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MY BOOK REVIEWS⑪公共日本語教育学―社会をつくる日本語教育

このシリーズの11冊目にレビューする書籍は、『公共日本語教育学―社会をつくる日本語教育』(2017、くろしお出版)。

 この書籍のタイトルから話を始めよう。「公共日本語教育学」という名称は、私が新しく作ったもので、日本語教育学界では初めてであったと思う。

 なぜ日本語教育に「公共」を冠したのか。実は、この本を出す数年前に、東京大学の文化人類学教室の主任教授、山下晋司先生から原稿依頼があった。それは、「公共人類学」をテーマにした本を出すので、「難民」をテーマにした章を書いてほしいというものだった。

私は、日本在住の「ベトナム難民」についての人類学的調査を行い、博士論文を書き、日本文化人類学の学会誌に論文を発表し、本も刊行していた(MY BOOK REVIEWS①参照)。また山下先生の他の研究プロジェクトにも参加したことがあった。しかし、それまで「公共人類学」(public anthropology)という領域は馴染みがなかった。私だけではなく、日本にいる文化人類学者の多くはこの領域に関心がなかったと思われる。だからこそ、山下先生はこのテーマの本の刊行を考えたのだろう。その後、14章からなる『公共人類学』(山下晋司編、2014、東京大学)が無事に刊行され、多くの注目を集めた(拙論「難民」は、第12章として収録された)。 

「公共人類学」(public anthropology)は20年ほど前にアメリカで広まった。その提唱者であるJ. ピーコックは、”Public or Perish” と言ったという。この意味は、「公共的でなければ、滅亡」。アメリカの大学では指導教員が大学院生に「Publish or Perish」(論文を書かなきゃ、ダメだぞ)とよく言うらしい。それをもじった”Public or Perish”は、学問のあり方を批判する言い方で、学問が社会と結びついていなければ、社会的に評価されなくなり、予算もカットされ、やがて人類学は消滅するという強い危機意識があったのである。

 では、日本語教育はどうであろうか。アメリカで「公共人類学」が議論されている頃、日本でも同じような議論があった。それは、大阪大学名誉教授で、社会言語学者の徳川宗賢先生の問題提起である。日本語教育にも深く関わっていた徳川先生が言語研究、言語教育に対して深い危機意識があったのであろう。

 徳川先生は次のような課題を指摘する。「言語障害を持つ人」の手話を含むことばの課題、アイヌやニューカマーなどの少数言語を話す人の言語問題、また日本国内の方言の捉え方の問題、地球上で絶滅寸前の小言語の使用者をどう扱うか、小言語を保持していくのがいいのか、それとも効率のいい言語に乗り換えた方がいいのか、さらに、手話や少数言語、方言を使うことや、逆にそれらのことばを使わないことがその人のことばとアイデンティティに密接に結びついていると指摘する。また、老人と若者の、言語行動に対する相互の否定的な評価が老人に対する言語的差別の問題へ関連すること、女性語と差別、言語と職業差別の問題、官庁の情報公開がもたらす言語的不利益など、言語階層性の問題、リテラシーの捉え方、言語仕様の実態など、これまで言語学が取り上げてこなかった課題やテーマを列挙して、「ウェルフェア・リングイスティクス(Welfare Linguistics)という言語研究のあり方を問題提起されたのである。

 徳川先生は次のように指摘した。

「言語研究が楽しい、真理の追求をしていればいいと言ってばかりいずに、それも大切だが、社会に貢献することも考えるべきではあるまいか。そしてこれまでの研究成果をどのように社会に役立てるか、足りないところはどこなのか、そういうことを考える時期になっている」(徳川,1999:90)。さらに、「研究者は、世の中に関係なく、ただ学問をしていればいいという時代は終わったと言えるのではないでしょうか。」と述べ、言語研究のパラダイム転換の必要性を主張した。

*徳川宗賢(1999)「ウェルフェア・リングイスティクスの出発」『社会言語科学』2(1),89-100。

 「公共日本語教育学」を私が構想したのはこの発言も影響している。早稲田大学大学院日本語教育研究科(日研)は、2001年に開設され、設立15周年を迎えようとしていた。そこで、2015年に、当時、日研の研究科長であった私は、「公共日本語教育学」を日研の研究テーマに据えて、設立15周年記念事業の企画を立てた。その一つが、井深ホールで開催された「日本語教育研究科設立15年記念シンポジウム」である。当時の日本語教育学会長の伊東祐郎氏を招いて講演をお願いした。このシンポジウムの成果は、日研紀要『早稲田日本語教育学』20号(2016)に「日研設立15周年特集」として公開された。

 ただし、振り返って正直に言えば、このシンポジウムは物足りなかった。なぜなら、「公共日本語教育学」といっても、登壇者の理解も問題意識もバラバラで、深まりが足りなかったからだ。少なくとも私にはそう感じられた。そこで、2016年度に「公共日本語教育学」をテーマした「講演会シリーズ」を5回開催し、研究科内外の研究者を巻き込んで、「公共日本語教育学」について勉強を重ねた。

この「講演会シリーズ」の準備段階で、学内外から専門家の講演を含め、本を作ろうと考えていた。また、日研が行なってきた日本語教育の実践は、年少者日本語教育をはじめ社会に貢献する実践であり教育研究であるという意識があったので、「公共日本語教育」の視点から日研の実践も捉え直し、それらの実践も本に収録したいと考えた。

 「講演会シリーズ」には、文化人類学の山下晋司先生(東京大学)、政治学の齋藤純一先生(早稲田大学)、発達心理学の石黒広昭先生(立教大学)、社会言語学のイ・ヨンスク先生(一橋大学)、日本語教育史の平高史也先生(慶應義塾大学)に、「公共日本語教育学は可能か」というテーマをめぐり、それぞれの立場から講演をお願いした。どの講演会も会場は満杯で、講演内容も示唆的で興味深く、公共日本語教育学を考える上で大変参考になった。毎回の講演内容を記録し、文字化した上で、講演者に確認していただき、本書の第1部に収録した(第1章から第5章)。企画を立てた私としても、当初の目的は十分に達成できたと思われた。

 本書の第2部は、「実践から、公共日本語教育学を考える」と題して、日研教員や日研修了生の実践研究を掲載した(第6章「学校現場から考える」、第7章「歴史の中から考える」、第8章「教室空間から考える」、第9章「ネットワークから考える」、第10章「専門性から考える」。それぞれに三つの論考・実践報告を入れた)。最後の第3部には、「公共日本語教育学の構築へ向けて」(第11章「日本語教育学における「公共性」を考える」、第12章「公共日本語教育学の地平」)を配した。本書に関わった日研教員と日研修了生は合計23人。ゲスト5人を加えると総勢28人になる。

本書の刊行は、日研の設立15周年記念事業として企画された。その成果を刊行する前に、2017年3月に「早稲田大学日本語教育学会」で「公共日本語教育学の構築―日本語教育を再考する」と題したパネルセッションを実施した。広く宣伝したので、学外からも多くの参加者がいた。販促活動は、これで完璧だった。

このパネルを経て、同年5月に早稲田大学で開催された「2017年度日本語教育学会」で本書は「出版発表」された。学会の会場校である早稲田の日本語教育集団がどのような日本語教育を標榜しているか示す絶好のチャンスであった。

出版社によれば、平積みしていた本書が飛ぶように売れたという。急遽、会社にあった在庫を全部運んできたが、すべて大会中に売り切れたという。今年3月、出版社から本書の電子図書化を提案された。本書が国内外から注目され、読み続けられているからであろう。「公共日本語教育学」の理念がようやく市民権を得、裾野が広がってきたと言っていいだろう。

日研は2025年に設立25年を迎える。2026年の設立25周年記念事業でどのようなメッセージを発するのか、注目される。そのメッセージを出せなければ日研は「滅亡」するだろう。なぜなら、”Public or Perish”なのだから。


 



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