SFCでの学び②
もういっちょ、SFCでの学びを書いてみようと思います。
それは、「お金で測れない価値を測るということの可能性と限界とリスク」です。
今日、役場で作業をしながら、地域おこし研究員の採用面接時に提出した志望理由書が出てきました。そこには、大学生の地域フィールドワークの効果測定指標を開発したいと書いてありました。
もちろんその時の考えを忘れていたわけではありません。でも、4か月の学びを経て、研究員として大山町で自分が何に取り組むのかを、自分なりにもがきながら考えていく中で、根本は変わらないものの研究の成果としてつくりあげようと考えているものは、だいぶ変化しました。
そう、この考え方の変化をもたらしたのが、冒頭の「お金で測れない価値を測るということの可能性と限界とリスク」という学びでした。
いまや、お金だけを価値だと考えている人は、ほとんどいないでしょう。いや、昔から別に、個人ベースでは必ずしもそんな考えではなかったのではないかと思います。しかし、成熟社会と言われているこの国では、個人ベースはもとより、経済界や政治行政の世界でも、「価値はお金だけでは測れないよね」という考え方がごく自然に広がり、それによって様々な社会の仕組みが変化しようとしています。
しかし、とはいっても結局のところ、資本主義社会がデフォルトな社会のメカニズムは健在で、その中で社会の仕組みを変化させようとすると、お金での価値の評価に匹敵するような数字的な分かりやすい価値の提示が必要になるわけですね。
そこに、お金では測れない価値を測ることの可能性はあるわけです。世の中の価値観は変化してきているわけなんだから、その価値観に合わせるように評価の方法も変えていけば、新しい価値観に合わせた社会の仕組みづくりも加速させられることができるというわけです。資本主義的な社会のメカニズムにアンチテーゼ(批判)を示すのではなく、そのメカニズムの上に上手く新しい価値観を乗せていくことができるというイメージですね。
ただ、お金はその価値のやり取りも含めて均一の評価軸で交換が行われるのに対して、お金で測れない価値は個々の人や組織ごとに感じ方が違って、均一の評価軸での交換ができるわけではないというのが、最も大きな問題なわけです。僕にとっての1万円はあなたにとっても1万円で、それで購入できるものは決まっているわけだけれども、僕にとって小さな幸せがあなたにとっては人生を変えるような大きな出来事にもなり得て、その逆もまたあり得るわけです。これが、「限界」の部分かなとおもいます。
これを、数値化することのリスクは目にみえています。数字として可視化された瞬間に、人は他の何か、他人や他の組織、あるいは過去の自分と比較してしまいます。数字が上向きの時は、それがモチベーションとなるかもしれません。しかし、ひとたび下がるとそれが悲観となって積み重なっていってしまう可能性が大いにあります。
これを最近、めちゃくちゃプライベートなことで身をもって体感してしまいました。自分で幸せの指標を定めてしまったがために、それが満たされない時に焦り、憤りを感じるようになってしまったのです。
もっとやっかいなのは、その幸せの指標が、本来的に自分が幸せを感じることとはかけ離れた誤った指標だったということです。でも、それに後から気が付いた。いやはや、なんともやっかいです。
以上、ものすごくふわりとお金では測れない価値を測ることの可能性と、限界とリスクについて書いてきました。個人の幸せよりも包括的な全体としての幸せを数字で示していくことには、やはり大きな可能性と期待感があります。一方で、その発想を個人の幸せにまで落とし込んでしまうと、かなり危うさをはらんでいる気がしています。
教育に関してもそう。誰かにとってほとんど効果をもたらさないような出来事が、別の誰かにとってはとても大きな学びになったりする。ひいては、反面教師という言葉があるように一見ネガティブなインパクトこそが成長に繋がったりしちゃうわけです。ある先生がおっしゃっていた「教育は結局どんなプログラムよりもひとりのロールモデル」という教えが何よりも心に残っています。
だからこそ、精緻にプログラムの効果を測るという発想は捨て、代わりに大学生それぞれが「勝手に」地域の暮らしから学ぶことができるための環境をいかにして整えるのか、そのプロセスをも含んだモデルの構築に取り組んでいこうかと思っています。
ではまた!
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