がもたらされることになる。

 しかしなぜそのような断定が可能なのか、逐一文章を追ってきた私には理解できないのであって、分かるひとがいれば教えてほしい。

 私は見知らぬ他人の属性をこのように断定する著者の手つきをみて不愉快に感じるし、そこにあらわれた排他性には吐き気を催すのである。

 30段落。この段落でも著者による断定は続く。

「つまり自分がこれまでうまくいかなかったのは、このどうしようもない社会のせいだが、しかし便利なショートカットキーが見つかったので、これからはうまくいくだろうというわけだ」

 いつのまにか、ひろゆき氏の支持者は「これまでうまくいかなかった」ことにされている。そして相も変わらず、ショートカットキーが云々と他人をこけにしたことを書いているのだ。

 31段落。「こうした安直な思い込みが広く受け入れられてしまうのは」ともはや受容されたことが、既成事実化されている。ひろゆき氏が人気であることと、それが著者がこれまで書いてきたような理由によるかは、即座には結びつかない。

 即座にというか、あまりにも変なことを書いているので、今後一切結びつくことはないだろう。著者はひろゆき氏の支持者を悪魔化している。そしてその存在を徹底的に頭の悪い存在だと考えることで、論述を進めている。

 しかし、なんど書いても足りないと思うが、ひろゆき氏を支持しているひと、そしてその著書の読者は多様だ。あれだけ売れているのだから。そこにはいろいろな人がいる。いろいろな理由でひろゆき氏の支持者になり、ひろゆき氏の本を読んでいる人がいる。

「ひろゆき論」の著者は、そのような多数性、現実の条件に徹底的に目をつむり筆を進めている。文面からは意識してそうしているのか、あるいは無意識にそうなのかをうかがうことはできない。しかしどちらにせよダメなことはダメなのである。見ず知らずの他人をここまで口汚く罵ってはいけないのだ。

 それは知にかかわる人間がいちばんやってはいけないことなのだ。だから私は批判している。

 私もたいがいこの文章についていろいろといっている。そのなかには人格批判と受け取らかねない表現もあるだろう。私はあくまで文書とその内容を批判しているつもりではあるが、私の意志とは関係がなく、そのように表現が機能する可能性はある。

 しかしもしそうだとしたら、私の文章に関しては、私に直接批判をぶつければ訂正することができる。もし、私の読解に致命的な誤りがあり、私が納得した場合は、文章を訂正するし、謝罪するし、それでも納得がいかない場合はこの文章を取り下げることも可能だ。

 しかし著者がここでやっていることには、そのような訂正可能性がないのである。もし、ひろゆき氏の支持者だと自身を認識しているひとが、ここで書かれていることは違うといってきたときに、著者はどうするのだろうか。

 私はあなたについて書いたわけではないとでもいうのだろうか。しかしこの文章は誰にも書かれていないと同時に、誰にでも書かれているのだ。そのような奇妙な状況になっているのは、ひとえに著者が批判対象の限定をおろそかにしているからだ。

 ひろゆき氏の支持者といわれるひとのなかには、私はここまで馬鹿じゃないと憤るひともいれば、ここで書かれたことに傷つく人間もいるだろう。

 しかしこの文章はそのような人が反論するためのとっかかりを消している。だからこの文章は邪悪なのだ。だから批判しているのだ。

 前回、「ひろゆき論」にはいわゆる人文知の閉鎖化と排他化の症候があらわれていると書いた。そしてその状態が読者の数を減らしてしまうと書いた。なぜ読者の数が減るのか。

 それはそのように閉鎖的・排他的になった領域から放たれる言葉が、その領域外の人間を傷つけるからだ。

 この文章で批判対象とされているひろゆき氏の支持者のなかにも、なにかのきっかけでいわゆる人文知の読者になるひとがいたかもしれない。

 ひとはちょっとしたことで生き方や考え方を変え、それまで読んでいたものとは別のものを読み、それまで考えていたこととは別のことを考えるようになる。そのような可能性が人間にはある。

 しかしその可能性を忘れ、見ず知らずのひとを無脳の群れのように罵っていては、そのような可能性は極限まで低くなる。

「ひろゆき論」という文章はそのことを知らないひとたちによって世に出されたと思う(もし意識的にやっているのだとすれば、もうなにもいえないし、いいたくもない)。

 しかしそう機能するのだ。書かれたものというのは、書き手や媒体のもとをはなれ、読者のもとでその効果を発揮する。

 そのような効果とそれがもたらす危険性について無自覚な人間は、物書きや出版の世界からは即刻去るべきだ。

 初読時に、この攻撃性を感じて、私はこの文章の批判文を書きはじめたのだが、やはりその箇所に出会うと、動揺を隠すことが難しくなる。文章はフラットになるように心がけている。しかし私も人間であるから、怒りのあまり筆がブレるということはある。

 次回は第4節を批判する。次回はよりフラットに文章を書けるよう心がけたい。

 ところで「WEB世界」に掲載された「ひろゆき論」には、この節のおわりにとある写真が掲載されている。そのまま載せるのは心苦しいので、あくまで言葉で描写させてもらう。

 そこにはひろゆき氏の著書が乱雑につまれている。表紙がぜんぶ見えている本もあれば、ある本の下に表紙が隠れてしまっている本もある。

 この写真は『世界』掲載時には、文章の冒頭に置かれていた。私も雑誌で文章を呼んだときにはあまり気にならなかったのだが、いまのように批判的な関心を抱いてからなら、この写真の問題をはっきりと指摘できる。

 このようにとある著者の本を乱雑にならべて写真として掲載することは、インターネットブログなどにおいてはありふれている。つまり「全部読みました感」の演出だ。

 私は批判文を書いていて、そもそも著者はひろゆき氏の著作を全部どころか、一冊たりともまともに読んだことはないのではないかという疑問を抱いているが、そこは問題ではない。

 問題なのは本の扱いだ。そこに写った本、それぞれ別の出版社の人間がそこに関わって作ったものである。一冊の本にどれだけ多くの人間が関わっているかは、本を何冊も出している著者、そして岩波書店の編集者であれば知っていることだろう。

 にもかかわらず、ここにはその本を乱雑に積みあげた写真が載っている。批判対象の本であればそのように扱っていいのだろうか。いいのかもしれない。しかしそのようなことをすれば良識を疑われる。

 だから普通はしないのである。その普通はしないことを、雑誌掲載版のみならず、WEB掲載版においても繰り返しているところに、私はただただ恐怖を覚えるのである。

 ここまで読んでいただいた方に感謝する。

次回→https://note.com/illbouze_/n/n5a71770cf93d

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