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養生訓を読む

はじめまして。
育プロ受講生、助産師のRです。
一度は読んでみたかった貝原益軒の養生訓を一緒に読んでみませんか。
ここでは私が読み解いた養生訓について、私見も混じえながらお話ししていきたいと思います。

初回の今日は、貝原益軒とはどんな人物だったのか、簡単にまとめてみたいと思います。

【生い立ち】
*江戸時代の福岡藩の儒学者
*寛永七年(1630年)に福岡城内の東邸に生まれる
*幼い頃母親を亡くしたが、父親や兄の人柄、地行婆(今でいう家政婦)のお陰か、温厚な人格であったと言われる
*幼い頃から読書好きであった
【青年期】
*慶安元年(1648年)、藩主黒田忠之に仕え、四人扶持を与えられるに至ったが、忠之の怒りにふれ(理由は不明)、慶安三年には免職されてしまう
*その後7年間の浪人生活を送ることになるが、その間は学問を蓄積する機会となった。
*年老いた父親の世話役として、25歳で江戸に向かう。
*江戸藩邸に父と同居しながら医学や儒学などの学問に力を入れた。その学力を認められ、明暦二年(1656年)、藩主黒田光之に六人扶持でかかえられることになり、藩の命で京都で学問修行をすることとなった。
【福岡への帰郷】
*寛文四年(1664年)、藩命で福岡に帰郷。藩士のために講義を行う御用学者となった。
*寛文八年(1668年)結婚
*17年をかけて『黒田家譜』編纂
*15年をかけて『筑前国続風土記』を完成させる
【晩年】
*益軒に子はなく、甥を養子に迎え、70歳で家督をゆずった。
*御用学者を退いた後は執筆活動に励み、一生をかけた学問を庶民に理解できる形で残そうと取り組んだ。
*『養生訓』もその一つであり、益軒83歳の時に書かれたものである。
*愛妻が亡くなった後、彼女を追うように翌年84歳で亡くなった。

いかがだったでしょうか。
次回は養生訓の目次を見ながら、益軒が何を私たちに伝えたかったのか俯瞰して見てみましょう。

では、皆様よい一日を。
読んでくださってありがとうございました。

参考資料
貝原益軒 編訳者前田信弘 
『養生訓 すこやかに生きる知恵』
発行所 日本能率協会マネジメントセンター

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