目視していない映像が視える、その起点。
盲目の祖父の存在
母方の祖父の訃報を、わたしは『アシュラ』でサン・セバスチャン国際映画祭に行っているときに聞きました。
渡航の足を止めないよう、日本を発った後を見計らってくれたのだとしか思えないタイミングでした。
祖父は「晩年」というには長すぎる年月を、盲人として過ごしました。
祖父のために朗読劇をつくったことはありません。
ただ、わたしが朗読劇を書き始めた頃、常に祖父の存在が念頭にありました。
目の見えないおじいちゃんにも楽しんでもらえるもらえるものをつくりたい--。
「目視していない映像が視える」と言われるのは、ここが起点になっています。
結論①
「情景を想像すること」が朗読の醍醐味ならば、朗読脚本は「観客に情景を想像させる目的」をもって書くことが求められる。
わたしは想像しやすい文章とは何かを考えました。
以下に続ける内容は、「舞台はライブ(現在進行形で体感するもの)」であるという大前提を元に記します。
黙読するために書かれた文章は「読む」行為から「意味を理解する」ことによって物語の情景を自分の自由なペースで想像していきます。
当然、力のある俳優ならば原文を朗読するだけで観客に情景を想像させることができます。
ただ、ものによっては、どうしても「耳でとらえた言葉の意味を理解する=思考する」タイムラグが生じます。
例えば「落涙した」という文があったとします。
漢字を読めば意味は理解できます。
けれど、耳だけで捉えると「らくるい」です。
前後の文脈から「落涙」に変換して情景を理解したときには、次の音が発せられてしまっているのです。
ページを戻すことはできません。
耳が躓いたら最後、観客は置いてきぼりをくらうのです。
俳優の滑舌が悪くて「らくらい」に聞こえてしまったら、「ん? 落雷した? 流れ的にそんなことはないよな? えっと今どんな状況だった? あ、落涙か! 泣いてるってことか!」となれば、今の進行に追いつかなければいけない焦りも生じるため、悲惨です。
また小説は過去形で語られることが多いです。
過去形は、俳優が発した瞬間「説明」になってしまう危険性を孕んでいます。
「私は◯◯と思った」という心情を目の前で言われてしまったら「ああ、そうですか。わかりました」と、受け止めるしかなくなります。
過去形を一切使わないという話ではなく、そうした危険性を自覚することで、言葉選びに慎重になり「朗読独自の脚本を構造から新たに創作しよう」と思えた、という話です。
なお、過去形を一切使わずに朗読劇を表現することは不可能に等しいです。
ヒントは「映像脚本=シナリオ」にありました。
情景は絵や映像として脳に浮びます。
ならば映像を作れば良いのではないかと思いました。
映画の観客もテレビの視聴者も、意図的に置かれた回想シーンを除いて、基本的に登場人物の「現在進行形」の行動に寄り添います。
つまり……
結論②
カメラが映すもの、カメラワークに沿って言葉を並べれば、情景を思い浮かべやすい、かつ現在進行形の朗読劇になりうる。
idenshi195の朗読劇が「映画を一本観たような感覚になる」と言われるのは、上記の結論を元に言葉を並べ、声の力で画角の変化も用い映像を表現するためでしょう。
いずれ「同じ状況を表している場面が、言葉の運びを変えると想像する映像の流れが変わる」ことを具体例を挙げて説明してみたいです。
また、声で映像をつくるには緻密な韻律のコントロールが必要なのですが、[言葉の楽譜]の音楽性の話になるので、こちらはまたいつか。
ひとまず起点については、これにて。
(2021.08.30修正)
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