一番星、光る
12月20日、滋賀県草津市に本拠地を置く、子育て支援団体「くさつ未来プロジェクト」の代表、堀江尚子さんが亡くなりました。
私はなおさんと2回しか会ったことがありません。でも、とくにライターとして動き始めたばかりのころ、私はなおさんに多大な影響を受け(なおさんはライターではないんだけど)、普段の私からは考えられないような行動を起こすことができました。
勇気が出ないとき、なおさんを自分に憑依(というほどのことはできていないんだけど)させると、力がわいてくる。大きな決断をするときになおさんの顔が浮かんで、心の中のなおさんならどっちを選びそうか考える。私にとってこの世の指標のような、お守りのような、でもちょっとだけ目の上のたんこぶみたいな(変な言い方してなおさんごめんなさい)、そんな人。
私の勝手な計算なんだけれど、多分3000人くらいの人にとって、なおさんはそういう存在だったのではないでしょうか。芸能人にだって、そんな人いないと思う。
1回しか会ったことがなくても、ネット上でのつながりだけでも、だれもがなおさんに心をつかまれ、ゆさぶられ、背中をおされる。蹴っ飛ばされる。
ほとんど驚異といってもいいほどの、なおさんの行動力と熱量。私にとってなおさんは嵐とか、爆発とか、鬼とか、そういう表現が合う人です。そして愛。あふれるほどの愛。そしてそして笑っている。どこにいても一番楽しんでいる。飛び跳ねている。
子どもを抱っこする手はいくつあってもいい
くさつ未来プロジェクトさんは、16年前になおさんが作った育児サークルからスタートしています。
なおさんは結婚後、縁もゆかりもない草津にきて、3人の男の子を育てていましたが、ノイローゼ気味になった経験があり、そこから子育てサークルを作っていったそうです。
子育てを親だけでするのは不可能。そしていろいろな価値観を持つ大人が近くにいることは、子どもにとっても大きなプラスになると考えていたなおさん。「子どもを抱っこする手はいくつあってもいい」をコンセプトに掲げ、どんどん人と人をつなぎ、親子の居場所を増やしていきました。
もう1つ団体として大事にしていたのが、子どもが夢を持って生きるためには、まず大人が生き生きとしていないといけないということです(違ったらごめんなさい)。なおさんはまさにそれを体現していて、自分がやってみたいことをどんどん形にしていく。そしてどこにいても、その場を一番楽しんでいました。
植松電機の植松さんをご存知の方なら分かると思いますが、今各地で行われている植松さんのロケット教室を全国に広げていったのも、くさつ未来プロジェクトさんです。
草津KMPは、やはりすごい集まりです。 - 植松努のブログ(まんまだね) (hatenablog.com)
先日はフリースクールの「HOPE」をオープンさせたばかり。目標金額350万円のクラファンに805万円が集まっていました。
一育児サークル、子育て支援団体では到底到達できないところに、くさつ未来プロジェクトさんは到達していたと思います。
口コミだけで1日にして700席を満席にした女
草津に暮らすなおさんと私がなぜ接点をもつことができたかというと、きっかけは2017年頃の心屋仁之助さんのブログでした。そこからしばらくの間は私が一方的に知っているだけの間柄でした。
口コミだけで1日にして700席を満席にした主婦、と書かれていたのがなおさんです。
この記事は2015年のもので、おそらく2017年になおさんを別の記事で知ったあとに、遡ってこの記事を読んだのだと思います。
当時の私は、まさしく「やりたい」だけでライターとしてのキャリアをスタートしたばかり。自分の思いを発端とした人生を生きる。勢いだけでなんとか形にした私の信念が、なおさんによって補強されていく、そんな気がして勝手にうれしくなったのを覚えています。なおさんのブログもフォローし、いつしかなおさんと会いたい、そんなことを思っていました。
人が動いてくれなかったら、何回もお願いする
その後なおさんとご縁ができたのは、全く同じ記事をきっかけに、キーパーソン21というNPOに同時期に参加したこと。
ブログでそのことを知り、「堀江さんが同じNPOに入った!」と驚いていたのでした。
そして初めてのコンタクトは、とある媒体でなおさんと取材させていただこうと考え、連絡をとったことでした。電話取材をさせていただき、そのエネルギーに圧倒されました。
なおさんの行動原理はシンプルで、愚直にやりたいことをやる。できなそうなことは人を頼る。「人が動いてくれなかったらどうするんですか?」と聞くと、「何回もお願いする」と言って笑っていました。街頭募金がたくさん集まる理由を、立つ回数を増やして、人よりたくさんお願いしているだけ、と言っていたなおさん。
私はその取材で、なおさんのようになりたい。なろう。私も行動しよう、そう決意したのでした。
そこから私は映画の上映会をやったり、当時、麴町中の工藤校長のことをテレビで知り、一緒に本を作りたいとお声がけしたり(そのときの経緯はこちら)、PTAに入ったり。それまでの自分には考えらないほど、行動するようになりました。
しかし一方で、なおさんを見ていると、私はこんなんでいいんだっけ?と複雑な気持ちになることもありました。なおさんが恐ろしいほどの早さで進んでいるから、自分が止まっているような気になってくる。
キーパーソン21のときもそうでした。代表の朝山さんの右腕として、ものすごい早さでキーパーソン21のプログラムをどんどん広げていくなおさん。一方で力になりきれない私。
工藤校長のときもそうです。私が工藤校長と書籍を作っていたときに、つないでくれないかと頼まれたにも関わらず、私がもたもたしていると、麹町中でのロケット教室や草津での植松さんと工藤校長の大イベントが開かれることになっている。
なおさんの時間の進み方がおかしい。自分が恥ずかしくなることもよくありました。
でも、なおさんが教えてくれたことは、常に自分の内側を見ろということだったと思います。人と比べている暇があったら、自分の方に目を向けて一歩でも進もう、そう思うようにしていました。(落ち込むこともあったけれど)
怖いってことは、できるってことやん
そんななおさんに初めてお会いすることがでいたのは、2019年のこと。たまたまなおさんが東京にくるタイミングがあって、1時間くらいお茶することができました。そのときの私は今考えるとなぜそんなことに悩んでいたんだよ、って話なんだけど、PTAの役員をやるかどうか悩んでいました。
なおさんが、びっくりした顔で、「なんで?」と聞くので
「怖くて・・・」というと、なおさんは笑い、「怖いっていうことは、その絵が頭に浮かんでるってことやろ? そしたらできるってことやん。」と言う。ん?
「PTAなんてみんなやりたくないんよ。PTAやるのが怖いなんて人いないから。怖いってことはやりたいってことやし、できるってことよ」
怖いことはやりたいこと、はなんとなく分かるんだけど、「やりたい」と「できる」の間には大きな飛躍があるような気がする。でもそのときのなおさんの言葉があまりにも軽やかで、楽しそうで、私はそうなりたいと思った。怖いことはできること。うん。
今でもこの言葉は私の行動の指標になっています。
一緒に、琵琶湖へ
2023年の秋頃、ふと最近なおさんのFacebookの更新がないなと思い、なおさんの投稿をさかのぼっていたときに、体調を崩していたというような書き込みを見つけた。そうか体調を崩していたのか、治ったのだろうと思っていたら、ご友人の投稿でがんだと知る。
びっくりしすぎて、私は何かの単語を読みとばしたか、意味を読み間違ったのではないかと思って、何度も何度も読み返した。なおさんのエネルギーや生きる力はすさまじく、病気からもっとも遠いところに生きる人だと思っていたから。でもその投稿に希望があったから、私はなおさんが奇跡を起こすものだと思っていた。
10月に取材で関西方面に行くことになり、5分でもいいからなおさんに会いたいと思い、連絡した。
なおさんからの返事はなかなか来ず、諦めかけていたときに、「バタバタしててごめん!いいよ!」という返事が。よかった、元気そうだと思った。
どんな感じで会うことになるのか・・・私は緊張していた。でも指定されたのが草津駅近くのホテルで、久しぶりに顔を合わせたなおさんは、とても元気そうに見えた。ビュッフェ方式のランチを一緒に食べた。
病気のこと、治療のこと、お子さん達のこと、いろんな話をする中でなおさんは、「1週間くらい前からお腹が痛くて。でも家で寝てても痛いからさ、今日は誘ってくれてよかった。気が紛れた」と笑っていた。
ご飯を食べると痛くなるから、普段はあんまり食べないと言っていたなおさんが、おいしい、おいしいとご飯を食べていた。元気だ、よかった。と思った。
食事が終わり、「さっきなんでバスに乗ってたの?」と聞かれた。実はなおさんに会う前、南草津のホテルに泊まっていた私は、琵琶湖を一目みたいとバスで挑んでいた。でも途中までしかいけなかったという話をしたら、「あはは、バスは無理やね。車だったらすぐだから、連れて行ってあげる」という。
さすがに申し訳ないと思い、だったらタクシーで行くという私を、いいからいいからと車に押し込んだなおさん。
たどり着いた琵琶湖は、何にも視界を遮られることなく、圧倒的な大きさで目の前に広がっていた。曇っていたし、強い風が吹いていて「さむー!!!」と2人でいいながら、滞在時間は3分くらいだったと思うけれど、なおさんと琵琶湖にいることがうれしくてしょうがなかった。
その後、駅まで送ってもらっている最中、なおさんは少し痛みに耐えている気がした。お昼に食べたものが痛みを生んでいたんだと思う。だいじょぶ、だいじょぶ、となおさんは言ってくれたけれど、私は一緒に琵琶湖に行けたうれしさと、本当に大丈夫だったのか不安な気持ちが半々だった。
「夜の2時とか3時とかね、身体が回復する時間にすごく痛くなる」車のなかでなおさんはそう言った。
その痛みが身体を治すサインであってくれ、そして早くなくなってくれ、そう思った。
駅で別れるときは「ありがとね!」と笑顔で手をふってくれたなおさん。私も手を振り返してかならずまたここにきて、なおさんにまた会う。と思った。
1泊2日、取材も含めて動き回ったのに、私は新幹線で一睡もしないですむくらい、元気になって帰ってきた。事前に朝山さんから「いっぱい愛を送ってきて」と言われていたのに、またいっぱい愛をもらってしまった。何をしているんだ、と思った。
東京に戻ってからの私は、なおさんが元気でいることを想像して、Facebookが更新されないことから、目を背けていた。大丈夫だ、大丈夫であってくれ、そう思っていた。
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亡くなった日、朝山さんから連絡をもらった。やっぱり、最初に思ったことは「なんで」だった。
もっとなおさんの近くで別れを受け止めているご家族や仲間がいるのだから、私は、そう思うのだけど。だけど。だけど、おかしくないか。
朝山さんが、神様の使いだ、と書いていたのを見て、私もそう思った。じゃなきゃ計算があわない。いなくなるのが、早すぎる。
改めて、なおさんとのメッセンジャーを見返した。私は最初の方しか読み返すことができなかった。
あのときの私の方が自分を信じていた気がする。なおさんと同じになりたくて、背伸びして行動していた気がする。最近の私はびびってたな。びびってた。そう気付いた。やりたいかじゃなくて、できるかで考えてた。あほ。やらんかい。
なおさんからもらったものを、自分の中でもっと大きくします。
巨星墜つ、という表現があるけれど、私はなおさんのことを生前からずっとなぜか一番星とイメージしていて、なおさんの肉体がこの世からなくなったことをどう表現するか考えると、「一番星、光る」だなと思った。
会えてうれしかった。出会ってくれてありがとうございました。
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