〈書評〉シュルレアリスム宣言
「感想」
刊行100周年とどっかのネット記事で見かけて、積読していた本書を手に取る。
ライフワークとしてシュルレアリスムに関して調べていて、いつかは読まなければ、が今に至る。
訳者解説にもあるが、シュルレアリスム宣言自体は、もともと溶ける魚の序文としてあった。
溶ける魚の執筆(編纂)後に、宣言として立ち変わった。
訳者曰く、シュルレアリスムは、「非理性主義あるいは非合理主義ではない。むしろ偏狭な「絶対的合理主義」にうちかとうとする「運動」なのだ。」とある。
既知を用いて、未知を創造する。
未知と既知、既知にまた別の既知を足し未知、
既知未知に満ち満ちた諧謔性がシュルレアリスムであるということを、ブルトンは溶ける魚において読者に"実感"させる。
現実に非現実をぶち込むことで、イマージュとしてのユートピアをテキストによって共有地、公共地としてダイブさせる。
自動記述とは、連想ゲーム的諧謔とポエジーを無軌道に書き殴る行為で、溶ける魚を読めば一目瞭然ではあるが、他ジャンルで言えば、ヴィム・ベンダースの映画「ベルリン・天使の歌」がイメージしやすい。
また本書によって、シュルレアリスムという概念が露見し、その概念が今日まで在るのは、ブルトンの他にボードレール、ユゴー、マラルメ、ランボー、ポーなどシュルレアリスム派を志向した者達の活躍によってである。
日本においては戦後詩人に多く影響がみられる。
西脇順三郎、吉岡実、飯島耕一、etc...
シュルレアリスムの詩においての活用は、西脇順三郎著「詩論」に詳しい。(ちなみに過去、詩論はこのアカウントで取り上げている。参照されたし)
ブルトンは言う。
「不可思議はつねに美しい、どのような不可思議も美しい、それどころか不可思議のほかに美しいものはない。」
「いとしい想像力よ、私がおまえのなかでなによりも愛しているのは、おまえが容赦しないということなのだ」
......想像する。
人間のみが長けたその能力をして、
未知にダイブする行為こそが、
もっとも人間らしい行為なのかもしれない。
想像して欲しい。
溶ける魚にはどのような文章群が踊り流れているか。
シュルレアリスム宣言にはどのような金言がひしめいているか。
ブルトンは何を書くのか。
何を思うのか。
何を食べていたのか。
どんなステップで踊っていたのか。
シュルレアリスムとは何か。
また100年後にも本書は残っているのだろうか。
......そんなことを。
以下、ブルトンの溶ける魚に影響された習作を添えて終わりにします。
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忽ちエンドルフィンの股擦れに、きりたんぽを練り上げる機械のイジチュールとなって、十五時の来栖が金冠を持ってやってくる約束をすっぽかしてまでやるのは、書き上げること。
ハイエンドの餌として、また、フィンランドにおける添削法を模索して、月光を浴び続けたニッケルとして、アブダクションを果たしたウエストサイドの脛齧りに、キツいジャコウ猫を晒し続けるように、冷水における水素、電気における巨木のように、やがて進んでいく、ズンと、ゴーゴリと、ヘルベチカで、段々と敷衍して工業デザインとしてのメルヘンと共に。
やがて、オレンジの皮のような橋を渡り、めくれ続ける鏡の後ろ側のような通行人を挨拶で到達し、抜ける。
フラクタルの原始的解釈は、鴉の稼業であるピッチコンディションだが、川の流れに突如隆起したコブラと笛の関係を代入して、鈴木が胸を撫で下ろした時、そばにいたのは電子芝の茎だった。
茎の先を想像すると、惨たらしい朝食に出されるパン屑とオマール海老のエクリチュール、白樺のソテー、もやしの水煮をリーマン空間に還元したもの、アプリオリは既に彼方の多元空間に引っ込み、思案としてのブルーと、ミモザに添えた清一色によって干渉されていく。誰に?十六世紀のうつけものとしての為政者と、扉の向こうにいる托鉢の断面図の薬アンド飴による号外に。
スワンプマンはまた、乱婚を元にした組織形成に意を唱えるか。唱えないとしたらそれはブラックの絵画によるものか、フリーハグによる新興宗教の堕胎か。いずれにせよ、頑なに迎え入れ続ける病者の逆ホームシックによって転換点を迎えたブータンとコンゴ共和国の間の国々は、それぞれに徒花を五人ずつ入店させる。そして攻撃に転じる段となった時、急にチェニジアの雨によって解散させられた。新聞記事には今日も何気ないコントラストの中に美醜を入り混ぜ、分剃りしている。
明日は天気はどうだ。多分ヤンバルクイナのち鉄。ところにより形而上学的細石。地面としての仮、に着く。
#岩波文庫
刊行 : 1924年
矢野書房にて
¥300