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MY BOOK REVIEWS⑨「移動する子ども」という記憶と力―ことばとアイデンティティ

   このシリーズの9冊目にレビューする書籍は、川上郁雄編著『「移動する子ども」という記憶と力―ことばとアイデンティティ』(2013、くろしお出版)。

 この書籍は、私の「移動する子ども」研究において、ターニング・ポイントとなる書籍でもあった。それは、なぜか。

 本書の「序」は「思想としての「移動する子ども」」と題した。少し引用してみよう。

「本書は、幼少期より複数言語環境で成長した子どものことばとアインデンティティをどう捉え、どのように育んでいくのかをテーマにした書である。どの章も、さまざまな実践や調査、経験に基づく論考で、「移動する子ども」をめぐる新しい視点や議論を提示している」(p. ⅳ)。

  この書には、私を含む16人が書いた16本の論考が16章となって収録さている。「移動する子ども」を軸としてまとめられているのである。

「序」は、続く。

「日本の学校等で日本語を学びながら成長している子どもたちへの日本語教育や、日本国外に暮らしながら親の言語である日本語を学ぶ子どもたちへの日本 語教育については、これまでも多様な実践研究や議論があった。ただし、それらの研究では、子どもにいかに日本語を習得させるかに焦点があたりがちであった。それに対して本書は、子どもがどのような関係性の中で日本語を学んでいるのか、子ども自身が自分の日本語や日本語学習についてどのように考えているのか、また、日本語を使用した経験や学んだ経験はその人のアイデンティティや人生にどのように関わっていったのかなどについて深く掘り下げようとしている」(p. ⅳ)。

 では、私はなぜこのようなテーマで本を編もうと思ったのか。この本が刊行された2013年から20年ほど遡る。当時、私は大阪大学大学院の博士課程の学生で、オーストラリアのクィーンズランド大学へ留学した。その後、クィーンズランド州教育省に日本語教育の専門家として勤務した。その3年余りの豪州滞在の間、私の娘は英語もわからないまま、学校へ通った。小学校の1年生のとき、英語を第二言語として学ぶ子どもを指導するESL(English as a Second Language)の先生が週に1回、学校にやってきて、「取り出し指導」で娘に英語を教えてくれた。一方、娘は土曜日には日本語補習授業校(補習校)に通い、日本の教科書で勉強した。補習校は「帰国する子ども」(実際は帰国しない子どもも含む)が日本語を忘れないように指導するので、日本語教育では「継承語教育」のカテゴリーに入る。私が教育省の勤務を終えて、日本に帰国すると、娘は関西の地元の小学校に編入し、「帰国子女」と呼ばれた。「関西弁が早くて、わからへんわ」と娘は戸惑った。

 1990年代前半の当時の日本では、「日本語指導が必要な外国人児童生徒」の教育がようやく注目されてきた時期だった。これらの子どもへの日本語教育のあり方を研究しながら、「日本語指導が必要な外国人児童生徒」と私の娘は、別々の「事象」ではなく、この時代を反映している「現象」なのではないかと思うようになった。その共通点が「移動」であると考えた。そこから、「移動する子ども」というタームを思いついた。

「序」の最後には、次のように記されている。

「本書は、子どもに日本語をいかに効率的に学習させるかよりも、子ども自身が主 体として複数の言語と向き合い、どのように生きていくのかという課題を主題にしている。それらの子どもたちは、幼少期より複数言語環境で成長したという記憶と力を自分自身の中に持ち続けながら、同時にその記憶と力への意味づけを自分の置かれた社会的な力関係の中で変化させながら、成長し、大人になっていく。つまり、記憶と力が黄身となる、「移動する子ども」という卵を腹の中に抱えながら、子どもは大人に成長し、さらに、大人になってからもその卵への意味づけを考え続けていくのである。

 幼少期より複数言語環境で成長する子どもの生をこのように捉えることは、21世紀の人間のあり様と人間そのものの理解に通じ、それゆえに21世紀の人間社会のあり様と人間社会そのものの理解に通じる。このような意味において、「移動する子ども」とは私たちが生きていくための思想なのである。したがって、幼少期から複数言語環境で成長したという記憶と力が成長過程でどのように意味づけられ、個々の生活や生き方につながっていくのかという「移動する子ども」のテーマは、年少者日本語教育研究の新しいステージを切り開くものであるだけはなく、幼少期から老齢期まで続く複数言語教育の大きなテーマになることを示唆しているといえよう」(p.ⅵ)。

 ここで、「記憶と力」というタームや「幼少期から老齢期まで」と発想したのは、2010年に刊行した『私も「移動する子ども」だった―異なる言語の間で育った子どもたちのライフストーリー』(くろしお出版)で、複数言語環境で成長した大人にインタビューしたことが背景にあった。そのインタビュー調査をした際、子ども時代の記憶が30代や40代、50代になっても続いていることを知った時は、衝撃を受けた。それだけではなく、複数言語環境で成長した経験と記憶を、その後の人生において「生きる力」に変えていくことが必要であり、そこに子どもや成人(親)への教育の可能性があると確信した。

 この「序」に書いた「卵の黄身」のメタファーはわかりにくいかもしれない。その「答え合わせ」は「あとがき」に書いたが、その前に、上のような「本書の刊行の理由」を説明するためには、これまでの研究のレビューをし、本書の意図を位置付けないといけないと考え、第1章「「移動する子ども」学へ向けた視座―移民の子どもはどのように語られてきたか」を書いた。そのねらいも、「序」から見てみよう。

「第1章では編者である川上が移民の子どもが既成の研究領域の中でどのように語られてきたのかについて批判的に検討を重ね、そのうえで、「移民の子ども」という名付けによる実体概念ではなく、幼少期より複数言語環境で学び成長したという記憶と力として捉える「移動する子ども」という分析概念の考えを示し、 新しい「移動する子ども」学への基本的視座を提示した」(p. ⅳ)。

 つまり、本書のタイトルにある、「「移動する子ども」という記憶と力」という捉え方は、私の「移動する子ども」研究のターニング・ポイントであることを明確に示したかったのである。それまでも「移動する子ども」というコンセプトは、「空間の移動」「言語間の移動」「言語教育間の移動」という3つの要素からなることを述べてきたが、その3つの要素が重なる核にあたる部分には「幼少期より複数言語環境で成長したという経験と記憶」があると明確に述べたのは、本書が最初であった。

 ただし、このような捉え方を説得的に述べるには、これまでの過去の研究がどのように子どもを捉え、行われたのか、また従来の捉え方では捉えきれないことがあるのかを論じなければならない。

   そのため、この第1章の目的を以下のように記した。「これまで移民に関するそれぞれの学問領域の先行研究の中で、移民の子どもがどのように語られてきたかを検討し、そのうえで、移民の子どもの主体的なあり方と言語教育実践を考えるために、「ことばとアインデンティティ」をテーマにした研究の課題を検討し、「移動する子ども」学への新たな研究視点と方法論を提示することを目的とする」(p.2)と述べた。

  簡潔に言えば、1990年代に多用され、現在も使用されている「日本語指導が必要な児童生徒」や、社会学、教育社会学、文化人類学、歴史学などで使用されている「在日朝鮮人」「在日コリアン」「中国帰国者」「ニューカマー」「日系ブラジル人」「日系ペルー人」「マイノリティの子ども」「帰国子女」「文化間移動をする子ども」「外国につながる子ども」「外国にルーツを持つ子ども」「海外在留邦人子弟」「国際児」など数えきれないほどの名称があるが、それでは、捉えきれないリアリティ、それゆえに研究すべき領域があることを問題提起したかった。

中でも最も主張したかったのは、子どもの主観的な意識である。

「「移動する子ども」のことばとアイデンティティを育む実践とは、移民一世から見て子どもを「名付け」る実践ではなく、また、子どもに親の複数の国籍や複 数のエスニシティからひとつを子ども自身に選び出させ「名乗」らせる実践でもなく、日々の「ことばの教育」の中で、子どもにとって意味のある場面で、子どもにとって意味のある他者へ向けて、子どもにとって意味のある内容をことばで表現することの中から、子ども自身がことばの力とアイデンティティを獲得していく実践なのである。そして、それこそが、日本語教育としての「第二言語教育」「継承語教育」の枠を超えて、21世紀にふさわしい複数言語教育の「移動する子ども」学へ向けた視座となろう」(p. 38)。

   これを論じるために、第1章は400字詰原稿用紙なら100枚を超える、やや長めの章となった。ある大学の先生が、大学院で「子どもの日本語教育」の講義で、この第1章をテキストとして学生に読ませていると話してくれたことがあった。そういう利用の仕方もあるのかと、感心したし、嬉しかった。

本書は、この第1章に続いて、3部構成となっている。

第1部 「移動する子ども」という記憶 (第2、3、4、5、6章)。
第2部 「移動する子ども」という主体 (第7、8、9、10、11、12章)。
第3部 「移動する子ども」という意識のゆくえ   (第13、14、15、16章)。

本書には私の研究室で学んだゼミ生だけではなく、国内外の研究者の論考も集めて、編集した。どの論考も、力作ばかりである。その結果、全部で370ページを超える大部な書になった。

  最後に「あとがき」にも触れておこう。「あとがき」は、「新しいステージにたつ「移動する子ども」」と題した文章だったが、そこでも、本書のタイトルに込められた意図が記されている。一部、紹介しよう。

「本書のタイトルにある「記憶と力」について改めて述べておこう。幼少期より複数言語環境で成長する子どもにとって、成長過程で複数の言語を使用した経験や複数言語を通じて他者とやりとりした経験は、記憶としていつまでも残るものである。一人ひとりの日本語能力には差があるかもしれない。大人はバイリンガルとしての高度な言語能力を育成する教育をめざすかもしれないが、子どもの意識はそれとは別次元にある。一人ひとりの子どもが感じる自らの複数言語能力についての意識は成長とともに変化していく。子どもの居場所や社会的環境の変化の中で、幼少期より複数言語を使用した経験と記憶はいかようにも意味づけられ、残っていく。時にその意味づけは子どもの生にプラスにもマイナスにも働き、成人して老いるまで永続する。本書の「序」で、私はその経験と記憶の中心を「卵の黄身」にたとえて表現した。その卵はけっして孵化しない卵である。孵化しないというのは、経験と記憶が人にとってどのような意味があるのかについて正答はなく、人生を終えるまでわからないという意味である。しかし、その経験と記憶を人生の中で意味づけることによって、そこから生きる力がわくことも確かであろう。経験と記憶が生きる力の源泉にもなりうるのだ。栄養価の高い「黄身」が卵の中心にあるように、そして、その経験と記憶はその人を形づけ、アイデンティティを再構築し、人生を生き抜く力を生み出していく。したがって、複言語で育つ子どもの主体育成の言語教育の中心的課題となるはずである」(中略)。

「幼少期より複数言語環境で成長する子どもたちは今や、多様な研究領域の研究者が注目する研究対象となった。その中で私たちが重きを置くのは、ことばの教育である。ことばを視点に、家族、学校、地域の中で成長する子どもの生を考えることが、ひいては幼児から老人までの新しい人間研究、そして21世紀の人間社会のあり方を問うことにつながると考えられるからである。ことばの教育を学校文脈だけの議論に終わらせてはいけない。本書の研究群はそのことを示している。その意味で、本書をもって年少者日本語教育は新しいステージに入ったといえよう。多くの方々との熱い議論と新しい実践が広がることを願う」(p. 374)。

    本書は、リテラシーズ研究会が企画するリテラシーズ叢書の第二弾として、くろしお出版から刊行された。

 「移動する子ども」という経験と記憶の議論は、その後、大きく展開していく。それについては、また別の記事で述べることにしよう。



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