大学4年間を振り返ってみて
こんにちは。大学四年生のいくとです。今回は大学に通ってみて、あと半年もせず卒業を控えてみて何を思うか書いてみようと思います。
この4年間に果たして意味はあったのだろうか。そう思うことが多くなりました。
大学とは、勉強をする場所。教育を受ける場所。それを否定する人はいないと思います。しかしそれだけではない、とみなさん思うことでしょう。
友人を作り、サークルや部活に所属したり、学外でも色々なことに挑戦したり、持て余した時間をどう使えばいいか悩むこともあると思います。
僕の4年間はどうだったろう。少なくとも今は、目に輝きを宿していると自信を持って言えます。
なぜなら、これから先の自分を、自分を取り巻く環境の変化を楽しみにしているからです。いつからこうやって前向きに考えられるようになったんだろう。
大学での学び
大学ではたくさんのことを学びました。
大学では、何かを測る尺度を学ぶのではなく、自分自身を測る尺度を学ぶのだと思います。
人とは不完全である。一般大衆から離れることは極めて稀である。自分だって、みんなと同じ。「自分は違う」なんて言葉を吐くほど愚かじゃない。それを学び、認め、そこから人生に何を問うかがこれからの課題だと思います。自分とは何か。何ができるのか。何ができないのか。そういったことを少しずつ考えられるようになりました。
僕は4年間で、自分を信じられるようになりました。自分の将来を、可能性を、力を。特に可能性。僕らには無限の可能性がどこまでも広がっていると思います。
例えば、たまに街を歩いていると思います。
「このまま空港に向かって、海外に行くことも不可能じゃないじゃないか」と。そう。思い立った瞬間に動けば、頭の中にあることは大体実現可能です。
けれど、コストだの、時間だの、準備だなんだかんだ言って、踏み出そうとする僕たちの足を掴んで離さないものがあります。時間管理のマトリックスでいうところの第一領域です。
長い長い人生という単位で見ると、大したことないものばかりなのに、僕らの目はそこに釘付けになってしまう。
僕だってそう。授業、課題、アルバイト。この3つだけで1週間のほとんどは埋められてしまう。そのルーティン化した毎日に、どこか満足している自分がいるのでしょう。だから僕は旅に出ました。日本を縦断して、自分の可能性を自分に示しました。
この旅を通して、僕の持っていた仮説は確信へと変わりました。
「いつからでもどこからでも、やろうと思ったことはできる。」
できない理由なんていくらでもあります。それを数え出すと沼に落ちて出られなくなります。
それより、やった時の楽しさを想像して、ワクワクして、たまらなくなった時がその時です。
この気づきは、最近で一番大きな学びだと思います。
他人を通して自分を見た
大学には色々な人がいます。僕が通う学校は生徒数1万を超えるマンモス校です。本当にいろんな人たちがいました。大学内ですれ違うほとんどの人は、関わりなく終わっていきました。
その一方で、知り合えたほんの一部の人たち。彼らは僕の人生を構成する大切な友人になりました。今後も関わっていくことを確信しています。
僕は、人と同じことを嫌います。
みんなも、どこか同じ考えを持っているかもしれません。ファッション、行動、考え方、みな誰かと同じなのは嫌がります。
なぜでしょうか。
自分らしさを表現したいからでしょうか。注目されたいからでしょうか。優越感、特別感を感じたいからでしょうか。きっと人それぞれ理由はあるのでしょう。
僕はきっと、優越感、特別感を感じたいからに近いと思います。そう思うと、自分はなんと幼く愚かなのだろうと実感します。
しかし、そう考えるのも自分。紛れもない事実。僕はそれを受け止めます。僕はまだ幼く、愚かな部分がある。それでいいと捉えることができるようになったのは、大学での最も重要な学びだと思っています。
もちろん、このままでいいとは考えていません。しかし、自分の弱さを見つめ、認めることで人は前進できると思います。
見栄を張ろうとした瞬間、背伸びをしようとした瞬間に「自分はまだまだ愚かだ」と思えると、もうやめようと立ち止まることができる。
その小さな小さな心の中の一言が、やがて僕をいい方向に変えていくものだと信じています。
僕はよく、大学で一人で過ごしています。きっと、心の中でそれがかっこいいことだと思っているんでしょう。「俺は群れてないぜ」「一人でも平気だぜ」みたいな。なんとも稚拙ですが、そうやって自尊心を保っているのが僕のようです。
しかし実際、一人で行動できることは強みだとも思います。これは慢心とか、そういったことは含んでいるつもりはありません。経験の量を増やせるからです。好きなことができる。やりたいと思ったことができる。一人だと小回りがきくんです。共感してくれる人もきっといるでしょう。
現在に至るまで
こんな大そうなことを偉そうに言っていますが、そもそも大学は自分の意思で入ったわけではありませんでした。
高校3年生で、進路を決める時。僕はてっきり、進路とはもっと明確な意思を持って決めるものだと中学生くらいでは考えてました。でもそんなことは無かったです。
先生に進路希望書を出せと言われて、伝えられた期限までに考えてみて決める。
結局、就職する勇気もなく、親から「とりあえず大学行っておいたら?」の一言で大学に進学することを決めました。今考えると、裕福なわけでもないのに迷わず大学に行かせてくれた両親には尊敬と感謝の意を抱きます。僕も子どもが希望するなら迷わず大学に行かせたいです。それだけの心の余裕がないといけないですね。
つまり、僕は「とりあえず」大学に行ったのです。そんな人も少なからずいると思います。4年間の猶予を手にするだけ。そんな程度に考えていました。しかし、大学での日々を過ごしてみて、本当に行ってよかったと思います。ここでしか手に入れられないもの、経験できないものを得られました。
とは言うものの、初めから順風満帆な大学生活ではありませんでした。目標も特になく、何をすればいいかすらわからなかった一年生。大学に慣れて、ただ器用に毎日をこなしていく二年生。そんな日々があったことも事実です。
でもそんな日々があったからこそ、自分を、毎日を変えたいと思う心が生み出されました。
無意味に日々を繰り返した、一二年生がが僕にとっての転換期だったと思います。
3年生、人生で最も頑張った1年間だと思います。就活のため、社会人として活躍するため、何故か必死になって勉強をしていました。とても楽しかったです。勉強が楽しいと思えるようになっていました。何かを学び、価値観が変わるたびに『幸せってなんなんだろう』という答えのない問いに苦しみました。
当時の僕は、答えのないものは存在しないと、どこか思い込んでいたと思います。小中高と、答えを見つけ出す勉強しかしてきませんでしたから。そういう勉強ばかりできるようになっていました。
『幸せとは何か』という答えはもちろん出ませんでした。それで良かったと思います。いまはその現実を受け止めることができています。
そして今、4年生。
何か残せただろうか。何を得られただろうか。4年という月日を、余すことなく使い果たしただろうか。大学生ほどに、時間を贅沢に使えることはもう老後しかありません。そう思っています。
これから約40〜50年、激流の中に飛び込み、その中で生き甲斐を見つけ、苦しみながら楽しみながら生きていく。その覚悟はできたのだろうか。多分できてないです。でも、楽しみにしています。
まだ制服を着ていた頃は、働くことに対して大きなマイナスイメージを持っていました。毎日スーツを着て、朝から満員の電車に乗り、下を向いて歩く大人たちばかりを見ていたからです。
しかし、制服を脱いだあと、色々な大人と話す機会がありました。彼らが、僕の中の"働く=辛い"というイメージを拭い取ってくれました。彼ら、彼女らは、働いていることを本当に楽しそうに、誇らしく話してくれました。そんな人たちに出会えたことは本当に幸運でした。
今思うこと
もっと、先生たちと話したいなぁ。と、今は思います。先生方は、その分野に関して、死ぬほど知識を積み重ねてきたエキスパートです。色々な分野に関して、もっと議論をしたかった。議論をできるほどに真摯に学問と向き合えば良かった。そう思います。議論をするには、意見が必要です。自分なりの主張がなければ誰かと衝突することすらできません。意見を持つほどの情熱や意識がなかった、もったいないと思います。
なんの疑いもなく、教科書の文字を飲み込んでしまった。それは学問の発展に何ら寄与していないと思います。
「先生=正しい」「教科書=正しい」これは違うと思います。しかし3年生の途中までこれに気が付かなかった。気づけなかった。仮説や懐疑心を持って話を聞く。その癖が付けられなかった。これは一つの後悔です。
もう11月。卒業まであと5か月くらい。約150日。こんなにも贅沢に使っていいんですね。
しかし、人は何かを手に入れた瞬間に、その価値を見失います。僕はこの時間の価値を見失っている。いや、見えてはいる。確かにそこにあるのに、気づかないふりをしている。少しずつ、減っていっていることにも気付いているのに、何もしないで時間を垂れ流している。そんな自分に腹が立ちます。
この5か月は大きな差を生むと思います。無理矢理にでも動かしてやります。いつまでも寝転がってYouTubeを見ているわけにはいかない。僕の貴重な時間は、携帯の中の魔物に食わせるためのものじゃない。戦わなければならない。あと少しだけ。
4年間。得たものは自尊心と謙遜の意識と公平であろうとする気持ちです。もっとあるけど、代表的なものはこれかな。
人間、未来の話をしなくなったら終わりだと思っています。僕の尊敬する人たちは皆、未来、将来の話をします。僕もその未来の登場人物でありたい。通行人Aでは終わりたくない。ベクトルは、内側ではなく外側へ。自分ばかり見てられない。さあ、次の扉をノックしよう。
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