
『けものフレンズ』(2017)とアドラー心理学
「嫌われる勇気」「幸せになる勇気」を読破しました。読み進めていくと、不思議なことに、人生のあらゆることに活力が湧いてくる感覚がありました。
しかし、この感覚は未知の体験ではありませんでした。過去にも経験したものです。そう、『けものフレンズ』(2017)を視聴した時の、あの感覚です。
もしかしたら、けものフレンズはアドラーの理論を語っているのかもしれない。アドラー心理学(というかこの2冊の内容)を踏まえて、けものフレンズを語ってみましょう。
なお便宜上、ここでは「嫌われる勇気」「幸せになる勇気」における哲人、著者、アドラーを同一視します。三者の意見には多少の食い違いがある可能性がありますが、「アドラー曰く」と言った時には、それは「哲人曰く」「著者曰く」を表すものとします。
かばんの「優越性の追求」
1話において、かばんは劣等感に苛まされます。
彼女は、サーバルと共に歩くこともままならず、セルリアンに襲われても何もできません。そのため劣等感を抱き、以下のような言葉を口にします。
すごいですねサーバルさん! ぼくには、そんな力…普通に案内してもらうだけで、こんな感じだし…。
なぜなら、彼女もまた優越性の追求を抱えて生きているからです。
ここでは簡単に「向上したいと願うこと」「理想の状態を追求すること」と考えていただければいいでしょう。たとえば、よちよち歩きの子どもが二本足で立つようになる。言葉を覚え、周囲の人々と自由に意思の疎通ができるようになる。われわれは皆、無力な状態から脱したい、もっと向上したいという普遍的な欲求を持っています。人類史全体における、科学の進歩にしても「優越性の追求」でしょう。
劣等感それ自体は悪いことではありません。しかし、彼女は危うく劣等コンプレックスに陥ってしまいそうになります。
ぼくって、相当ダメな動物だったんですね。
かばんちゃんが、「自分は元々相当ダメな動物だったから何もできないのだ」という因果論に帰着させようとしていることに注目してください。
劣等コンプレックスとは、自らの劣等感をある種の言い訳に使いはじめた状態のこと を指します。具体的には「わたしは学歴が低いから、成功できない」と考える。あるいは「わたしは器量が悪いから、結婚できない」と考える。このように日常生活のなかで「Aであるから、Bできない」という論理を振りかざすのは、もはや劣等感の範疇に収まりません。劣等コンプレックスです。
サーバルはかばんちゃんを勇気づけますが、その際、元の動物が何であるかや過去については全く言及しません。サーバルは、因果論的な見方を否定しているのです。
ゆっくりな動き…あなたもしかして、ナマケモノのフレンズとか?
と言った時に、サーバルは「ナマケモノのフレンズ」であることを、現在のかばんが持つ価値の良し悪しに結びつけてはいないことに注意する必要があります。
我々を苦しめるのは客観的な「劣等性」ではなく主観的な「劣等感」に過ぎない
のです。
カバの忠告とかばんちゃんの「自立」
カバの忠告からは、アドラー的な考え方を踏まえるとより深い意味を読み取れます。
かばんに対し、カバは
ジャパリパークの掟は、自分の力で生きること。 自分の身は、自分で守るんですのよ。
と呼びかけます。この言葉は、正にアドラーの言う「自立」を促すものです。
カントの言葉を紹介しましょう。彼は自立について、こんなふうに語っています。「人間が未成年の状態にあるのは、理性が欠けているのではない。他者の指示を仰がないと自分の理性を使う決意も勇気も持てないからなのだ。つまり人間は自らの責任において未成年の状態にとどまっていることになる」。
さらに彼はこう断言します。「自分の理性を使う勇気を持て」 と。
(ここで使われている「理性」とは、知性から感性までを含めた「能力」全般を指すことに注意。)
では、他者の自立を促すにはどうすればよいのか。アドラーによれば、相手を尊敬し、交友の関係を築くのだと言います。
まず、尊敬とは何か。これは以下の引用に示すとおりです。
尊敬とはなにか? こんな言葉を紹介しましょう。「尊敬とは、人間の姿をありのままに見て、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである」。アドラーと同じ時代に、ナチスの迫害を逃れてドイツからアメリカに渡った社会心理学者、エーリッヒ・フロムの言葉です。
この世界にたったひとりしかいない、かけがえのない「その人」を、ありのままに見るのです。さらにフロムは、こう付け加えます。「尊敬とは、その人が、その人らしく成長発展していけるよう、気づかうことである」 と。
サーバルの他者貢献
では、交友の関係とは何か。それは、信頼によって成り立つ関係です。
信頼とは何か。それは、
他者を信じるにあたって、いっさいの条件をつけないことです。たとえ信じるに足るだけの根拠がなかろうと、信じる。担保のことなど考えず、無条件に信じる。それが「信頼」です。その人の持つ「条件」ではなく、「その人自身」を信じている。
これはまさにサーバルがかばんに対して実践していたことです。
考えてみると、今のところかばんはサーバルに対して何も提供できていません。サーバルにも、かばんは「何もできない」存在として映っていたはずです。
この時点では、かばんの賢さはまだ明かされていないことに注意してください。もし仮に、サーバルはかばんの賢さに魅かれ、「この人と共に旅をすれば安心だから」という理由で付き合っていたならば、それは信頼に基づく交友の関係ではなく、信用に基づく仕事の関係だったと言えるでしょう。
信頼に基づいて、サーバルはかばんのためのガイドを買って出ました。
何故それができたか、何故そうしたのかといえば、それはサーバルにとっての他者貢献だからです。
あなたがどんな刹那を送っていようと、たとえあなたを嫌う人がいようと、 「他者に貢献するのだ」という導きの星さえ見失わなければ、迷うことはないし、なにをしてもいい。
そして他者貢献は、さらなる自己受容や他者信頼へ繋がっていきます。
ありのままの自分を受け入れる——つまり「自己受容」する——からこそ、裏切りを怖れることなく「他者信頼」することができる。そして他者に無条件の信頼を寄せて、人々は自分の仲間だと思えているからこそ、「他者貢献」することができる。さらには他者に貢献するからこそ、「わたしは誰かの役に立っている」と実感し、ありのままの自分を受け入れることができる。「自己受容」することができる。
サーバルは、十分に自己受容と他者信頼ができていたからこそ、そして更なる自己受容と他者信頼を求めたからこそ、かばんに対する他者貢献を実践できたのです。
かばんの「自己受容」
一方で、かばんは「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」のいずれについても、物語の開始時点では会得していません。
サーバルやカバの教育は、かばんを自立へ向かわせることができたのか。その結果が明らかになるのが、ゲートにいるセルリアンとの戦闘です。
かばんは紙飛行機を作り、セルリアンの注意を逸らせる作戦を取ります。考えてみると、かばんが自己受容を達成していなければ、この作戦は成立しなかったでしょう。
もし自己受容ができていなかったら、以下のような結果に辿り着くはずです。
かばんは劣等コンプレックスに溺れ、状況に対して何も手出しできない。サーバルが何とかしてくれるのを待つのみ。
かばんは優越コンプレックスに溺れ、自身の乏しい身体能力に過剰な自信を持ち、サーバルと並んで戦闘に参加する。
優越コンプレックスとは、あたかも自分が優れているかのように振る舞い、偽りの優越感に浸る こと。
いずれの場合も、結果は敗北に終わります。かばんは、自身のありのままを受け止め、自分に何ができなくて何ができるのかを考えたからこそ、最善の方法を取ることができたのです。
先のカントの言葉を思い出せば、かばんはこの時、未成年であることを止め、自立するための第一歩を踏み出したのだ、と言えます。
かばんにとって、これまでサーバルは生存のために必要な仕事の関係に過ぎなかったかもしれません。しかし、これからは交友の関係です。
ガイドとゲストから友達同士へ。「縦の関係」から「横の関係」へのシフトを象徴的に表すのが、じゃんぐるちほー入口でのあのやり取りだというわけです。
「共同体感覚」を掘り起こす旅
その後のかばん達の旅は、全て彼女に内在する共同体感覚を掘り起こすためのものだったと言えます。
もしも他者が仲間だとしたら、仲間に囲まれて生きているとしたら、われわれはそこに自らの「居場所」を見出すことができるでしょう。さらには、仲間たち——つまり共同体——のために貢献しようと思えるようになるでしょう。このように、 他者を仲間だと見なし、そこに「自分の居場所がある」と感じられることを、共同体感覚といいます 。
共同体感覚を得るには、先に述べた「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」を持つことが必要になります。
かばんが解決してきた問題の多くは、必ずしも目的地への旅を妨げるものではありませんでした。単に図書館へたどり着く、ヒトの縄張りへたどり着くだけならば、カフェの集客問題、家の建設を邪魔した申し訳無さ、アイドルの解散危機なんて無視してしまえば良かったのです。
しかし、アドラーが
旅という行為の目的はなんでしょう? たとえばあなたがエジプトに旅をする。このときあなたは、なるべく効率的に、なるべく早くクフ王のピラミッドに到着し、そのまま最短距離で帰ってこようとしますか?
そんなものは旅とは呼べません。家から一歩出た瞬間、それはすでに「旅」であり、目的地に向かう道中もすべての瞬間が「旅」であるはずです。もちろん、なんらかの事情でピラミッドにたどり着けなかったとしても、「旅」をしなかったことにはならない。それがエネルゲイア的な人生です。
と言うように、かばんはエネルゲイア的な旅を続けました。なぜなら、この旅自体に価値があることを知っていたからです。
共同体感覚についてアドラーは、好んでこのような表現を使いました。われわれに必要なのは、「他者の目で見て、他者の耳で聞き、他者の心で感じること」 だと。
この言葉には、かばんの問題解決手法の本質が集約されています。
これについては、3話で取った手法が最もわかりやすいでしょう。かばんは、トキに担がれて空を飛んだ経験を踏まえ、「鳥のフレンズにはどう見えるか?」を想像したことで、地上絵を描くという解決策にたどり着きました。
あるいは、5話を考えてみても良いかもしれません。かばんは、ビーバーやプレーリーという他者の心を想像し、二人で協力して家を作るという解決策にたどり着きました。
かばんは、他者の関心事に関心を向け、他者の感覚と心で感じる、すなわち尊敬の力を以て問題を解決します。そうして、彼女は他者貢献の実感を得て、それを更なる自己受容、他者信頼のサイクルへ繋げていきます。
この旅の結果、アドラーが
たったふたりからはじまった「わたしたち」は、やがて共同体全体に、そして人類全体にまでその範囲を広げていくでしょう。
と予言するように、かばんの意識は自己から「わたしたち」、そして「パークのみんな」という共同体全体へとその範囲を広げていきます。それゆえに、彼女は自己中心性を捨て、パークの外へ行く手段である船を諦め、身を呈してサーバルを救うことすらもできました。
さいごに、そして「共同体感覚」というヒトの特性
改めてかばんの旅を整理してみましょう。
彼女は無力な存在としてパークに生を受けました。
劣等感に苛まれる彼女は、サーバルとの共闘の中で「仕事(信用)の関係」を身に着け、旅の中で「交友(信頼)の関係」を身に着け、最終的には自己を捨てた「愛の関係」を理解するまでに至りました。
なぜかばんにはこんなことができたのか。大元を辿れば、
すべての人には共同体感覚が内在し、それは人間のアイデンティティと深く結びついている
からでしょう。アドラーはこう言います。
人間はその身体的な弱さゆえに共同体をつくり、協力関係のなかに生きている。人間はつねに他者との「つながり」を希求している。すべての人の心には、共同体感覚が内在しているのだ。
フレンズとは「動物がヒト化したもの」であるという定義を踏まえれば、かばんが他のフレンズよりも一際長けていたもの、それは共同体感覚だということになります。
かばんは、ヒトのフレンズとして、全てのフレンズと横の関係を築き、共同体感覚に基づいた尊敬を実践してきました。その結果が、あの最終回として結実したわけです。
なぜ、『けものフレンズ』は多くの人々に感動を与え、主体的に行動する勇気を与えたのか。
その理由の一つは、かばんちゃんがヒトの代表として、我々全員に内在する共同体感覚の存在を証明し、どうやってそれを陶冶していくべきなのかを体現し、それが世界に対して与える力を示してくれたからなのかもしれません。