今日死んでも後悔がないか、って重くない?
◆ 格言はツール
「今日死んでも後悔がない1日を過ごしたか?」
ー いや、後悔するかもしれないけど、しかたないと思う。
私には問いが重い。
嫌だとかそういうんじゃないんです。
私には重たいだけ。
軽やかに生きたいなあ。
というのが、実は正直な感想。
他にも
「君が無駄に過ごした今日は、誰かが死ぬほど生きたかった今日なんだよ?」
みたいな言葉をよく見かけるけれど「気持ちはわかるけど私の今日は私の今日だし、今この瞬間に生きている人の今日だよ」としか言えない。
これまで生きていた方たちが作ってきた世界の延長線上にいられることへ感謝し、ありがたく生きることはできても、亡くなった方の分まで生きることは不可能。
人の代わりに食べられない寝られないのと一緒。
よく聞く人生論とか人生の格言って、響くものもあれば、突然重くて息苦しくなるものもある。
もっと気軽に生きられないものか。
だって、私、気づいたら息をしていたように、気づいたら生きていたんですよね。
今は記憶にないと思っているスタート地点や、それ以前の場所があるなら、もしかしたら意を決して生まれてきて、よし息をしようとか思ったのかもしれないし、生きていこうと思ったのかもしれないし。
でも思い出せない。
人間って、日々命について考えぬいて生きるようには元々デザインされていないんじゃないかと思うんです。
そこを誰かの格言が、スッと支えたりすることがある。
スイッチを入れてくれたり、ハッとさせられたり、考える時間を与えてくれたり。
ある意味ひとつのツール。
何かどうしても自分にムチを打たなくてはならない時に、筋トレの重りのように一時的に「今日死んでも後悔はないか?」などという問いをツールとして使うのは一応便利なのかもしれないけれど、毎日はきつい。
なんなら私、そんなことを考えずに生きていたいんです。
自由にのびのび自分の命を開きたい。
楽しそうな子供たちが天真爛漫な光を放っている時
「今日死んでも後悔しないか?」
などと考えているかなあ。
子供って、だいたいやりたいことだらけ食べたいものだらけみたいものだらけで、いつ死んでも「えーもっと」と思いそうなものだし。
このあたりはもう想像の域になってくるので、結論は人それぞれ。
とにかく「今日死んでも後悔しないか?」は私には重い。
こういうことって人それぞれ。
じゃあ、何を大切に生きてるの?
それで、何かいいことあったの?
はい。ありました。
どうすれば、毎日が自由になっていくか。
あえて力まず向き合うと、世界の色合いは確実に変わります。
その少しずつ快適になっていく過程をシェアしますね。
一緒に知らない森に入って、光ある出口を見つけるみたいな時間を、この後過ごせたら嬉しいです。
続きをのんびりお読みください。
こちらは
マガジン『ここだけでしか書かない内緒話』
に含まれる記事となります。
単体でお読み頂くより、マガジン購読のほうが、その月のすべての記事、そしてバックナンバーのたくさんの記事がさかのぼって読んで頂けますのでお得です。お好きな形でぜひどうぞ。
ここから先は
¥ 400
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?