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偶然の答え

「偶然の答え」のMVが公開されて数日が経つ。

ラジオ音源でこの曲を聴いた時は純粋に美しい曲だと感じた。ややゆっくりしたテンポで進む恋愛曲で、シンプルな解釈をすると、偶然の出会いは運命の出逢いだった?という含みを持たせて終わる歌詞になっている。

歌詞に登場する「秘密」は、自分の知らなかった感情「恋」の表出を示唆していると解釈するのが自然だ。秋元康の歌詞の世界観においては、主人公の「僕」が「君」と出会って変化するモチーフがよく使われる。二人セゾンにしろ、君の名は希望にしろ、自己の他者とのつながりが世界との接点になるというテーマは普遍的で万人受けしやすい。

ただ、どうも今回の偶然の答えのMVは演技シーンが含まれており、そのような歌詞の解釈とは印象がガラッと変わった感がある。

あの頃の私は、自分ではない誰かになりたいと思っていた

という意味深な独白から始まるMVは、藤吉夏鈴演じる主人公と永瀬莉子さん演じるりこの電車のホームでのシーンに切り替わる。
深刻そうな表情で主人公が「好きなの」と打ち明けるのに対し、何の躊躇いもなく「私も好きだよ」と笑顔で返すりこに嘘偽りの感情はない。ただ、二人の間の“同じ”二文字の感情は異なった趣きを携えており、主人公はすぐさまそれを悟る。

「そういうんじゃなくて」という必死な訴えには、「分かってもらいたい」という切実な願いだけでなく、自分の性的嗜好が“特別”なものとして受け入れてもらえないかもしれない不安と恐怖の感情も見て取ることができる。

これに対する永瀬さんの感情の変化を反映した表情の変化が絶妙だ。ただ二人でいると楽しくて幸せで、そんな日常が一瞬にしてぎこちなくなる瞬間。かりんを傷つけたいわけじゃない。ただ何と声を掛けていいか分からなく立ち尽くしてしまう。居たたまれない空気感。それが見事に表現されている。

おそらく、脳内では、「えっ、まじか、え、待って、そ、そんな、どうしたらいいの、どうしよう」という感情が1秒くらいの間に渦巻いている。恋愛的な感情を打ち明けられて、その衝撃に関係がぎこちなくなってしまう様が非常に短い時間で描かれている場面だ。

曲がスタートすると、櫻坂46のダンスパートと交差するように、主人公とりこの出会いから、関係性の進展と深耕が描かれ、次第に主人公が自らの“秘密”の感情に気付くようになる。その雰囲気を夏鈴ちゃんは上手く演じているように感じる。

2番に入るとまた電車のシーンが戻ってくる。沈黙の時間の後、話しかけようとした主人公に対して「ごめん」と言って電車に乗り込むりこ。その「ごめん」という言葉は、「かりんの気持ちには応えられない」というシンプルな断りと解釈することもできるが、私はむしろもっと複雑な感情を「ごめん」という三文字に集約したように思えてならない。断りというよりは、申し訳なさに近いかもしれない。

自らが親友からそのような告白を聞いたとき、どのような感情になるだろうか?想像してみてほしい。決して相手のことは否定したくないだろう。だからといって自分に相手の気持ちを受け止め切れるだけの想いも覚悟も度量もない。そんなときに咄嗟に出る言葉は「ごめん」ではないだろうか?

さて、感情を打ち明けたは良いものの、ぎこちない関係になってしまった二人。何かプツンと糸が切れたかのように感情を爆発させ鞄を投げつける主人公。どこかモヤモヤを抱えたまま勉強に身が入らないりこ。
そんな中、役者の養成所に通うようになった主人公には、果たしてどのような感情の変化があったのだろうか?

そこで繋がってくるのは、冒頭に出てくる「あの頃の私は、自分ではない誰かになりたいと思っていた」というモノローグだ。自分ではない誰かになれると言えば役者のことを指してまず間違いなかろう。役者になることで自分以外の人の感情を体感したり、自分以外の人が感じるであろう恋愛体験をすることができる。だとすれば、自らの恋愛感情に蓋をして(あるいは失恋として受け止めて)、自分ではない誰かとして生きることを志向したと解釈できる。

しかし、役者として生きる道を選んだとして自分以外の誰かに“なる”なんてことはできるのか?それは自分自身の感情に嘘をついて生きることにならないのか?

という深刻な疑問に葛藤し、涙を流しながらも前を向くしかない主人公(ある種、櫻坂46の一員として衣装を着てそこでパフォーマンスをしていること自体が役者として自分以外の誰かを演じている演出と解釈することもできる)。

苦しみながら歌が終わり、暗転。りことたまたま再会を果たした主人公が、発した「かわいいね」という一言は、果たして本当に犬に向けて発されたものだっただろうか?
りこの愛犬を愛撫する主人公の優しそうな表情が夏鈴ちゃんの儚げな魅力とマッチして非常に感傷的なシーンだ。

それに続いて、東京に行くことに関して彼女は「役者を目指そうと思って」という意志を伝えるものの、りこの「どうして?」という問い掛けには答えない。そんなことは言えるはずもないのだから。

無音のスペイン坂を歩く夏鈴ちゃん。その姿はそれまでと違い堂々としているようにも見える。彼女が坂を下りながら振り返った先に見えたのはなんだったのだろうか?

含みを持たせて終わるMVの解釈は多様だ。しかし、希望的観測であったとしてもハッピーエンドを望む自分がいる。だって、それまでの彼女は自分の感情を内にしまったまま自分とは違う誰かとして生きなければならないのだ。そんな悲しい結末があって良いだろうか?

という感情的な解釈もひとつではあるが、冒頭のモノローグを振り返るとヒントのようなものがちゃんとある。主人公は「あの頃の自分は」と過去を振り返って言っている。つまり、りこに感情を打ち明け、関係性がギクシャクし、自分ではない役者を志すと決めたあの頃のことを回顧している。とすれば、今は違うと解釈するのが自然だろう。

そして今は違う以上に具体的な証拠というものはない。だから、振り返った先にりこがいたと解釈するのもドラマチックで良いと思うし、また偶然の出会いがそこに待ち受けているという解釈も良いと思うのだ。大事なことは、主人公が誰かを好きになるという感情を押し殺すことなく、自分の人生を見つめて生きることができているということだ。そしてその恋が社会的にあるいは倫理的に相応しくないと烙印を押されるようなやましいものではないと、自らが自信を持って生きることのできる社会があるということだ。

私たちが生きている社会は多様性の社会だと言われる。様々な思想や嗜好や価値観を持った人をそれぞれが尊重しあいながら生きる社会である。しかしながら、現実はそこまで綺麗事ではなく、自分とは違う他人を差別することでしか生きることのできない人がいるのも事実である(そしてそれは多かれ少なかれ全ての人間に当てはまる)。

私たちの社会においては、規範的な男性性や女性性に人は無意識のうちに縛られながら生きている。なぜなら、無意識の言動が社会システムに適合的であれば、それに疑問も抱かず“心地良い”と感じ、それに逸脱するものは「気持ち悪い」と感じる傾向が私たちにはあるからだ。その感じ方が特別“間違っている”とは私は思わない。ただ、私たちは規範的なジェンダー観によって抑圧されてしまう人たちが少なからずいることを次第に知るようになった。多様性を少なくとも信奉する限りにおいて、そのような人の感情を慮る努力をするべきだろう。ただし、様々なジェンダー観を持った人は誰かが特別というわけではない。誰もが対等に生きる権利を持っている。特別に優遇されることを望んでいるとは限らないのだ。

もちろん他人の感情など簡単には分からない。しかし、私たちは間違えたとしてもやり直せる。誰かを切り捨てたりするのではなく対話することでしかこの混迷の時代において誰かとともに生きていくことはできないのだ。多様性と言っても、たいていの部分は皆一緒だということを丁寧に思い起こしてみる必要があるのではなかろうか?

終わり