リーディングを演出することについて
先週末、文化庁委託事業「令和2年度次代の文化を創造する新進芸術家育成事業」「次代の翻訳家育成セミナー「ワールド・シアター・ラボ」」の一環で『自殺の解剖』(作:アリス・バーチ 訳:關智子)という作品のリーディングを演出させていただいたんですが、リーディングの演出に関して、思うところをちょっとまとめたいなと思ってnote書きます。
↑お世話になった稽古場☆
これまで何本かリーディングの演出をしましたが、リーディングの際、ほとんどの場合私は俳優に「演じすぎないで欲しい」とリクエストします。
お芝居の公演をする場合、だいたい40日程度稽古して初日を迎える、というのがよくあるパターンですが、リーディングとなると当然稽古日程がこれより少なくなります。
そうして迎えるリーディング公演の初日は、俳優によっては一部のセリフを覚えかけている、というような状況で、役のイメージも膨らみ、いろいろやりたいことが出てくる時期でしょう(私は演出家なのでこれは推測)。
ただ、ここで私が注意したいのは、目標は「リーディング」だということです。
俳優の力の差もあるので一概には言えませんが、普段40日かけて自分の血肉としていく言葉を、その半分以下の稽古で同じ成果を獲得し、その役として舞台に存在するところまで持っていくのはかなり難しいですし、リーディング、つまり「読む」ことが求められている公演で、最も重要なのは戯曲の言葉を届けること。
完全に血肉と出来ない言葉なのであれば、これは作家によって書かれている言葉だ、ということを強く意識して、役と、その台詞を発する俳優との境界をあいまいにしないことが、むしろ潔いと考えています。
もちろん棒読みでは言葉は届かないので、解釈や言葉のニュアンスは要求しますが、特に、「身体が喋りすぎないように、身体が喋るためのエネルギーは全部声の方に入れてほしい」とお願いします。
それらのことを実現するためによく使うアイテムが譜面台です。
手が自由に動かせる、というのも魅力の一つなんですけど、「これはあくまでリーディングだ」ということを俳優にも、観客にも意識させることが出来るのが、譜面台の重要な役割なんじゃないかと考えています。
今回もそういうことを意識しながらリーディングの演出をつけていったんですが、今回の『自殺の解剖』が厄介だったのは、台詞だけではなく動き、というか、居様が要求されているところでした。
チラシの説明にもあるように、この戯曲は「3世代の3つの物語が舞台上で並列的に展開される。自殺願望があるキャロル、薬物中毒から抜け出そうとするアナ、医者になったボニーの物語は、時折呼応し共鳴する言葉を用いたフーガ的スコアによって奏でられる。」という特質を持っていました。
3世代の台詞が、オーケストラのスコアの様に配置されているので、一見リーディングにはふさわしい戯曲のように見えます。
しかし読み進めていくと、その予想は見事なまでに打ち砕かれました。
例えば
「キャロル(第1世代。台本では「A」という区分)が語る台詞に呼応してボニー(第3世代。台本では「C」という区分)がある動きをする」とか、
「アナ(第2世代。台本では「B」という区分)の世界で重苦しい雰囲気が出来ている中でキャロル(A)とボニー(C)である物語が進行している」
といったように、喋らない時間にどういう行動がなされているかも非常に重要で、それを何らかの形で舞台上に実現させないと、戯曲の要求に応えられないということが分かってきました。
ト書きを読み上げて説明するという手法も当然考えられますが、戯曲全体がある音楽のような「テンポ」を要求しているので、一度シーンが始まってしまうとト書きを読み上げるのはテンポを損なってしまう。
また、指定されている行動によって生じるノイズ(具体的に出る「音」を含め)も戯曲の音楽性を支える重要な要素だから、やはり具体的な行動をとる必要が出てくる。
でもこれまで私が重視してきた「演じすぎないで欲しい」ということとこれらをどう両立させるか…
これらを今回の上演ではどう解決したかは、もちろん観に来ていただいた方にしか伝わらないんですが、言葉にしてみると、
●台詞があるところは基本的に台本から目を離さない。
●リアクションや、心の変化があるよ、ということを示したいところは、目線を上げる(ただし表情はつくらない)
●動きは行う。ただしそういう動きです、ということを説明するために記号的に、シンプルに行う。例えば「泣く」ということを「顔を手で覆う」という動きで記号的に示す、または「泣き声を出す」という音で表す。そこに感情の高ぶりなどは必要ない。
というような感じです。
ただし、ここで重要な例外が生じたことをお伝えしないといけません。
今回の上演時間は1時間35分でしたが、特に軸になるキャロル、アナ、ボニーを担当した3人の俳優は、そのほとんどの時間を舞台上で、継続した時間軸で過ごすことになり、それぞれの台詞を1時間35分積み重ねていくことになります。
すると、俳優と役がだんだん呼応せざるを得ない状況になってくる、というか、呼応することに無理や違和感がなくなってくるように感じ、身体が動いたり、表情が出てきたりしても、それを頑なにそぎ落としてもらう必要がないな、と思えることが増えました。
以前演出させていただいた渡辺えりさんの『鯨よ!私の手に乗れ』という戯曲の中に「書き記す言葉は嘘でも、喋れば本当になる。そこに人間がいる限り喋れば本当になるんです。」という力強い言葉がありました。
他人の言葉を借りて喋る、という事実と、でもそれを喋り続けているとその言葉が喋っている当人や、それを聞いている周りにとって本当になってくるという事実、この二つが混在して、なんだかとても面白い空間になっているように感じました。
これは勿論、どの俳優でも1時間35分喋ればそうなる、ということではありません。
喋りたいと思える作家の言葉、そして今回の様な翻訳戯曲の場合、翻訳家が選んだ訳語、その言葉をきちんと届けようとする俳優の努力と技術、それを聞いて受け止めてくれている客席、というような関係があって、はじめて成立した空間だったと思います。
リーディング、奥深い…!と思わされた公演でした。本当にいい経験をさせていただきました。関係者の皆様に心からお礼申し上げます。
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