見通しの立たない毎日の中で。
新型コロナという言葉を最初に目にしたのは昨年の暮れだったでしょうか。その時点では、ここまでのことになろうとは予想だにしませんでした。いつ収束するか見通しの立たない毎日の中で、不安な思いに駆られたり、実際に感染して苦しい想いをしている人もたくさんいることだと思います。そんな中で、僕の周囲のみんなは、自分はどんな毎日を過ごすべきなのか、改めて自分自身の生き方と向き合ってみたりしていて、決して危機が悪いだけのものではないと思わせてくれたりもしています。
僕が暮らす鳥取県は、先週の金曜日まで感染者ゼロを守り、最初の感染者が見つかってからも、その濃厚接触者は陰性。感染者ゼロの段階から病床数を12から265まで増やし、ドライブスルー検査の導入を検討するなど、多様な対策を講じていました。最初の感染発覚を受けての記者会見でも、その落ち着いた分かりやすい話しぶりが話題となった平井知事のリーダーシップが成せる技。県民として、本当に信頼できる知事だという思いを新たにしています。
もちろん、実際に感染して苦しんでいる方や亡くなっている方もいて、自分や自分の家族(家族は東京にいるのでなお)もいつそうなるか分からないという状況の中で、どこまでこれを言っていいのかと躊躇われる部分も多分にあるけれど、僕がこれまで学んできた生態学の視点から、あるいはずっと追及しているあるコミュニティにおける人材の持続性とは?という視点から、今回の新型コロナの世界的な感染拡大をみると、少し違う見え方をしてきます。
生態学には、自然のシステムの中で生態系・種・遺伝子という3レベルでの多様性を維持するために必要な「攪乱」という概念があって、中規模な攪乱によって維持される多様性が、結果的に新しい攪乱に対するレジリエンス(回復力)をもたらすと説明されます。人類が”増えすぎた”ことに対する自然の摂理に伴った負のフィードバックとして、新型コロナの感染は起こっていると言えます。あるいは、新型コロナウイルスの感染がここまで全世界的に拡がった根源的な理由には、現代の”無菌的な”暮らしの中で人々の基礎的な免疫力が低下したということがきっとあって、乱暴に言うならば子どもの頃に「土を食わなくなった」ことに起因するのかもしれません(これは完全に僕の「説」です)。主体となる生物の生態系に及ぼす作用と、それに対する環境や周りの生物からのフィードバックのせめぎあいの中で、結果的に人間を含む生態系は「自律的」に「動的平衡」を保っているってことだと理解してます。
あるいは、人材の持続性という観点に立つと、新しい社会システムや価値観への転換はこういう大きな危機でも起きない限り、中々生まれないということを歴史が示しています。あの3.11ですら、どこまで社会のパラダイムシフトを起こしたのか怪しいかもしれません。こういう危機を一番主体的に乗り越えるためにもがくのは、次の時代を担う若い世代なわけなので、結果的に社会システムを担う人材が更新されるキッカケになると思われます。
ヤフーCSOの安宅さんが言い出した「withコロナ」は、本当は別に今に始まったことではなくて、これまでも人類はウイルスとせめぎ合いながらともに暮らしていたのだろうと思います。今回、爆発的に感染拡大をしたことで、期せずして人類はそれを自覚したということでしょう。withコロナ時代には、基礎的な免疫力を保ちながら、新たな感染症のクラスターとなり得る「モノの共有」はせずにそれらをパーソナライズしていき、代わりに「コト」のシェア、とりわけ価値観のシェアをすることが、豊かな暮らしになっていく気がします。
と、ちょっと大きなことを書きましたが、別に何ができるでもない23歳のちっぽけな僕は、見通しの立たない毎日の中で、自分がすぐ周りの人たちと何ができるかを考えることで精いっぱいです。自分の持つ「もちがせ週末住人」のコミュニティや大山町地域おこし研究員としてのポジションを活かして、この状況下だからこそ生み出せる楽しさと探索して、それを共有していくことを、地道に楽しく続けていきたいと思います。
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