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この前の東京の夜


先月に行った竜神大橋、何県だか忘れてしまったけど。
自然が作った渓谷が「人間にはコレ作れる?」といじわるに胸を張って来ているかの様に、見せつけられるような景色を楽しんだ。
「世界には人間の力なんかじゃ決して及ばぬ風景があって、だからこそ人は感動をしたりする。例えばグランド・キャニオンとか。」

東京は僕の憧れが日に日に増しているエリア。
記憶力と、地理が最高に疎い僕にとって「あの日行った居酒屋が中野区なのか、世田谷区なのか」もそうだし、そもそも東京23区に何があって、それがどこなのかは勿論分からない。

もっと言えば、健康的な街だとも思わない。
夜は常に人が居て、色んな人。
酔っ払いとか、泥酔した人とか、酒に負けた人を介抱する人とか、あと脱法の何かを売ってる人、それに酔っ払いとか。
東京で健康的な生活を営むのは高難易度であって、更には少しお高くつく。そんなイメージ。

グランド・キャニオンほどの眺望は無いだろうし、グレートバリアリーフみたいな美しさも無い。
ただ人が沢山居て、それと同じくらいお店があって、そのお店と向かいのお店が実は仲良くなかったりして、その両店舗の常連さんは向こうにいる時こっちの悪口を言っていたり。
東京はきっとそんな街。

それが美しい。
浅草の下町、阿佐ヶ谷のローカル感、学芸大学のこなれた空気、なんとも魅力的で、もっと触れてみたい、臭ってみたい、食べてみたい。


この日、とあるイベントに半ば強引に参加した。
知り合いに誘って頂いて。
初めて三軒茶屋で降りた。

三軒茶屋だと思う


田舎者なので駅の写真を撮った。
そこから数駅先の駅をおりて徒歩で10分くらい。
息が苦しくなるくらいオシャレなお店で、これまた息ができないくらいにオシャレな人達がいた。

僕はここにいるだけであって、ここにいる人達と同じ様なものは何も持っていなかった。
でもあえて、ここにいるを盾にして自分を勘違いさせてみようと思った。
「今日ここに居る俺はお洒落なんだ」って。

もれなく施策は失敗して、何を喋るでもなく淡々と時間を溶かしていった。

でもそれが嬉しかった。
自分は本当に何物でもないと、改めて心の底から認識しているのだと。だから、誰かと話すわけでもなく、かといってその場から立ち去ることも無く、自分の明確なポジショニングすら測れないデクの棒になるしかなくて、ただ存在していた。

ただ存在するだけの塊は、まだきっと何かになれる。
note書き始めの頃にも書いたけど、自分に対する期待感だけは一丁前。
この日の空間が自分にはまだ早かったということ。
自分は、憧れに抱いた景色にエントリーするだけの人ではないということ。
負の確信が逆に自分を奮い立たせてしまった。

グランド・キャニオンにも、ウユニ塩湖にも行ってみたい。
その前に東京に住んでみたい。

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