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「移動する子ども」/メモランダム②

 前回に続き、今井むつみ・秋田喜美著『言語の本質―ことばはどう生まれ、進化したか』(2023、中公新書)を読む。今回は、第2章と第3章のメモを書いておく。ただし、以下は本書の要約ではない。私の研究に参考になるところのメモである。詳細を知りたい方は、本書を実際に読まれることを薦める。

「幼少期より複数言語環境で成長する子ども」に関心のある私にとって、本書の第2章で、オノマトペと、赤ちゃんが言語をどう認識するかという議論が興味深かった。

オノマトペのアイコン性

 著者らはチリで行われた実験の結果を紹介する。スペイン語環境で育つ生後平均4ヶ月の赤ちゃんに、「リ」「ロ」「フィ」「フォ」「ディ」「ド」などの音声を聞かせ、同時に、図形(丸、楕円、四角、三角)を見せる実験である。この実験で、「赤ちゃんの視線を計測した結果、iを含む音声よりもoを含む音声を聴いたときのほうが、大きいほうの図形を長く見ることがわかった」(p.34)という。さらに、「eよりもaを含む音声を聴いたときのほうが、大きい図形を長く見た」という。この実験から、「言語経験がほとんどない」、つまり言葉を発することがない赤ちゃんですら、「母音と大きさの関係性に気づいていることを示している」(p.35)という。

 次に著者らは、NHKの番組「課外授業 ようこそ先輩」に出演したある専門家が、授業を受けている子どもたちに、手を使ったジェスチャーと音声のオノマトペを駆使して説明している様子を分析する。その結果、次のことがわかると、主張する。

「オノマトペとは聴覚を軸としながらも、ジェスチャーという視覚的媒体と対をなす、マルチモーダル(多手段的)なコミュニケーション手段なのである。このマルチモーダル性は、オノマトペを絵や絵文字よりもむしろ音声つきのアニメーションに近づける」(p. 38)。

 つまり、オノマトペは、聴覚と視覚が連動して「音声つきのアニメーション」のように意味伝達を映像化する力があるということである。これが、オノマトペのアイコン性である。

オノマトペの脳活動

 著者らは、このオノマトペのアイコン性を、脳活動から考える。

「音の処理は側頭葉の上側頭溝周辺が大事な役割を担う。言語の音の処理は左半球側、環境の音は右半球側の上側頭溝という役割分担があることもわかっている。オノマトペは、言語でありながら、音真似のように音や動きを写し取ることばである。ということは、オノマトペは言語音と環境音の処理が並行して行われるのではないか」(p. 39)と考え、実験を行う。

 その結果、次のことがわかったと主張する(実験の詳細は本書を参照)。

「音象徴、そしてオノマトペには、言語の差を越えて感知できるアイコン性と、各言語にチューニングされて、その言語の話者だからこそ感じられるアイコン性が共存するのである。」(p. 51)。

この指摘から、音とオノマトペには、エミック(emic)なアイコン性と、エティック(etic)なアイコン性があるということがわかる。これは、言語の進化や、複数言語環境で成長する子どもの言語習得を考える上で重要な視点となろう。

著者らは言う。

「オノマトペは、その語形・音声や非言語行為のアイコン性を駆使して、感覚イメージを写し取ろうとすることばなのである。オノマトペにおいては、アイコン性が高度に体系化されている。日本語には日本語のオノマトペのアイコン性が発達しているため、非母語話者には共有しにくい感覚が存在する」(p. 52)。

オノマトペは言語か
 
 著者らは、オノマトペが言語であることを論じていく。そのため、口笛や咳払い、音真似、泣き声などとオノマトペを、言語の十大原則(コミュニケーション機能、意味性、超越性、継承性、習得可能性、生産性、経済性、離散性、恣意性、二重性)から比較しながら、オノマトペが言語であることを論じる。

 このような考察がなぜ必要か。著者らは次のように言う。

「2000年代以降には、言語学の中で、そもそも言語は恣意的でなければならないというソシュール・ホケットの考えに反対する考えが次々に表明されてきており、言語が身体につながっていることを示す実証データが蓄積されるようになった。つまり、言語の恣意性というゴールドスタンダード自体が揺らぎ、「言語は身体的である」という理論が広く受け入れられるようになってきたのである。」(p. 89)

*ソシュール(フェルディナン・ド・ソシュール:F. de Saussure. 1857-1913.  スイスの言語学者、記号学者)。
ホケット(チャールズ・フランシス・ホケット:Charles Francis Hockett. 1916-2000.アメリカ合衆国の言語学者。アメリカ構造主義言語学の代表的な学者)。

 ここで指摘される「言語は恣意的でなければならない」というのは、言語の形式と意味の間の関係は恣意的、つまり必然性がないと捉える考え方である。日本語では犬、英語ではdogというのは、必然がないから、それぞれの言語習得の際には、その恣意性に納得して、学習者は一つ一つ覚えていかなければならないと考えてしまう。私は、このような言語の捉え方は、日本語教育においても、これまで一般的だったように思う。だから、そのような言語の捉え方をする日本語教師は日本語学習者に一つ一つ覚えることを強いてしまうし、そのような言語の捉え方は日本語教師の教育観の「理論的な根拠」がになっていたのかもしれない。

 ここで言う「言語は恣意的でなければならない」から「言語は身体的である」という言語の捉え方の理論的転換は、非常に興味深い。なぜなら、子どもの言語習得を考える上でも、新たな視点になるからである。

 本書の著者らは、「子どもの言語習得におけるオノマトペの役割を明らかにした一連の研究と、オノマトペの脳内処理に関する研究」に注目する。
 
その上で、「言語は身体とつながっているという考えにとって、言語的な特徴を多く持ちながら、言語でない要素もあわせもつというオノマトペの性質はうまく合致する。」(p. 90)という。

「言語はあくまでも極度に抽象的な記号の体系である。このことは間違いない。すると、身体と、言語という抽象的な記号の体系の間を、何かで埋める必要があるのである」(p. 90)。

「言語の特徴を持ちながら身体につながり、恣意的でありながらもアイコン性を持ち、離散的な性質を持ちながらも連続性を持つというオノマトペの特徴は(中略)言語の進化においても、今を生きる子どもの言語の習得においても、オノマトペは、言語が身体から発しながら身体を離れた抽象的な記号の体系へと進化・成長するつなぎの役割を果たすのではないか」(pp. 90-91)と主張する。

 このことを、子どもの言語習得において考えるため、著者は2〜3歳の子どもとその親とのやりとりを観察した結果、次のことがわかったと言う。

「親はその場にあるものよりも、ないものを言い表す際に、オノマトペやジェスチャーを多く用いた。オノマトペとある種のジャスチャーは、ともにアイコン的な記号である。親のこうした行動は、対象との類似性を頼りに、子どもをイマ・ココを超えた世界へと誘(いざな)うのだ」(p. 91)。

以上を踏まえて、次回は、「子どもの言語習得1」を読んでみたい。 

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