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MY BOOK REVIEWS ④海の向こうの「移動する子どもたち」の日本語教育―動態性の年少者日本語教育学

 このシリーズの4冊目にレビューする書籍は、川上郁雄編著『海の向こうの「移動する子どもたち」の日本語教育―動態性の年少者日本語教育学』(2009, 明石書店)。

この本は、2009年に刊行した『「移動する子どもたち」の考える力とリテラシー―主体性の年少者日本語教育学』(明石書店)と同年に刊行した、「移動する子ども」シリーズの第3弾として編んだ本である。この本のカバーデザインも、桂川潤さんにお願いした。海の向こうをイメージする青色が印象的。

 内容は、前著と同様に、私の論考のほかに、大学院日本語教育研究科の院生や修了生たちの論考をまとめたものである。本書は4部構成。10本の論考が、以下の4部に分けて収録されている。

「第1部 動態性の日本語教育」。
「第2部 「継承日本語教育」を考える」。
「第3部 「外国語教育としての日本語教育」を問う」。
「第4部 日本語教師の学びから年少者日本語教育を考える」。
と続く。

第1部には私が書いた「第1章 動態性の年少者日本語教育とは何か」を収め、続く第2部から第4部まで(第2章から第10章)、9人の院生や修了生が実践研究を踏まえて書いている。

さて、この本の中心的なテーマは、<動態性>である。この動態性には多義な意味合いがある。第1章の冒頭に、その動態性を考える例が載っている。

2008年、私はシドニーで次の4人の高校生にインタビューした(p.16-17)。

・さゆり:東京生まれ。中学校まで東京で育った。中学を卒業する前に、突然、父親がオーストラリアへの移住を宣言、一家はシドニーにやってきた。
・ジェニー:オーストラリア生まれ。小さい時に、ヨーロッパ系移民の血を引くオーストラリア人の両親とともに、父親の仕事の関係で来日し、その後、10年以上、日本で暮らした。日本では公立小学校へ通い、日本人の子どもたちとともに中学まで過ごした。そのため、日本語の力は普通の日本人高校生と変わらず、よく日本語を話す。
・ミカ:日本生まれの日本人だが、小さい時に両親とともにイギリスへ渡り、平日は現地校、土曜日は日本語補習校へ通った。中学生になって、1年ほど日本に帰り、インターナショナル校へ通ったが、すぐに家族でシドニーに移住した。
・キム:  いわゆる在日コリアン3世で、中学まで日本で育ったが、英語を学びたいと思い、単身でシドニーにやってきた。まだ英語に苦労していた。

この4人には共通点があった。4人は、当時、オーストラリアに来て、まだ1年以内であった点だ。そして、土曜日の補習校の「日本語クラス」に通っていた点も共通だ。つまり、この4人は、週日は現地校に通い、英語で学びながら、土曜日には補習校で日本語で学んでいた。インタビュー中、この4人は、流暢な日本語で話していた。

 シドニーが位置するニュー・サウス・ウェールズ州の教育省は、これらの生徒をバックグランド・スピーカー(Background Speakers:日本語背景を持つ生徒)と呼ぶ。現地の学校で外国語(LOTE: languages other than English)として日本語を学ぶ子どもと区別し、テストや大学入試で「公平に」扱うという、「公平性」の観点から名付けられている。しかし、そのようなくくり方(「名付け」)で4人の生徒をまとめても、生徒一人ひとりの生のリアリティを理解したことにはならないだろう。

 この4人がシドニーに来るまで、どのような生活をしていたか。その生活を理解するには、彼らの「移動の軌跡」を見る必要がある。そこには、生徒の成長過程の「生の動態性」があるだろう。

動態性には、まだ他の含意がある。

これまでの「移動する子ども」シリーズの書籍の中で、「移動する子ども」の要件として、「空間を移動する」「言語間を移動する」を指摘した。本書を編む際、さらに、その要件に「言語教育カテゴリー間を移動する」という3つ目の「移動」があることに気づいた。「言語教育カテゴリー」というのは、私が作った造語である。

ポイントは、これらの生徒の場合で言えば、現地校では英語で学び、補習校で日本語で学ぶという生活がある。この現実は、今までもあったことで、それは普通のこと、ありふれたことと考えられるかもしれないが、私が注目したのは、それぞれの学びの場で、子どもたちは、異なる言語で「考える」という体験をしているという点である。つまり、「Aという言語で考える学びの場」と「Bという言語で考える学びの場」の間を、子どもは日常的に「移動」しているのである。それが、「言語教育カテゴリー間を移動する」という意味あいである。

つまり、これらの子どもの「学び」には、「言語教育カテゴリー間を移動する」という動態性があるのである。

動態性の議論はまだ続く。

次の動態性は、これらの生徒の「ことばの力」の動態性である。Aという言語を使用する時の「ことばの力」も、Bという言語を使用する時の「ことばの力」も常に動いている。さらに、A言語とB言語が独立して動いているわけではなく、両者が相互に影響し合いながら、一体となって「ことばの力」を形成していく。また、子どもの成長過程で、多様な環境の変化や移動を経験する中で、「ことばの力」は変化していく。つまり、「ことばの力」には常に動態性があるのである。

これらの生徒の「ことばの教育」実践では、この「ことばの力」の動態性に直面する。

さらに、動態性の議論は続く。
日本語教育の実践において、生徒の多様な言語資源が複合する「ことばの力」を感じるのは誰かと言えば、それは教師(実践者)であろう。教科書の内容を教えることに専念する教師の場合、生徒の「ことばの力」に気づきにくいかもしれないが、生徒が伝えたい/表現したい内容は何だろうと、常に生徒と向き合う教師は、生徒の「ことばの力」を常に意識するだろう。その教師の意識に影響するのは、教師自身が持つ「ことばの力」観、実践観、子ども観などであろう。

つまり、生徒の「ことばの力」に向き合う教師は、それまで培ってきた自身の「ことばの力」観、実践観、子ども観などに関する意識をもとに、生徒と向き合い、生徒の「ことばの力」を把握しようとするのだが、それが必ずしも成功するとは限らない。成功しない時、教師は自身の「ことばの力」観、実践観、子ども観などの意識と向き合うことになる。

なぜなら、子どもの「ことばの実践」に向き合う教師は、子どもの反応や刺激を受け止めざるを得ないため、教師側の意識の変化が起こるのである。それが、つまり、教師側の動態性である。その教師側の動態性には、教師自身の人生や経験の意味づけが影響しているだろう。その意味づけは、固定的なものではなく、実践を積み重ねる中で、変化し続けるものなのである。

   このように考えると、ハイスクールの生徒だけではなく、成長過程で、3つの移動(前述の「移動する子ども」の3つの要件)を経験する子どもの場合、子ども自身にも動態性があるし、その子どもに日本語教育実践を行う教師側にも動態性があることになる。では、その両者の関係性は何か。

 それは、主体的に生きようとする子どもとその子どもを理解して主体的に実践を行おうとする教師との間の、相互主体的な関係性。さらに、それはどちらが欠けても実践は成立しないという意味で、相互構成的な関係性となる。

さらに、お互いが相手を理解し合おうと意識する力が働く相互主観的な関係性と言っていいだろう。

 このような考察を踏まえて、「移動する子ども」の日本語教育実践に何が必要かについて、第1章では次の点が挙げられている。

「子どもの背景と現在の様子の把握」。
「子どもの発達の観点」。
「子どものことばの力にあった実践をデザインする観点」。
「子どもと実践者の関係」。
「主体性の育成と実践の動態性」。

これらの諸点は、冒頭の生徒たちを含み、国内外のどこに住んでいる子どもであっても、子どもの日本語教育実践の本質であり、どの年齢の子どもにも通じる観点であろう。つまり、動態性の視点を抜きにして、これからの子どもの日本語教育は考えられないのである。

このことは、本書の2章以降の論考にも強く反映している。それらの論考の実践や調査地は、タイ、ペルー、イギリス、アメリカ、オーストラリア、韓国、ハンガリーと世界各地に及んでいる。「移動する子ども」の視点に立つと、継承語教育、外国語教育などの既成のカテゴリーを超えた、もっと広い領域があることに気づくだろう。

ここまで来ると、年少者日本語教育の実践論の本質が見えたと、私は思った。この考えは今も変わらない。ただ、ここで研究は終わらなかった。「移動する子ども」シリーズの3冊の本を刊行した後、新たな問題意識が生まれてきた。これまで、幼少期より複数言語環境で成長した子どもの日本語教育について実践を通じて集中的に研究を進めてきたが、では、その子どもたちが成人するとどうなるのか。あるいは、成人後、自身の幼少期を振り返ると、どのように見えるのか。

そう思って先行研究を見ると、そのような研究は皆無であった。ここから、新たな「移動する子ども」の調査研究が始まった。どのような調査だったのか。次回は、その調査について述べたいと思う。



 

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