いつも私は二人いて、剥き出しの脳みそは、かき氷
私は某所の有名なエリート幼稚園に在学している超エリート幼稚園生です。ですが、脳みそ剥き出しの高校生でもあります。これは、どちらか1つが嘘という事では決してありません。エリート幼稚園生の私と、脳みそ剥き出しの高校生である私。2つの事実が同時に存在するのです。今の私は限りなく幼稚園生に近い存在です。その私にとって、脳みそが剥き出しの私は非常に疑わしい存在です。なぜなら私は今頭頂部からしっかり髪が生え揃っていて、左右でおさげにしているからです。この事実は疑い難い…と言いたい所なのですが、おさげの私という事実すら、私は疑ってしまうのです。なぜなら、高校生の私という意識が、脳みそ剥き出しな私という存在の証明になっているからです。これを疑うというのは、同時に幼稚園生の私も疑わざるを得なくなるという事になります。
私は、幼稚園生の私と意思疎通を図る事が出来ます。それと同時に、高校生の私とも意思疎通を図る事が出来ます。自分自身が曖昧でありながら、2つの自分が存在するという事実が消える事はありません。今の私は、高校生なのかもしれません。そして、幼稚園生でもあります。
私の脳みその形状は、特殊ではありません。そして、特殊でもあります。私の脳みそは整った球体の幾何学模様のような形をしていて、その1部は宙に浮いているようにも認識出来ます。ですが、浮いている部分が無く、一般的な形をした脳みそであるという事実も同時に存在します。自分でもおかしいと思っていて、自分でもおかしいと思っているそうです。それ程までに、私達の境界は曖昧なのです。
私達は、やろうと思えばいつだって意思疎通を図れますが、お互いがお互いの境界をはっきりさせる為に、紙にペンで文字を書いて、やり取りをします。
片方が紙に何かを書いてる時は、自分が今何も書いていない状態に近いと認識した方の自分は眠るようにと約束しています。
ある朝の事です。いつものように机の上に置いてある紙に目をやると、そこにはいつも通り、私に何らかの意志を伝える文字が書いてありました。
「中学校で、今日もかき氷のように崩れて溶ける自身の脳みそをみんなは嗤う。このどうしようも無い毎日から解き放たれる時が来るのか、私である貴方にはわかりますか?」
高校生でも幼稚園生でも無い、存在を認識した事が無い中学生の私らしき何かが助けを求める文字は確かにそこに在り、脳みそという共通点がありながらも、それがどちらの私でも無い何かが書いた物だという確信がありました。私の認識外にある時点で、この文章は私の知る私が書いた物では無いという事実だけは、揺らぐ事が無いのです。そこで私はお互いに”それ”を、”向こう側の私”と定義する事に決めました。信じ難いですが、これまでも私の認識外に私がいて、私は二人だけの私では無かったのです。”向こう側の私”を認識した時点で、幼稚園生だと自認している私自身が拡張されたとも言えます。それは高校生の自分にも、向こう側の自分にも言えます。
“向こう側の私”の存在が判明した事実が意味するのは、向こう側にもう1人私がいたという事ではありません。他にも、認識していない無数の私が存在する可能性が示唆されたのです。
そこで私は、あの紙に書かれた文面を思い出して、怖くなりました。「かき氷のように崩れて溶ける自身の脳みそ」…。私はこの手で数え切れない程存在する無数の私の内のほんの1部でしか無く、いずれ簡単にかき氷の欠片のように崩れて消えてしまう時が来るのでは無いか、そう思わずにはいられなかったのです。私の境界線はどんどん曖昧になっていき、かき氷に恐怖すればする程、私の脳はかき氷に近付いていきます。その日の夜は、とにかく”向こう側の私”を否定しようと必死でした。
その次の日の朝。私は私とは違う脳みそ剥き出しな高校生の強い意志がいつものように記されている事を願い、紙に目をやりました。
「おはようございます。私はエリート幼稚園に在学している、”左側の私”です。私には、脳が剥き出しであると自認ている高校生の不思議なパートナーがいます。そしてこの文章を”右側の私”である貴方が認識した時点で、私の存在は証明されます。私は貴方であり貴方では無いので、その先は貴方にしかわからない未知の領域です。私は私自身に全てを託し、私にとって、大切な何かが変わる事を願います。より良い未来を願って。」
私の願いは、皮肉にもこの文章により打ち砕かれました。この文章が、今ここにいる私が書いた物では無いという事実は、私が今初めて認識した時点で絶対的に保証されています。そこで私は、自分が”右側の私”で、向こう側に私とよく似た”左側の私”が存在する事を理解しました。理解なんて、したく無かったです。理解してしまった時点で”右側の私”はパートナーとの境界が限界まで薄れ、脳がかき氷になってしまうのですから。そしてそれは、”右側の私”と”左側の私”の境界線すらも薄れ、溶けて融合する事を意味します。私がかき氷への恐怖を自認しなければ、こんな事にはならなかったのかもしれません。
融合した瞬間、私はこの私の中の世界において”右側の私”と”左側の私”が1番近く、1番遠い位置に存在していた事を理解しました。そしてその私との融合は、即ち私がこれまで認識していなかった全ての私との融合を意味します。その時、私は私の全てを理解してしまったのです。
私は本当は、女性ではありません。ですが同時に、女性でもあります。私は魔法少女の社会人であり、エリート幼稚園生でもあります。私は脳みそ剥き出しの高校生であり、脳みそかき氷の中学生でもあります。
全ての私は私が認識する限り同時に存在します。全ての私が私とは違い、全ての私が私そのものでもあります。
全ての私が1つであるという事実を1度認識した以上、その事実が消える事はありません。
私は過去に絵本で、ドッペルゲンガーの話を読んだ事があります。ドッペルゲンガーとは、自分と何から何まで瓜二つの存在で、それと出会うと、死んでしまうのだそうです。そして、その話を認識していた時点で、それが嘘だと思う自分と同時に、真実だと確信する自分が存在する事が証明されるのです。なぜなら私は、私の全てを知ってしまったから。
ドッペルゲンガーの話が私の中で1つの事実として証明された時点で、私の死は確実な物となりました。その話は、全ての私にとってあまりにも真実味があったからです。この死は、私の世界において、最初から決定付けられていたのかもしれません。
せめて最後に、私が見てきた私の全てを文章に残す事にします。次にこの文章を見る認識外の私はもう存在しないので、私以外の存在でも見る事が出来るインターネットに放流しておく事にします。これを見ている私で無い誰かも、この文章を読むと同時に、自身が”私”である事を認識してしまうかもしれませんね。
より良い未来を願って。
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