差し押さえでピアノもオーディオもなくなった家庭の女子高生が、なぜピアノ弾き語りシンガーソングライターikuyoになったのか。
6日のお昼、以前からお会いしたかったボイストレーナーのフェルナンデスユウコ先生の発声トレーニングを都立大学前という駅で受けてきました。
ボイトレに限らず、ここまで生きてきて解決しなかったいろんな問題の共通した根っこの原因を、ユウコ先生のレッスンで気づかせて頂けた有益なひとときでした。
その帰り道、都立大学前で桜並木を散策中、なつかしいポルトガル語の看板が…。
そんな曲があったことも忘れてたけど、私が高1か高2の時に作詞作曲してピアノの弾き語りで歌っていた「CARNAVAL」という曲と同じ名前のお店の看板でした。
じつは私が作詞作曲を始めたのは12歳か13歳頃、当時の実家にあったピアノや母が弾いてたガットギターで弾き語りを始めたのがきっかけでした。
が、元歌手・役者デビューが決まっていた天性の美声の父に発声のこととかで否定されるのが怖くて家族には言わなかったし、友達もごく一部しか当時知りませんでした。
(ちなみに父はデビュー直前に大人の事情で事務所を辞めたので、芸能界には行かずに母と結婚して起業家&武道指導者になりました)
やがて、私が15の時に父の事業が失敗して会社が倒産し、私の実家は当然差し押さえられてピアノもオーディオも持っていかれ、私が道で友達と笑っていただけでも債権者の方が家に怒鳴り込んでくる生活が始まりました。
もし大好きな音楽や、大好きな音楽仲間の友人達や尊敬するミュージシャンの先輩達の存在がなかったら、私の心や未来はそのときにへし折れていただろうなと今でも思います。
だけど、音楽やその人達のおかげで、私は未来に希望をつないで生きることが出来た。
その町を離れ、親戚の援助で高校に進学できた私は、昼休みにごはんを抜いて学校の音楽室のグランドピアノを弾いて歌ったり作詞作曲したりするようになりました。
同級生には私の事情は言ってもわからないだろうなと思ったから何も言わずにいたら、「変人」と言われて学校で浮きまくり、いろいろ変な噂があったみたい。
でも、校外では他校や大学生の音楽仲間やバンドの友達や彼氏が普通にできたし、むしろ他の子達よりも楽しんでいたんじゃないかと思う。
他校の男の子達から、私の学校の同級生達が言っていたという私に関する「変な噂」の内容を聞いて、なんじゃそれは!となり、ぶっとんだのがなつかしいです。
放課後は、お昼を抜いて節約したお金で当時の彼氏に教わったジャズ喫茶に音楽を聴いたり音楽の本を読むために通ってました。
しばらくすると顔を覚えられ、気難しいことで有名だった店主様やバイトの九大生のお兄様達に、本当に良くして頂きました。
私がお店に来ると、店主様が店内のBGMを私の好きな曲にさりげなく変えて下さったり、お兄様が私の好きそうな本を持ってきて下さったり。
珈琲一杯だけを注文して、あとは音楽を聴いたり黙々と本を読んだりしてただけの貧乏高校生に良くして下さってたことは一生忘れません。
学校では「変人」「やばい女」という噂で孤立していた私ですが、音楽やバンドをやっていた同級生の中には私を面白いやつと思ってくれてた子もいました。
「ねぇ!あなた、ピアノ弾いて作詞作曲してるよね?いいからちょっときてきて!早く!」
と、話したことがなかった華やかな同級生(他のバンドのボーカル)にめっちゃ笑顔で突然手を引っ張ってどこかに走って連れて行かれ、
「ほら!この子!この子なら1ヶ月あればドラム叩けるようになって文化祭バンドのオーディション間に合うけん。才能も根性もあるよ!この子」
と、ドラムが抜けて困ってたバンドにドラムを全く叩いたことがない私を紹介し、ぱちくりしてる私が初めてライブハウスに出るきっかけを作ってくれたのが、その同級生でした。
私が毎日昼休みに音楽室のピアノで作詞作曲して弾き語りしてたのを、私の知らないところで彼女は知ってくれていたようです。
彼女のお母様は韓国の方で、泊まりに行ったときにいつも料理を教えて下さった。私の料理の師匠のひとりと私は勝手に思ってます。
その同級生は、卒業後もつきあいが続いた数少ない学校の友達の1人となりました。
それからもいろんなことがあって、のちに私は東京でピアノ弾き語りシンガーソングライターとして歌うようになったけど、そこは割愛します。
なにが言いたいかと言えば、どんなに絶望的な状況でも、自分の軸になる大好きなことがあって、それをやめなければ、周りがびっくりするくらいの集中力で続けていれば、道が開けるのだと言うことでした。
よほど自分に合ってない・向いてないことなら話は別ですが、そうでないなら、誰かの心を動かせば必ず助けてくれる人達が出てくるし、無理だったことができる方向に状況の方が変わって動いていくことになります。
…という、私もすっかり忘れていた自分の音楽の原点や助けてくれた人達のことを、ユウコ先生のトレーニングを受けた帰りに目にした看板をきっかけに思い出させていただきました。
これも普段なら見過ごしていたのかもしれませんが、ユウコ先生とお話したことで必要なものをキャッチしやすい心身の感覚が呼び覚まされ、気づくことが出来たのだと思います。
これは10歳の誕生日頃に不思議な夢を見て気づき、ずっと思ってきたことですが、私にとっての音楽は失った過去から学んで大切なものを自分の手で命を注いでつくり、ひいては未来をつくるためにあるのだとその時から変わらず思ってる。
こういうことを書くといろいろ面倒くさい批判をする人がいるから書きたくないけど、自分の前世なんじゃないかと思われる長い夢を10歳の誕生日に見て、そのあと突然、なんの理論もなしに教わらずに自然に耳コピの弾き語りや作詞作曲をするようになりました。
まぁ、ごく一部の同級生は当時私から話を聞いて曲も聴いてるから、これが本当なのを知ってると思います。
東京で音楽活動しはじめて一番びっくりしたのが、私が普通にやってることがライブ会場では他の出演者(音大・養成所・専門学校を出た人や事務所に入ってるレベルの方に多かった)からは驚かれたり、養成所で誰かに教わらないと作詞作曲は出来ないと思ってる人がものすごく多かったことでした。
私は鳥が歌を歌うように、抑えてきたけど溢れ出して止まらない感情が多すぎてどうしてもそうせずにはいられず、子供時代から本能で詞や曲を作ってたのです。
(今は逆に、仕事では自分も人も自由に音楽表現するために必要な理論を謙虚な姿勢で学びたいと思ってます)
いずれにせよ、この日は気づかないといけないこと・今のタイミングで思い出す必要があった過去の原点が掘り起こされてきた1日となりました。
そして、自分がどれだけ沢山の人達に助けられてきたのか。そして、今もそうなのかを。
そのことを忘れずにいこうと思います。
自分の力ではなく、助けられてこその道だということを。
今は言うのもおこがましいですが、どんな規模・どんな形であれ、いつかは自分が何かの形で誰かを助ける側のひとりになれますように。