12.育休を取る発表と母のうつ病。
前回の記事で無事に
育児休業を双子たちが1歳になる前日まで取れる事になった。
その後、他の社員の人たちへどのように報告するのか、
またその時は全然知らなかったが、母がうつ病を発症していた。
これらについて書いていきたいと思う。
まず編集部のみなさんへご挨拶。
社長夫妻と社労士さんとの面談のあと、とりあえず編集部のリーダーへ報告。
「大変申し訳ないのですが、来年の2月まで育休を取らせてもらってもいいでしょうか?」
少し驚いてはいたが、「しょうがないよね」というような返答だったと思う。
今思えば、育児休業は当然の権利なのでそこまで申し訳なくもないのだが
確かにかなり急な決定になってしまったことは、申し訳ない。
その後他の部内の同僚へ伝えていく。
みんな口々に「そうなんだ」的なリアクション。
唯一2人お子さんがいる男性の先輩だけが
「今しかできないことをしたほうがいい」と言ってくれた。
おそらくその方はもうそんな事言ったこと覚えていないと思うが、
僕の心にはずっと残っているしその後の人生の選択の時にも思い返す言葉のひとつだ。
その日の夜、育児休業が4月から
子どもたちが1歳になる前日まで取れる事になったと妻に報告した。
妻はとても喜んでいた。
僕も肩の荷が降りるような気持ちだった。
本当に追い込まれていたが、このしんどい勤務も今月いっぱいだと思えば
正直、全然苦しくなくなった。
編集部以外の人には数日後にある全体会議で発表という流れになった。
https://note.com/ikukyu_1year/n/n604461a28516
この記事の最後の方に書いた年に4回ある全体会議。
大掃除とセットになっていて土曜日に全員出勤する不思議な会議。
ちなみに、この会社が完全週休2日制じゃなかったので、制度上問題はない。
年間休日が110日くらいしかなかったので、
土曜日全部休むと有給がかなり削られる仕組みになっている。
3月の全体会議、大掃除をして、全体の進行の中、社長から報告事項がある。
退職をする人や部署の異動など、ここで発表される。
そこで僕の1年近くの育児休業が発表された。
「入社して間もない中、大変申し訳ないのですが、双子の育児がなかなか大変で、妻が本当にしんどそうなので、育休を取らせていただきます。また戻って来た際にはお返しできるように頑張ります。」
たしかこのような事を挨拶で言ったと思う。
すごい空気感だった。
なにせ、入社して半年も経っていない人間が育児休業を1年近く取るのだ。
「なにそれ?」と思われてもしょうがない。
まだ一緒に仕事したことがある他の部署の人は少し優しい言葉をかけてくれた。
でも本当に全然仕事したことない人たちにとっては「なんだそれ」がリアクションとしては大正解だろう。
おそらく社長の東京信仰のせいで、東京から来た僕はきっと無駄にハードルが上がっていただろうし、鳴り物入りで入った事になっていたのかもしれない。
その人間が入って半年も経たずに1年休むなんて、どうかしてる。
ただ、別にみんな悪い人じゃなかったから、僕の被害妄想なのかもしれない。
でも僕にとってはすごい空気に感じられたのだ。
そして4月1日、僕の育児休業がスタートした。
新入社員の子たちには一切会えず、入れ替わりだった。
でもその子たちが入ってくれるから、誰がやってもいいような業務を任せられたし
僕の抜けた穴は埋めてくれただろう。
そう思って何も考えず、1年ひたすら家族のために過ごそうと育児休業が始まった。
母のうつ病
一方その育休を取るか取らないか迷っていた頃、
僕の母親がちょっと様子がおかしいと妹や父から連絡が来ていた。
その話を妻にしたら、退院して2週間ほど僕の実家にお世話になっていた時にも
少し変な兆候があったらしく、それもあって早く自宅に戻りたかったらしい。
具体的には
・今まで得意だったはずの料理が全く作れない。
・些細な事が全て不安に変わっていく。
・何かを選ぶことができない。
このような症状が出ていた。
特になぜか父親の肌着が足らなくなるんじゃないかというのを
すごく不安に感じていたようで、大量に新品の男性肌着が買ってあった。
買い物に行く時について行ったが、どれだけ「大丈夫」と伝えても
「お父さんの着る服がなくなっちゃう」の一点張り。
僕の育児休業が始まる前後で心療内科にもかかるようになっていた。
原因はよくわからないが、色々生活が変わったのも大きかったと思う。
ちょうど1年ほど前に公務員だった父が定年退職をして、
少し楽な職場に再雇用されていた。週4日勤務。
それに加えて僕らの双子たちが生まれた。初孫だった。
このあたりで色々身体のリズムが崩れたのだろうか。
あとは何故か僕と妹の下にもう1人妊娠したが流産してしまった話を聞かされた。
その呪いなんじゃないかと母は言っていたが、そんな訳ない。
それで料理が作れなくなるものか。
でもきっと母の心の中には結構大きな穴として残っていたのかもしれない。
僕が31歳になるまで話さないでいた事。きっと一生話さないつもりだったのだろう。
別に僕も妹もそれを聞いても何も思わなかった。
でも母にとっては本当に本当に大きな出来事だったのだろう。
そして育児休業も始まったため、僕は母を心療内科に連れていく父に
ついていくことにした。車で病院に向かった。
朝の支度をするのも大変らしい。
かなり早起きしたようだが、少し遅れて父と母が来た。
母は一応僕の前では気丈に振る舞う努力をしていた。
しかし手が震えていたり、上手に喋れていなかったり。
僕も動揺しているのを悟られないように一生懸命、普通の振る舞いをした。
診察は待ち時間に比べたらあっという間だった。
正直、その時間先生と話しただけでどうにかなるとは思えなかった。
また2週間後に来ることを約束して診察は終わった。
帰りにみんなでうどん屋さんで昼ごはんを食べた。
意外と母も食べることはできていたようで安心したが
今日はかなり調子が良い方らしい。
その日はそのうどん屋で別れた。
その後、父とは電話などで連絡を取った。
父は父でかなり大変そうだった。
もう母はご飯も作れなければ、掃除もできなくなってしまっていた。
とにかくたくさん寝るように医者から言われているらしく
ずっと横になっているらしい。
週4日勤務とはいえ、父もまだ仕事をしている。
仕事にも影響が出ているらしい。
僕はとりあえず前にも後ろにも進まないと感じたから
父に母を入院させるよう勧めた。
次回の診察にも同行した。
入院する病院の紹介状を書いてもらい、母の入院が決まった。
母の話を書きすぎて全然僕たちの育休生活が書けなかった!
次回、この入院までの裏で僕と妻と双子たちがどんな生活をしていたのか
書いていきたいと思う。
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