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「移動する子ども」/メモランダム⑤

 前回に続き、今井むつみ・秋田喜美著『言語の本質―ことばはどう生まれ、進化したか』(2023、中公新書)を読む。今回は、第6章のタイトルは、「子どもの言語習得2―アブダクション推論篇」。ただし、以下は本書の要約ではない。私の研究に参考になるところのメモである。詳細を知りたい方は、本書を実際に読まれることを薦める。

 まず確認するのは、「基本的にすべてのことばは抽象的である」(p.176)。なぜなら、「それぞれの単語の意味は、それぞれの言語固有の体系の中で、どのような基準でどのくらい細かく分割するか、その単語を取り巻く他の単語群とどこで境界を引くかに依存するからである」(p.176)。

 これは少し考えればすぐわかる。私が初めて英語を学んだ中学生のとき、「男の兄弟」は英語ではbrother(s)というと習った後で、日本語の兄は、英語ではelder brotherといい、弟はyounger brotherというと習った。その時、私は、「英語は面倒やなー」と思った。なぜなら、日本語なら兄、弟と1語で表せるのに、英語は2語で表さないといけないからである。

 しかし、上の説明を知れば、言語固有の体系の中で、単語を取り巻く他の単語群とどこで境界を引くかという抽象化の違いであるということがわかる。外国語学習では、学習者は常にこの現象(言語固有の境界)に直面しているのであろう。

 同時に、「兄:elder brother」といったように、「それぞれのことばは一つの対象とのみ結びついているわけではなく、広がりがある。つまりことばの意味は点ではなく、面である。では面の範囲はどう決まるか。同じ領域に属する他の単語との関係性によって決まるのである。対象を「点」として知っていても、「面」の範囲がわからなければ、ことばを自由に使うことはできない」(p.178)。

 外国語学習をした人なら、この説明はすぐに合点がいくだろう。だから、外国語学習は簡単ではないとも言えよう。

 では、3歳くらいの幼児はどうやって、言語を学習しているのであろうか。本章は、この疑問について、オノマトペ、名詞学習、動詞学習とたくさんの事例を取り上げて考察する。

 そこで出てくるキーワードがある。その一つが、「ブートストラッピング・サイクル」。

ブートストラッピング・サイクル

「ハルナッド*が指摘したように、身体にまったくつながらない記号をいくら集めても、言語を習得することはできない。しかし、感覚・知覚につながったオノマトペをやみくもにたくさん覚えても、やはり複雑な構造を持つ言語の体系には到達できない。」(p.193)と、著者らは述べた上で、言語習得において、「ブートストラッピング・サイクル」が働いているのではないかと提案する。

*スティーブン・ハルナッド(S. Harnad)。「記号接地問題」を提唱した。

 まず、この語の説明である。

「くつ(ブーツ)の履き口にあるつまみ(ストラップ)を自分の指で引くと、うまく履くことができる。そこから、<自らの力で、自身をより良くする>という比喩に派生し、やがて言語習得の分野の学術用語になった」(p.193)という。

 これを著者らは4歳児の実験を使って説明する。例えば、動詞「・・テイル」を子どもがどのように気づき、他の動作にも使えるようになるかという実験である。

「「ている」形のことばとはモノではなく、モノから切り離した動作を指すという洞察が得られる。すると、もはや、モノの違いに惑わされず、同じ動作に動詞を適応することができるようになるのである。たった4回のトライアルで4歳児はこの洞察に至り、動詞というものがあることを知るようになるのだ」(p.202)。

これがどういう意味として重要なのか。著者は言う。

「子どもはこのように、足がかりがあれば、そこから学習を始め、知識を創っていく。そのとき子どもがしていることは、「教えてもらったことの暗記」とはまったく異なる。今もっている資源を駆使して、知識を蓄える。同時に学習した知識を分析し、さらなる学習に役立つ手がかりを探して学習を加速させ、さらに効率よく知識を拡大していく。その背後にあるのがブートストラッピング・サイクルである」(p.202)。

さらに、「ブートストラッピング・サイクルによる学習では、知識はつねに再編成され、変化を続けながらボリュームを増し、構造も洗練されていく。節目節目で重要な「洞察」が生まれ、「洞察」が学習を大きく加速させたり、概念の体系を大きく変化させたりする。つまり、言語習得とは、推論によって知識を増やしながら、同時に「学習の仕方」自体を学習し、洗練させていく、自律的に成長し続けるプロセスなのである」(p.204)と言う。そして、次のようにまとめる。

「このような仕組みがあればこそ、子どもはほとんど知識を持たない状態から始めても、自分の持てるリソース(感覚・知覚能力と推論能力)を使って端緒となる知識を創り、そこから短期間で言語のような巨大な知識のシステムを身体の一部として自分のものにしていくことができるのだ。そしてこれこそが、記号接地問題を解決する方法なのである。」(p.204)

アブダクション

この章のもうひとつのキーワードが、これである。著者らは、上のように、子どもがどのように自律的に学習するかというメカニズムを考察してきたが、ここで、「そもそもどのようにして新しい知識は獲得され、洞察は生まれるのか」、そして「子どもが言語を学習する能力には根本的に何が必要なのか」という新たな疑問を提示する。端的に言えば、「知識を使う力」は、どこから生まれるのか。

 そこで取り上げられるのが、倫理学の考え方である。「演繹推論」「帰納推論」「アブダクション推論」の三つである。「演繹」と「帰納」はよく聞くが、それに「アブダクション推論」を加えたのは、哲学者のチャールズ・サンダース・パースだった。

 ここでいう「アブダクション推論」は「仮説形成推論(abduction)」のこと。一つの規則を全体に当てはめて結論を述べる「演繹推論」は常に正しい答えを導く。それに対して、多くの事例を集め、そこから規則を発見し、結論を述べるのが「帰納推論」であるが、常に100%正しい答えに達するわけではない。同様に、「アブダクション推論」も観察して得たデータを説明するために仮説を形成する推論である。例えば、観察不可能な何かを仮定し、直接観察したものと違う何かを答えとして推論するのである。よって、「帰納推論」「アブダクション推論」によって導かれるものは「仮説」にすぎない。

 しかし、ここで注目するのは、次の点である。「この三つの推論のうち新しい知識を生むのは、帰納推論とアブダクション推論であり、演繹推論は新たな知識を創造しない」(p.210)点である。

 では、これがなぜ言語習得と関係があるのか。著者らはその例として「ヘレン・ケラーとアブダクション推論」として考察している。つまり、ヘレンの有名なエピソード、サリバン先生がヘレンの手を水に当ててwaterとヘレンの手に綴ったとき、ヘレンが「すべての対象、モノにも行為にもモノの性質や様子にも名前がある」という洞察を得たのは、アブダクション推論であったと説明する。

「子どもが言語を習得する過程で、「名詞は色や素材や大きさではなく、形の類似性によって一般化される」、「動詞は動作をする人や動作の対象ではなく、動作自体の類似性によって一般化される」という洞察が生まれる」(p.214)。

 例えば、母親が皮を剥いて1口大に切ったものとテーブルの上の赤いモノが「りんご」とわかったり、父親が早く動いたり犬が勢いよく動いたりすることを「走る」と気づいたりすることを想像してみよう。

もちろん、いつもうまくいく訳ではないが、これがアブダクション推論による洞察であり、これによって語彙の学習が飛躍的に加速し、言語の習得が進むという。

 ここで著者らは次の点を強調する。

「必ず一つの正解が決まる演繹推論と異なり、帰納推論とアブダクション推論は、絶対正しい正解が決まらない推論である。だから新たな知識を創造するのだ。このことは大事なことを意味する」(p.217)。

さらに、「知識を創造する推論には誤りを犯すこと、失敗することは不可避なことである。それを修正することで知識の体系全体を修正し、再編成する。この循環が
システムとして言語の習得にも、科学の発展にも欠かせない。ブートストラッピング・サイクルによる学習は、単に新しい知識を生み出すことだけではなく、新しい知識を生み出すことによって既存の知識のシステム全体を再編成し、よりよいものに進化していくプロセスが含まれるのである」(p.218)。

 本書は「第1章 オノマトペとは何か」から始まったが、第7章の次のことばが印象的であった。

「人間はあることを知ると、その知識を過剰に一般化する。ことばを覚えると、ごく自然に換喩・隠喩を駆使して、意味を拡張する。ある現象を観察すると、そこからパターンを抽出し、未来を予測する。それだけではなく、すでに起こったことを遡求し、因果の説明を求める。これはみなアブダクション推論である。人間にとってアブダクション推論はもっとも自然な思考なのであり、生存に欠かせない武器である」(p.246)。

「乳児は音と対象の形などの、異なる感覚の間に類似性(アイコン性)があると感じることができる。二つのモノ同士の間の視覚的類似性を検出することもできる。そこから、統計推論と帰納・アブダクションの推論をエンジンとして用いて、ブートストラッピング・サイクルによって、感覚・知覚レベルに留まる類似性ではなく、背後にある関係の類似性を見抜き、抽象的な概念を習得したり、目では観察できない因果関係を理解したりできるようになっていく。ここで大事な役割を果たすのがことばだ」(p.247)。

 ここまで来ると、乳児や子どもだけではなく、大人にとっても、コミュニケーションや思考において、ことばがいかに重要かがわかる。つまり、言語習得においても思考、そして新しい知識を創造する上でも、試行錯誤を繰り返しながら、新しいアイデアと可能性を見つけ、考え続けていくことができるのが、人間であるということだろう。そう考えると、本書を読み、メモをとりながら考えていくこと自体が、意味のあることということか。

 同時に、本書から刺激を受けて、さまざまにアブダクション推論することも、読者には求められるのかもしれない。

例えば、本書の議論は単言語使用環境で成長する子どもや大人が中心であったし、ある言語の母語話者は一つの集団として分析されていたように思う。オノマトペの議論でも、○○語のオノマトペはこれこれで、日本語の場合はこれだという視点で比較検討されていた。もちろん、そこには個別的な特徴や共通する特徴もあり、興味深かった。

 しかし、実際は多様な環境で成長し、暮らしている人が多い。例えば、私が研究している「幼少期より複数言語環境で成長する子ども」の場合はどう考えたら良いのであろうか。複数言語に日常的に触れる子どもの場合、オノマトペのアイコン性や、どの語からブートストラッピング・サイクルが生まれ、「言語固有の境界」を把握し、複数言語の刺激から「自分の持てるリソース(感覚・知覚能力と推論能力)」をどう発揮してアブダクション推論を行いつつ、新しい知力を得て、自らの記号接地問題を解決する方法を編み出していくのであろうか。

 本書の著者らは言語学、認知心理学、脳科学などの知見を動員し、「感覚・知覚・推論・記憶」といった部分も含めて議論してきた。では、「幼少期より複数言語環境で成長する子ども」の場合も、「感覚・知覚・推論・記憶」といった部分も含めた議論も必要ではないか。それは、単言語環境で育つ子どもの場合と共通点もあろうが、違う点もあるのではないか。 

 私が提唱する「移動する子ども」学も、幼少期より複数言語環境で成長したという経験と記憶の研究である。本書の知見は、「移動する子ども」学にとっても有効な視点を提供していることは確かであろう。

参考
川上郁雄(2023).「情動の視点から見る「移動する子ども」学」『ジャーナル「移動する子どもたち」―ことばの教育を創発する』14,66-80.http://gsjal.jp/childforum/journal_14.html

付記:本書のメモランダムは、今回で終了。次はどんな本を取り上げるかな。


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