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【エッセイ】かたちのない、クリスマスプレゼント。

「ピアノのせんせいに、なりたい」

はじめてのレッスンで、大きなグランドピアノの真正面にある椅子に座った、小学1年生の彼女は、これまた、くりくりした黒目がちの大きな瞳をこちらに向けて、ゆったりした口調で、言った。

すこしだけ、はにかんだ表情を浮かべて。


「それなら、こっちもそのつもりでレッスンするね」

と、言ったのか言わなかったのか。


ともかく、習いはじめて半年も経たないうちに、与えられた教本の曲を、彼女はすべて弾けるようになった。

その教本は、はじめからピアノの黒鍵を使ったり、右手だけでなく左手の5指もすべて使ってメロディーを弾くような、一見やさしそうで、いざ練習を始めると、そうやすやすと花マルはもらえないような曲ばかりだった。


ほかの1年生が、花マルをひとつもらうのに2〜3回のレッスンを費やす曲を、彼女は1回のレッスンで完璧にクリアし、次の曲も8割しあげて持ち帰った。


「おうちで、いっぱい練習してるんだね、えらいね」

わたしが褒めると、


「おかあさんが、ひけるまで れんしゅうしなさい っていうから」


教本が変わったあとも、彼女の
「花マルをもらう」ペースは落ちなかった。

ほんとうに、弾けるまで家で練習しているのだと、すぐにわかった。



小3になり、両親にアップライトピアノを買ってもらってから、彼女は、つぼみが花開くような上達ぶりを見せていった。


速いテンポで、細かい指の動きがたくさんある曲も、黒鍵をたくさん使う曲も、強弱のハッキリした、表現力を求められる曲も、次々とこなせるようになった。


その年の発表会では、ブルグミュラー25の練習曲の、いちばん最後に収録されている「乗馬」という曲を彼女は弾いた。


先ほど述べた、「難しい」要素がすべて入った曲を、堂々と弾きこなしたのだ。


こうして、彼女のピアノの実力は、同学年の生徒たちの頭ひとつ抜きんでたのだった。



そんな中、彼女は学童を辞めたタイミングで、
市内のハンドボールチームに入った。


ここ沖縄は、「ハンド王国」と呼ばれるほど、
わたしたちの親世代からハンドボールが盛んだ。

とくに浦添市は、市をあげてハンドボールの指導に力を入れており、地域の中学校や高校は、全国大会で何度も優勝する名門校ぞろいである。


県内外のプロリーグで活躍する、浦添市出身の選手は数多く、さきのオリンピックでは、同市出身のハンドボール選手が男女合わせて2人、日本代表に選ばれている。



彼女の所属しているチームのある市は、浦添市ほど、ハンドボールが盛んではなかったものの、その牙城をじわじわと脅かすほど、年月をかけて、少しずつ力をつけていった。


それに伴い、大会に次ぐ大会、離島への遠征など、彼女の身辺は、忙しさを増していった。


レッスンのスケジュールも、徐々に「部活優先」になっていった。ミーティングが長びいてレッスン時間に間に合わず、予定していた時間より大幅に遅れてレッスンが始まることも、よくあった。


それでも、大会など前もってわかる予定は教えてくれたし、それに準じて振替レッスンを早めに組むこともできた。


彼女の上達ペースは、ピアノをはじめた頃に比べてゆるやかになっていった。

だが、「ここまでは仕上げてね」と、レッスン中に指示した箇所は、1週間後のレッスンではバッチリ仕上がっており、次の課題を半分以上しあげて帰っていくのは、相変わらずだった。



小学校と市のチームを卒業した彼女は、
中学校のハンドボール部に活動の場を移した。


「みんなと離ればなれになるけど、○○高で、
また、みんなとハンドやりたい」


彼女は、ゆったりした口調で言った。澄んだ声には、僅かにさみしさが混ざっていた。



中学生になっても、レッスンに通い続けてくれてはいたが、いつ辞めてもおかしくないと
覚悟はしていた。


急に来なくなって、連絡もなく、そのまま。


そんな光景が、何度もよぎっては消えた。



平日の夜遅くまで、休みなく続く部活。


土日は試合、大会のスケジュールで、すべて埋まっていたそうで、レッスン日を土曜日に変更することを親御さんに提案してみても、難しい顔をされるばかりだった。


日曜に行われる、年1回の発表会も、大会などの試合を終えてから、バタバタと、自分の出番ギリギリに舞台袖に駆け込んでくるようになった。


加えて、小学校のころ以上に、学校の勉強にも力が入る。部活のあと、夕飯もままならない塾通いも始まっていたようだ。


正直、わたしが彼女なら、ピアノなんかしている暇はないと親にも友達にも愚痴っていたはずだ。


ところが彼女は、そんな「わたし忙しいんですけど」なそぶりを、いっさい見せなかった。


部活でクタクタになった、週末の夜8時、もしくは8時半に教室に来ても、疲れた様子すら見せず、

合唱コンクールの時期には、クラスで歌う歌の伴奏、発表会の時期には自ら選んだピアノ曲を、淡々とレッスンで練習し、期限までにキチンと仕上げた。


彼女と同学年の生徒いわく、彼女は成績も、学年でトップクラスをキープしているそうだった。


おうちで練習する時間は、もうないんだろうというのは見てとれたが、レッスンに臨む姿勢は、

「ピアノのせんせいに、なりたい」

そう言った、あのときと変わらなかった。



彼女は中学3年になった。

レッスン時間は、さらに遅くなり、夜9時スタートになった。その時間にも、間に合わないこともあったが、彼女は「辞める」とはひと言も言わなかった。親御さんからも、そのような相談は、なかった。




結局、わたしが彼女のレッスンを「辞めた」



とつぜん、身内が体調を崩してしまい、あまり遅い時間まで働けなくなってしまったのだった。


急なことだったので引き継ぎもできず、わたしは、事情を書いた手紙を、担当を代わってもらう講師に託し、彼女の顔を見ることなく、夜は身内の看病に専念した。



その後、身内の体調は落ちつき、わたし自身の結婚も決まり、いよいよ退職することになった。


教室を去る3日ほど前に、彼女が親御さんとともにやってきて、「お世話になりました」と、すこしはにかみながら、コンビニの白い袋を渡してくれた。中には、たくさんのお菓子が入っていた。


日々あわただしくしているなかでの、
心づかいが胸に沁みた。


こっちは何の挨拶もなく、彼女のレッスンを、
一方的に終えてしまったのに。



あれから、2年の月日が流れた。



県内の新しい地に引っ越し、違う苗字になって子育てをしているうちに、彼女どころか、あのピアノ教室で働いていたことも、思い出さなくなっていった。




そして、12月20日の夜。




思いがけない新聞記事を、見た。



彼女が、通っている高校のハンドボール部を、「県大会優勝」に、導いたというのだ。


かつての教え子の活躍が、新聞記事の真ん中に、小さくはあったが写真付きで載っていた。



ハンドボールの牙城がほこる、
浦添高校を下して、29年ぶりの優勝。

ハンド王国は、浦添だけじゃないぞ! 

彼女をはじめ、部員たちが勝どきという名乗りを挙げたのだ。誇らしい気持ちになった。



現在、彼女は高校2年生。


あの高校で、もう一度みんなとハンドやりたい。

願いを叶え、ついにチームの司令塔になった。



彼女が、ほかの部員と織りなす連係プレーが生きて優勝につながったと、新聞に書いてあった。

チームのエースになったのかと、記事を読み進めていったら、エースは別の部員だった。



「全国でも通用するチームだと思う。
九州大会でも優勝して、全国に行きたい」


インタビューに答える、彼女の言葉が書かれた文字を、ひとつひとつ追いかける。


大きな黒目がちの瞳を、精いっぱい輝かせて記者の方をまっすぐ見つめ、ゆったりとした口調で、すこし、はにかみながら、それでも凛とした声で、力強く言い切る。



そんな彼女の様子が、ありありと目に浮かんだ。



ピアノの先生には、ならなくても
ハンドボールの日本代表には、
なるんじゃないか。


オリンピックなんかで、あのひたむきな眼差しで、取材に応じる彼女を見たくなった。


それは、ちょっと欲張りすぎる
願いかもしれないけれど。



クリスマスまで、まだ日があるというのに、
わたしは、もうプレゼントをもらってしまった。

「もと教え子の活躍を、新聞を通して知る」

という、かたちのないプレゼントを。



なるほど。

サンタクロースが「あわてんぼう」なのは、
事実だったのだ。

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Sazanami
いただいたサポートで、たくさんスタバに通いたい……、ウソです。いただいた真心をこめて、皆さまにとどく記事を書きます。