名取事務所『帽子と預言者』について (2)

※この公演は終了しています http://nato.jp/topics.html

名取事務所の二本立ての前半に上演した『帽子と預言者』についてpart2です。今回はモノについて考えたことを書こうと思います。↓撮影:坂内太

帽子と預言者 モノ

モノは、戯曲の冒頭に作者からの詳細な指定があります。幾つか抜き出すと、

「いかなる形状であれ、金属でないこと。人間や広く知られている動植物に似た形でないこと。色は黒、藤色を入れることも可。見た目の質感は布かゴムに近い。ドーム形の上に大きな葉のような複数の枝がついた形状。」
「動きについては…もっとも安易なのは机に人の手が通る穴を開け、中に人が入り決して見えぬように動かすことであろうか。いずれにせよ、”モノ”はいかなる流布している形状との関係をも想起させてはならない。」
「声、レコーダーを使って”話す”ことが想像に一番近い。声はきわめてクリアで、しかし完全に自然でもない必要がある。」

なぜ金属はだめなのか、色は何を意味しているのか、考えてみましたが、私には「まさにこの理由でだ!」というものは見つけられませんでした。ただ、モノが預言者でも帽子でもあり得るということ、つまり人のマインドに働きかけるものだということを考えた時に、脳が肥大している、みたいな形がおもしろいのではないかという話になり、山下昇平さんの手によって写真のような形状になりました。

そして、モノの台詞は膨大にあるのですが、それをどうするか…レコーダーは当時としては画期的だったのでしょうが、現代においてこのアイディアで通すのはなかなか難しそうです。一人の役者さんにやってもらうというのも当然一案ですが、それならその人にモノそのものを演じてもらうほうがいいだろう、でもどういう存在なのかよくわからないという面白さは半減してしまうかもしれない…

色々な可能性を考えたうえで、モノの台詞「彼らが私を通して君と話している」というのをもとに、アンサンブルでモノを演じてもらうことに決めました。(この「彼ら」がだれなのか、この伏線は全く回収されません。宇宙から私達を見ている何か超越した存在なのかもしれませんし、過去や未来の人たちかもしれないし、その中に自分も含まれているのかも…)

アンサンブルの動きは、こちらでざっくり付けたうえで、LAVINIAでムーブメントの稽古に慣れていらっしゃる橋本千佳子さんが「役者で自主稽古しましょう!」と音頭を取ってしっかりまとめてくださいました。KAMI!!!!!!!!!!!!!!!!!

閑話休題。今回キャストもスタッフも初めましての方がほとんどでしたが、稽古が楽しく、それぞれがちゃんと役割を担えていた座組でした。もう感謝しかないですね…

座長の山口眞司さんは、戯曲や演出への鋭い突っ込みで助けてくださるし、ムーブメントのところは人一倍頑張っちゃう。森岡正次郎さんは、黙々と稽古し、終わったら真っ先に掃除機を手に稽古場掃除してくださる。橋本千佳子さんは一見クールなんですが、ムーブメントの音頭取りもそうだし、稽古場に手料理を差し入れて下さったり、頼れる先輩でした。滝沢花野さんは私の無茶ぶりにしり込みしつつ毎日稽古場に来てからメイクを濃くする。杉林健生さんは『鳥~』にも参加してもらって体力的に大変だったはずなのに、それを感じさせないムードメーカー。深堀啓太朗さんは映画好きがなせる業か、カメラワークめちゃくちゃうまい!自分なりのこだわりを持って取ってくれてたのがよくわかります。(彼になぜカメラを操作する役割を担わせたのかも書かないといけないですね…これはpart3かな…)主演の内藤裕志さんは、研修科で一年一緒でしたので、この人には絶対に負けないぞと思ってました。笑 我々の稽古を少し見守ってからお帰りになる田代隆秀さん(だいたい『鳥~』を先に稽古していました)。朝から晩まで稽古場にいてかゆいところにちゃんと手が届く演出助手の小原まどか。そしてスタッフの皆様。スタッフの方々は、名取事務所常連の方々が多かったのですが、めちゃくちゃ助けていただきました…こんな恵まれた稽古場にいられたなんて!!!特に今家にこもる毎日で、たった1か月ちょっと前のことなのに信じられないくらい懐かしいです。

はい、モノの話でしたね。気を付けたいのが、この戯曲が書かれたのは1967年の第三次中東戦争の前ということです。私は中東問題に関しては付け焼刃ですし、ガッサーン・カナファーニーについても今回初めて勉強した程度ですので、専門的な知識のある方々がもしお読みになると、いろいろ突っ込みたいところが出てきてしまうでしょうが、私には作家がユダヤ人に対してあるシンパシーを持ってこの戯曲を書いているような気がしました。

というもの、ちょっと安易かな…と思いつつも中東問題に絡めてこの戯曲をざっくりと解釈するとすれば、裁判官は国際社会であり、男はイスラエル、モノは聖地エルサレムを中心とした現在もイスラエルとパレスチナがもめている土地、というような印象だったからです。第二次世界大戦終戦からまだ20年とたっていない1967年、パレスチナ人はユダヤ人をどのように見ていたのでしょうか……そもそも国民国家というような考え方に縛られなければ、もともと同じ土地に共存してきた人々です。

自分たちよりもっと力がある存在にいわば翻弄され、争わざるを得なくなったかつての隣人(宗教的にも根っこは同じ)を、批判的にも見つつも、同情や共感をもって男を描いているように思いました。以下、裁判での自分の主張の論理が全く通じないことに絶望した男にモノが語りかけるシーンです。

モノ「友よ、可哀そうに…私は時々良心がとがめる。(中略)あんたは帽子から解放されても、預言者からは解放されない。」(中略)
男「俺は時々、お前のことを重荷に感じるよ。」
モノ「時々?」
男「いつも。いったい俺たちは何を課せられたんだ?お前はお前の世界に戻れないし、俺は俺の世界に戻れない。」

長くなりました。part3では、深堀さんが演じてくれた「警官」という役どころについてと、なぜ二本立てをこの順番で上演したのかを書きたいと思います。

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