僕にとっての「地域」の位置づけ

もう、2019年の振り返りも書いてしまった後だけど、ここ数日間で祖父母や両親、そして弟たちと話していて改めて感じたことを少しだけ書いておきたい。それは、ずっと違和感を感じながら言語化しきれずにフラストレーションを溜めている「僕は別に”まちづくり”とか”地域活性化”に取り組んでいるわけではない」という感覚の核心に少しだけ近づくものかもしれない。

東京都日野市にある実家から出て、人口最少県鳥取の大学に進学したのは2015年4月。鳥取暮らしももう少しで丸5年が経とうとしている。別に興味があるからとか、いろいろと活動してきたからとか関係なく、日常の生活の中で減少社会の最前線のリアル(課題も価値も)を実感できる毎日を当たり前のように過ごしている。

銀行の支店が閉まっていくとか、空き家はあってもなかなか賃貸にならないとか、ネットよりも影響力のある知り合い情報ネットワークが無数に張られているとか、90歳になっても元気に畑を耕しているおばあちゃんの眼は満員電車の中にすし詰めのサラリーマンより輝いているとか、世界を相手にビジネスを展開して儲かってる企業もあるとか、みんな役場職員や議員に何人かは知り合いがいるとか。

そんな暮らしの中でずっと感じてきたのは、これらは鳥取だけに限った話ではなくて、日本中あらゆるスケールで生まれてる暮らしのリアルでしかないってこと。都市と地方という比較をしてしまうと両者の違いを探しがちだけど、結局社会は課題と価値がせめぎ合いながらカタチづくられているわけで、それは動的なものなんだという点では、東京ですら同じだと思う。

でも、東京のような大きな都市では、構成する要素が多すぎる上に、その流動性が大きすぎて、僕たち個人が全体像を認知するのはとても難しい。一方で、鳥取のような地域では、社会の全体像を個人でも認知のしようがある。今を認知するだけでなく、未来を描くこともできる。その未来を実現するにあたっての不可抗力的な要素も予測の範囲にある。たぶん、そこに鳥取のような地方地域の可能性が詰まっていると思う。


「まちづくり」とか「地域活性化」ってものすごく空虚な言葉だ。そういう表現をしたとたんに、”コミュニティ”とか”イベント”とか”わくわく”とか”企画作り”とか”魅力発信”とか、なんかそういう「お金にはならないけど楽しいことやろうぜ」とか「まあ、暮らしていけるお金は好きなことで稼いで、あとはスローライフ楽しみたいの」とか「人が優しいのが地方の魅力です!」みたいな空気感に吸収されてしまう。

(批判ではないです。そういう生き方、とっても素敵だと思ってます。でも、自分が地方に着目する理由はちょっと違うから、迎合しても仕方ないっていう自分への戒めです。)


僕の捉えている地域は、政治・医療・教育・農業・ビジネス・研究・エンタメetc あらゆる分野と並立で語られる「まちづくり・地域活性化・地方創生」ではない。あらゆる分野と、”実験地”として直列的につながるものとして語りたい地域の持つ可能性だ。だからこそ、大義名分として「(この)地域のために」ということはあっても、常にその先には「自分や自分の子どもたちが生きていたい未来の社会をつくるために」という本音がある。

このニュアンスの違い、果たして伝わるんだろうか?
まあ、言葉で伝えるのには限界があるうえに、まだなんの実績も作れていないので、自分のための言語化は定期的にしつつも、口よりも手足を動かして自分のビジョンを形にしていくことに資源を費やしていきたい。

よろしければサポートをお願いします!いただいたサポートは新しい記事執筆のお供に充てさせていただきます🙌🏻