震災から10年、福島から海外へ避難して〜Ⅶ 3月16日 和歌山到着!
Ⅶ 3月16日
1.いよいよ和歌山到着!
名神高速を通り、京滋バイパスを経由し、近畿、阪和自動車道を通りました。奈良に住んでいた時は、もと旦が伊勢湾岸、東名阪自動車道、名阪国道を通っていたのですが、今地図を見れば、和歌山へもそのルートで行った方が近かったかな、と思います。でも、あの時はゆっくり考える時間もなく、ナビもないので、とにかく即決して行くしかありませんでした。
一度、パーキングで10分程の仮眠をとりましたが、あとは休まず走りました。近畿自動車道では大型トラックが多く、車の流れが速いこともあって、怖かったです。
もう関西に着いたという安心感もありましたが、地震がいつ西まで来るかという恐怖感にかられ、とにかく早く着きたいという一心でした。横で母も、一睡もせず、ときどき足や体が痛いと言いながら体をもぞもぞ動かしていました。
3月16日の早朝、5時前になっていました。とうとう和歌山の海南東インターに来ました。あとは、紀美野町の祖父母の家まで7年前に1回、それから20年以上前に母に付いて何回も通ったことのある道ですから、はっきり記憶はしていないものの、もう大丈夫だと思いました。
インターを降りてすぐのローソンに入りました。朝食のおにぎり、パンと即席みそ汁を買いました。男性の店員さんが二人いました。福島から避難してきたと言ったら、びっくりしていました。母は長時間車で同じ姿勢をしていたので体が痛い、足が動かない、と足をたたいていました。
自分で運転していくのは初めてですが、海南から紀美野町までの道を、順調に進みました。
午前5時20分ごろ、ようやく母の紀美野町の家に到着しました。
でも、まだ暗かったし、こんな朝早くに大勢で外に出ると近所迷惑だと思い、しばらくは車の中で待機していました。私は友人に、到着メールを打っていました。しかし、子どもたちはみんな起きていて、もう待ちきれず、5時40分ごろ家に入りました。
古くて人の気配のない家ですが、開けたら安堵感と懐かしさがこみ上げてきました。思ったよりほこりっぽくなく、物も少ないので、安心しました。
まずは荷物を一か所にまとめました。そして、仏壇の前にみんなで座り、ご先祖様にご挨拶とお礼のお祈りをしました。
これで、ほんとうのほんとうに、安心しました。この家にいると、いつでもおじいちゃん、おばあちゃんが見守ってくれているような気がします。
初めから、この家に来る運命だったような気までします。きっと、おじいちゃん、おばあちゃんが、私たちが無事に着けるよう、導いてくれたのでしょう。
感謝、感謝の逃避行でした。
2.和歌山の人はあったかい!
荷物を車から入れ、片づけをしていると、朝早いにもかかわらず、隣家のMさんが駆けつけてきてくれました。私たちが6年前に奈良から福島に行ったことはご存じだったか分かりませんが、福島ナンバーを見て来てくれたそうです。
本当に心配そうな顔で、「大丈夫なの?」と聞いてくれました。
「大丈夫です。うちは津波にも遭わなかったし、家も壊れなかったですし。ただ、原発から逃げてきただけなので。」
「なにか助けが必要やったら言うてよ。遠慮せんといてな。」
「ありがとうございます。」
しばらくしたら、母の従弟もやって来ました。家の前を通りかかったら車が置いてあったから、と言って。母が寒がっていたので、すぐに、石油ストーブと石油ファンヒーターと、灯油を持ってきてくれました。
もう一人の母の従弟の奥さんも、さっきの従弟から聞いた、と言って、家にあった食料品を持って駆けつけてきてくれました。
近所の民生委員さんも「何か困ったことがあったらいつでも言って下さい。」と来てくれました。
近所の方も、差し入れや、子どもたちに本を下さったりしました。
みんな心配し、あたたかい言葉をかけてくれました。
移動販売のおっちゃんも、「放射能はあかんで。おっちゃんの頭みたいになってしまうで。」と禿げ頭を叩いて笑わせてくれます。
ほんとうに、和歌山は、気候も人も、あったかい土地だなあと感激しました。
今まで、福島ナンバーで、差別されたことは一回もありません。むしろ、みんな心配し、暖かい声をかけてくれました。感謝、感謝です。
3.【3月16日の原発と深刻な放射線量】
私たちが和歌山の家に入った3月16日午前5時45分頃、福島第一原発4号機で前日に出火した部分で再び出火しました。10時以降、放射線量が上昇し、同40分には正門で10ミリ(1万マイクロ)シーベルト/時、また12時30分にも正門で10.85ミリ(10850マイクロ)シーベルト/時という、とんでもなく高い値のガンマ線が検出されました。「圧力抑制室が破損した2号機が原因である可能性が高い」と原子力安全・保安院の記者会見で説明されました。
福島県災害対策本部によると、21時発表の第一原発から20 ~ 40キロメートルの地域での観測では、飯舘村役場の0時での38.3マイクロシーベルト/時が放射線量の最高値だったそうです。この時点ですでに、原発から30キロメートルの避難区域を超えた飯館村で最高の放射線量が検出されたことが分かっていたにも関わらず、飯館村の住民が避難したのは4月15日になってからです。遅すぎると言わざるを得ません。