食という障害と共に生きるワタシ
さてさて
ここ数日私はフェイスブックにプライベートを書き込んでいる。
この何年控えてきた事だ。
この数日の書き込みをみて
「へー」とスルーの人もいれば
「わかるわかる」の共感もあるであろう。
でも人は人。そのあたりは私はひねくれてしまったかもしれない。
そして「生きる」だ「死ぬ」だの言葉から
「あーikuraさんは育児や離婚で苦しんで
死のうとした事があるのね」位の
想像を持たれた方もいるかもしれない。
実際、近いところはあって
私は二年前の5月、死に直面した。
奇跡的にたすかった私は
まだ生かされるべき命だったのだと思う。
そしてその経験から人が本当に死に直面したときは
「こわい」とか
「だれかの顔をおもいだす」とかではなく
本能が一番「死」を拒絶するのだと知った。
イキモノは「生きるため」に命をさずかり
是が非でも生きようとする。
そこからの私の日々の人生は
雑な言葉で言えば「もうけもん」。
だってあの時私の命は終わっていたかもしれないから。
なのでね。その分命を大切にしないといけない使命
十分に人生を楽しむ必要があるのであるのですよ。
ちなみに事実、私が病んできた根っこは
「育児」や「離婚」やらそこではない。
もちろん全てが重なり合って最後の大爆発が起きたのだとは思うが。
私の心を虫食んできたのは
まぎれもなく
「食」
である。
私はお仕事としても「食を通して生きる」ための、
すべを伝えているので
自分が「食」でコントロールできない
「食」に支配されてきた事を世間にとても言いずらかった。
弱い自分をさらけ出すようで怖くて怖くて仕方なかった。
私は10歳の頃から様々な事情で
自尊心を損なわれすぎた事による
自己否定の極地と共に
「摂食障害」を併用して生きてきた。
それは「性格」とまぎらわしいので、なかなか世間にも自分自身でも理解出来ないものであり
他者に「共感(理解)してもらいずらい」障害である。
私の摂食障害はおもに「過食」。
不安がかかると食べずにはいられない。
ここで1つはっきり言える違いは
「摂食障害」とは「食べ過ぎ」「食欲過多」ましてや「食いしん坊」などとは全く別レベルという事。
頭の中がすべて「食」で洗脳され
食べても食べなくても不安感と劣等感と、
自分への否定ともうどうしようもうないパニック精神状態に襲われる。
そして「過食」症状の摂食障害は
一日「食」ですべてが消費される。
なにをやっても食べ続けないと不安でしかたがない。
お金も、時間も、すべてが食に費やされる。
人と話す、寝る、散歩する、掃除する、全く出来なくなる。
食べ過ぎて、血行不良になり
体も心底冷える。
それでも「食べる事」が収まらないのである。食に全てのものを費やす劣等感と罪悪感、と自己否定。
まさに「食」という道具で
自分の手で自分を殺すような感覚なのである。
泣きながら食べる。
凍えながら寒さを感じながら、食べる事をつらいと思いながら
手は口に食べ物を誘い胃にひたすらつめこむのである。
これはどうにもこうにも
体験した人にしか分からない恐怖だと思う。
誰の手でもなく、
いつでも自分自身が殺人鬼と感じるのである。
摂食障害の特徴として「依存性がある事」「生真面目である」
「人前では絶対に症状をみせない」という事がある。
私が、友人にも家族にさえもきずかれなかった要因がそこにある。
きっともしかしたらあなたの隣の人もそうかもしれない。
それくらいきずかれない病気なのだ。まして今のご時世、人が人に頼りずらい。話ずらい。
自分の想いや苦しみは後回しにしがちである。
ましてこの「きちんとした」日本で
自分を大切にする行動を優先しようものなら
「自分勝手な人」やら
「自分だけの都合が良い人」
などいわれかねない。
それも一理。
その意見も世間を共有していくのは必要な事なのかもしれない、と理解も出来る。
でもね、出来ない人もいるんですよ。
したくても出来ない。
しようとすると「生きる」ことに支障が生じちゃうんです。
だからまずは
「自分が自分を保護する事」
「自分だけは自分を責めない事」
本当に大切。
書けば書く程切りがない。
きっとどこの世界にも偏見や差別があって
「あなたは摂食障害じゃないからわかないでしょ」と
家族や友人をののしる事もあれば、
きっと摂食障害同士でも
「あなたは拒食のつらさがわからないでしょ」
なり言われかねない。
なんでも比較をしてどこの世界でも
分裂はおこるものだと思う。
結果的な事を話すと、
私は30年近くそんな生き地獄と戦ってきたが
この2年間に急に転機が訪れだしたという事である。
「過食」から「食べ過ぎ」に移行しつつある。この違いは分かる人だけに伝われば良いニュアンス。
それは偶然でもあり、
治るとさえ思ってもいなかった自分への奇跡であると思う。
極地の極地に行き当たりすべてが溢れ出してくれた。あふれてくれた本能に感謝している。もちろん今も完治はしていない。
実際ここ最近も体調が優れず食生活の管理がうまく出来ない。この病気と障害は、性格とも重なるので
一生「治る」ものではないし
事実今でもなお心に負担がかかると
多いにかげりのある生活を続けている。
その度に、「またくりかえしたらどうしよう」
「死にたくない」という恐怖におそわれる事がある。
なので安易にヒトになげかけは出来ない。
ましてこの日記が反応があってもなくても
「怖さ」は比例する。
数日後、いや数分後には削除しているかもしれない。
かといえ「治らない」のだから
私が「聖人」になるのを待つ意味もなく
いまのままの中途半端でも30年近く体験してきた
想いは発信をしてもいいのではないかと思っている。
実体験として知っている私の言葉や想いは
さぞ賢い研究者の良い研究材料にもなるであろうし
今も苦しむヒトの気持ちはすくなからず代弁出来るであろうと思っている。
ここ数日、いやこの1、2年。
発信すべきだ、伝えるべきだ、同じ想いをしているヒトに
なにか役立てば、という想いがあふれて止まらなくなってきている。
100人のうち1人
1000人のうちの1人かもしれない。
発信する事はなにも意味がないかもしれない。
それでも
だれがなにかを見つけてくれるかもしれない。
誰かのココロが救われますように。
それはこういう事実は本人だけでなく近くで支えるご家族のココロも苦しめるものだから。私が命を助けられてきたように
だれかの役に立てるになれるのなら。
追伸
ふときずけば明日は新月。
「想いを発信したくなる」時でした。
膿をだしてまた一歩。
私もまだまだ手探り中です